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【執行部リレーコラム】祇園祭

2017.08.04

副学長 吉田宗弘

 京都市中心部の7月は祇園祭一色になります。京都市民以外の方は祇園祭と聞くと、16日の宵山と17日の山鉾巡行を思い浮かべると思いますが、実際は1日の吉符入りから31日の疫神社夏越祭まで、ほぼ毎日のように行事が連なっています。メインイベントの山鉾巡行は、17日夕方に行われる神幸祭(八坂神社から3基の神輿が出てきます)の厄払いとして行われるものです。厄払いとしての巡行は、24日の還幸祭(八坂神社に神輿が還ります)の前にも行われ、17日を前(さき)の巡行、24日を後の巡行としていましたが、1966年に観光および交通上の理由によって17日に合体させられていました。2014年に関係者の熱意が実り、33基の山鉾中10基が本来の24日に回ることで後の巡行が復活し、八坂神社の神輿のための厄払いという巡行の意義が取り戻されました。
 2つの巡行は、それぞれの宵山などを合わせて「前祭」と「後祭」といわれています。後祭は巡行前日の宵山であっても四条通りが歩行者天国にならず、また露店もありません。このため前祭のような賑わいがなく、「後の祭り」という言葉の語源になったことが実感できます。反面、駒形提灯、お囃子、家々の屏風など、静かに祭りを味わうことが可能であり、それはそれでいいものです。後祭復活のきっかけは、後の巡行の最後を飾る「大船鉾」の再興でした。大船鉾は幕末の蛤御門の変によって本体が焼失し、巡行への参加が途絶えていました。明治初期、鉾を出していた町内は再興のための資金を積み立てていましたが、小学校(いわゆる番組小学校)を設立するために資金を流用したため、鉾の再興は沙汰止みになったということです。資金をなくした町内では長い間、鉾の再興は禁句であったそうです。鉾の再興と教育への投資を天秤にかけ、教育への投資を優先した当時の人たちの心境はどのようなものだったでしょう。
 現在の山鉾のほとんどは応仁の乱の後には巡行に参加していたことが様々な資料から読み取れます。山鉾を飾る懸装品の中には、外国から数奇な運命を経たものも多く含まれています。山鉾ごとに歴史があり、人々の思いが詰まっているといえるでしょう。


大船鉾
大船鉾
南観音山
南観音山