お知らせ

君の名は……読めません

2023.11.30

酷暑の続いた2023年の夏休み、ぼんやりと高校野球中継を眺めていると、気になることが出てきた。画面で紹介される球児たちのお名前の読み方が妙に引っかかったのである。たとえば「光流」と書いて「ひかる」、「湊斗」と書いて「みなと」と読む。「ひかる」くんなら「光」一文字でいいはずなのに、わざわざ「ひかる」という読みの一部だけを取り出し、「流=る」を付け加えている。同様の例は枚挙にいとま無く、「璃力=りき」は「力」一字で「りき」なのだが、あえて「璃」を加え「力」は「き」と読ませ、女の子なら「愛菜=まな」さんも、「愛」だけで「まな」と読めるのに「菜」を加えている。
 ただ考えてみると、漢字の読みの一部だけを取り出して名乗りの字とするのは、近年に限った話ではなさそうだ。すぐに思いつくのは、歌人として有名な紀貫之。「貫=つらぬく」から「つら」を取り出し、そこに「之=ゆく」を加えて「つらゆき」と読ませているわけだから、こういう名乗りは千年以上前から存在したということだ。これは、「貫之」という文字が先にあって、それに「つらゆき」という読みを後で当てたのではないか、と想像される。というのは、「貫之」という文字面からは、『論語』里仁篇の「子曰く、参よ、吾が道は一以て之を貫く」がすぐに想起されるからである。
 そもそも名乗りの漢字には、なぜそう読めるのかを考えると、日本人が漢字を自らの中に取り込んでいく過程が見えてくることがある。「明夫」「章子」が「あきお」「あきこ」と読める理由はすぐに分かるが、「一夫」「和子」がなぜ「かずお」「かずこ」なのかは、少し考えてみないと分からない。20年ほど前になるが、ゼミに「恵子」と書いて「あやこ」と読ませる学生がいた。「恵」がなぜ「あや」なのか、全く思いつかなかったので、『大漢和辞典』を調べてみると、『山海経』中山経という古典の中に「祠嬰は圭璧十五を用い、五彩もてこれを恵す」という一節があり、そこに付された郭璞という人の注に「恵は、なお飾るなり」とある。なるほど、恵の意味は飾るということ、だから「あや」なのか。深いなあ。
 毎年、学生諸君の名簿を手にすると、何と読むのかがまず気になる。最近は、「和」を「かず」と読み、「章」を「あき」と読むような、漢字の意味に由来する読みではなく、漢字の読みの一部の音だけを取り出し、それをつないで名乗りとするパターンが増えているようだ。ただ、これはやり過ぎると判じ物のようになってしまう。「永久恋愛」という文字の連なりを見て、これを「えくれあ」と読める人はまずいないだろう(実在する人名だそうです)。
 我が国の戸籍では、人名の「文字」は登録されるが読みは登録されない。読み仮名も登録すべきだという意見があるが、クイズのようなお名前が増えている現状に鑑みると、大賛成である。もっとも私の名前をどう読むか、迷う人はいないだろうけれども。

副学長 藤田高夫