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【執行部リレーコラム】ネガティブ・ケイパビリティ

2017.10.13

副学長 良永 康平

 『閉鎖病棟』、『逃亡』、『三たびの海峡』、『国銅』、『水神』、『ギャンブル依存国家・日本』といった注目すべき小説やルポを次々に産み出してきた帚木蓬生氏、小生と同じ福岡出身ということもあり、10年以上前から愛読してきた。その帚木氏が今回また『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』(朝日新聞出版)という問題作を公表している。
 ネガティブ・ケイパビリティとは、すぐには答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力を意味するとされ、「できる能力」だけが重要なのではなく、できなくても、その「できない状況を受け止める能力」もきわめて重要であることを説いている。
 本書はまず、ネガティブ・ケイパビリティという言葉の元となった19世紀イギリスの詩人、ジョン・キーツの生涯を紹介するところから始まっている。その後20世紀に入って、ウィルフレッド・ビオンという精神科医がその言葉を再発見し、患者を診る時に欠かせない「共感」の基礎となる考え方として知られるようになったとのことである。そして、拙速な理解を求めるのではなく、将来は発展的な深い理解が待ち受けていると信じつつ、「謎を謎として興味を抱いたまま、宙ぶらりんの、どうしようもない状態を耐えぬく力」であるネガティブ・ケイパビリティが、医療や芸術、教育や研究にいかに大きな意味を持っているかを、帚木氏は様々な例を挙げつつ展開している。
 とりわけ教育の分野では、「問題を早急に解決する能力の開発だと信じられ」、問題解決のための教育、いわばポジティブ・ケイパビリティが実行されてきたという。例えば医学教育では、いち早く患者の問題を見出し、出来るだけ早く解決を図ることが取りあえずの至上命題となる。ところが実際にはそれほど簡単ではなく、問題が見つからなかったり、末期癌のように解決策や治療法がなかったりする場合もある。このような終末期医療で力を発揮するのがネガティブ・ケイパビリティである。
 医学以外の一般の教育においても、教育とは「一見すると、分かっている事柄を、一方的に伝授すればすむ」ことのように思えるかもしれない。実際、今日では教育のアクティブ化、すなわち学生や生徒自らが問題・課題を見つけ、その解決策を探ることが重要になりつつあるとはいえ、相も変わらず「知識の詰め込み」と、「記憶したものを素早く吐き出す訓練」が主流を成している。しかも「早く早く」といった「電光石火の解決が推奨」されている。もちろんこのような教育にメリットがないわけではない。とりわけ先進国にキャッチアップする過程の日本にとっては、意味のある教育であったかもしれない。しかし素養や教養、嗜みといったものは、本来、問題に対して拙速に解答を出すことではなく、解決できない問題にも「じっくり耐えて、熟慮するのが教養」といえるのではないか。その意味では帚木氏の言うように、今日の学校教育は「どこか教育の本質から逸脱している」のであろう。そして、世の中にはそう簡単には解決できない問題の方が多く溢れているという事実は置き去りにされたままであり、とりあえずすぐに解答が出るような問題に絞った教育となっている。これでは帚木氏の言うように、ネガティブ・ケイパビリティは育つべくもないかもしれない。
 さてそれでは翻って、われわれはいかにあるべきか。教育者、研究者の端くれとして、どのように学生諸君のネガティブ・ケイパビリティを涵養すべきなのだろうか。そう簡単な解答は見つかるはずもないが、一つだけ確実なのは、学生には絶えず素早い解答を求めるのではなく、性急な解答を求められない問題や、求めない方が良い問題も存在することを認識した上で、じっくりと熟成させてゆくような教育を実践することであろう。そして結果が見えず、不確実ななかで行わなくてはならない研究の分野においては、より一層ネガティブ・ケイパビリティが不可欠であり、研究者としてもがき喘ぐ姿を晒すこともネガティブ・ケイパビリティを養成する教育の一つとなるかもしれない。
 以上、帚木氏の新著を紹介しつつ若干の感想を述べたが、本書の魅力はこれに尽きない。プラセボ効果とネガティブ・ケイパビリティ、シェイクスピアと紫式部のネガティブ・ケイパビリティ等々。御一読をお勧めしたい。


ネガティブ・ケイパビリティ(帚木蓬生氏)
ネガティブ・ケイパビリティ(帚木蓬生氏)