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パリの空の下、自力で切り拓いたパティシエへの道

唯一無二の美しいスイーツを生み出すチカラ
/Kent house plus パティシエ 小住 匡彦さん(環境都市工学部建築学科2014年卒業)

 パリのエスプリをまとった、宝石かと見まがうほどの美しさを放つ色とりどりのスイーツたち。 繊細な技巧とたぐいまれなるセンスで、この世にその芸術品を生み出し続けているのが小住さんだ。7年のフランス・パリでの生活から帰国後は、大阪市内のパティスリーでその腕を振るう毎日。若き天才パティシエとして注目を集めている。

"本当にやりたいこと"を求め、卒業と同時にパリへ

 一目見た瞬間に誰もが思わず歓声を上げてしまう、通称"Zabutonモンブラン"。印象的で忘れられない愛らしいフォルム、計算され尽くしたさまざまな味と食感のマリアージュは、日本だけでなく世界のスイーツファンをも虜にしている。この幻のケーキともいわれるモンブランの生みの親が、29歳の小住さんだ。


 父親がパティシエという環境に育ちながらも、跡を継ぐつもりはなかった。店の繁忙期でさえ、フルーツのカットなどを手伝った程度。自身がパティシエになるという選択肢は頭になく、理系科目が得意で、大学では建築を学び、サッカーに夢中だったという。「まわりが就職活動を始めた頃に、このまま企業に就職して、スーツを着て通勤して......自分にそれが毎日できるのか? と考えていました」。当時、確固たる将来像はなかったものの、子供たちのフットサルチームでコーチをしていた小住さんは、サッカー強豪国のフランスへ行きたいと思うように。それならばパリに、というのは父親の正彦さんの提案だった。「僕はサッカーができたらどこでも良かったのですが、父はひそかにパティシエになってくれたらとパリを勧めたのでしょうね」。卒業式を終え、そのまま単身パリへ。その大胆な決断に、周囲の友人たちは応援どころかあきれ顔だったという。「飛行機の中で、自分の選択を正解にするのも不正解にするのも自分自身だ、と言い聞かせていました」。

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波乱万丈なパティシエ人生のスタート

 最初は、ソルボンヌ大学の外国人クラスでフランス語を勉強しながら、現地のクラブチームに所属。サッカーを通じてフランス人の友人が増えた。次はロンドンに移り、半年間で英語も習得。語学力が急速に上がったところで「何か仕事をしてみよう」と思い立った。その時、父親がパティシエだったからという気軽な気持ちでパティスリーのアルバイトを始めたのが、小住さんの人生を変えるスタート地点に。天性の才分か、側で父親の仕事を見ていたからなのか、当初からどんな作業でも難なくこなせた。いざできるとなると楽しくなり、もっとやってみたいという気持ちがわいてきたのだ。


 そこで、世界に展開する料理菓子専門学校「Le Cordon Bleu(ル・コルドン・ブルー)」に通ったほか、パティスリーやショコラトリーへ履歴書を持参して「働かせてください」と訪ね歩き、さまざまな店でスタージュ(フランスのインターンシップ)の経験を積んだ。「L'Éclair de Génie(レクレール・ド・ジェニ)」「MICHALAK(ミシャラク)」といったパティスリーや、ショコラトリー「Patrick Roger(パトリック・ロジェ)」など日本でも名が知れた有名店も多数。「結果、10軒くらいのお店で働きましたね。その頃ようやく素直に、ケーキ作りって面白い! と夢中になりました」。しかし、その楽しさに気付いた反面、労働環境は過酷。早朝に起床、出稼ぎの外国人たちと肩を並べて電車で通勤し、激務に追われる毎日。しかもフランスのスタージュは無償が基本のため、ピアノ運搬のアルバイトやサッカーのコーチも掛け持ちして生活費を稼いでいた。また、職場でも一人だけ英語で話し掛けられたり、間違いなく伝わっているフランス語も「アジアなまりで何を言っているか分からない」と無視されたり、差別を受けることもあったという。「本当に大変だった。日本に帰りたいと思わない日はなかった」と小住さんが振り返るその下積み時代。「そろそろ日本に帰ろうかな」と思い始めた頃に、転機となる一軒の店との出合いがあった。当時オープンしたばかりの「A. Lacroix patisserie(ア・ラクロワ・パティスリー)」だ。

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A. Lacroix patisserieの店舗前でオーナーシェフと

仕事のやりがいを感じ得たパリでの日々

 「小さいパティスリーでしたが、一口食べた瞬間、ここのケーキが一番おいしいと思いました。すぐに働かせてほしいとお願いしたけれど門前払い。あきらめられず何度も通いました」。最初はアルバイトともいえないポジションから店を手伝わせてもらえるようになり、徐々にスイーツ作りを教えてもらうまでに。それから数年で、小住さんはスーシェフ(トップから2番目のポジション)として店にとって欠かせない存在になっていた。


 2017年に店は「ベスト・オブ・パリ」を受賞、一躍人気となり日本のメディアでも取り上げられるようになった頃、オーナーシェフから突然「もう店を辞めた方がいい」と告げられた。「俺の店では、俺のYesがなければお前のケーキを店に出せない。けれど他人にはもうお前のケーキがYesかもしれない」。若いうちに他の場所でもっと挑戦した方がいいという小住さんを想ったシェフからの言葉だった。


 その後、多くのパティスリーからオファーを受けたが、フランス最上級のパラスホテル(5つ星超えの称号を持つホテル)からも「スーシェフのテストを受けないか」とリクルートがあった。さすがに合格するわけがないと及び腰になりながらも、日本人らしい素材は一切使わず、王道のフランス菓子で勝負。自信作のモンブランで挑んだところ、数十人の中から見事に小住さんが選ばれたのだ。世界は一変、約130人ものシェフやパティシエたちをまとめるポジションに。一つ一つのスイーツに集中して向き合える環境で、パティシエとしても有意義な時間を過ごせたという。

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 ところが程なくして世界を襲ったのが新型コロナウイルス。小住さんも2カ月間外出できない日々を送った。「ロックダウンした時、食べてくれる人がいないケーキを作ってもむなしいだけだと思い知りました。無駄になるケーキが可哀そうで」。日本ならスイーツを作ることができる、食べてもらえる人がいる。悩んだ末、小住さんはようやく帰国を決意した。


 現在は、父親と共に実家のパティスリーを盛り上げる一方、自身の名を冠したブランドでパリの香り漂う独創的スイーツも発信し続けている。「親父は『パリに行って数年は、お前なんかがパティシエになれるものかと思っていた』と話していました」。しかし、現在の活躍ぶりは目を見張るほど。世界的な洋菓子業界誌『so good‥』に日本人最年少で掲載された他、大阪の大手百貨店催事では提示されていた予算の25倍も売り上げ、ようやく父親からも世間からも認めてもらえたと感じた。

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夢は日本人初のミシュラン・パティシエ

 小住さんが創り出すスイーツは、その見たこともない斬新なフォルムに魅了されるファンも多い。毛糸の編み目模様が美しい"Zabutonモンブラン"はじめ、どういった技法で作られるのか想像もできないものばかり。「"見たことがない"というのは、僕のスイーツ作りで大事にしていることの一つ。ビジュアルもスイーツを形成する大事な要素ですから」。その繊細な形状が壊れてしまわないようしっかりとした土台を用意し、緻密な計算で積み上げられていく過程は、大学で学んだ建築デザインの要素も少しあるかも、と笑う。


 パティシエを目指す人は製菓専門学校へ進むケースが多いが、小住さんは大学進学という珍しい回り道を経て、この天職にたどり着いた。しかし本人は「大学に進んで良かった」と語る。大学時代に得たもので一番に思いつくのは人脈だ。さまざまな職人の中でも、特にパティシエは一人ではできない職業だと考えている小住さん。パティシエにとって重要なコミュニケーションスキルを磨けたのも大学時代だそう。「関大で巡り会った仲間から得たものは、自分の中にずっとあります。友人たちからは刺激をもらったり、時にそれがモチベーションになったり。直接的に助けてくれることもありますよ」。


 夢はパティシエとしてミシュランを獲得すること。「現在、ミシュランの星を獲っているのはほぼ料理人だけ。ただ、世界にたった一人だけ、星を獲得したパティシエがフランスにいるのです。だから不可能ではないなと」。初の日本人ミシュラン・パティシエとなる夢をかなえるため、小住さんの挑戦はとどまることを知らない。

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kent house Plus本店(大阪府大阪市東成区)にて
小住さんから関大生へのメッセージ


出典:関西大学ニューズレター『Reed』66号(9月17日発行)