KANSAI UNIVERSITY

大学執行部リレーコラム

【執行部リレーコラム】七条内浜

2018.06.22

副学長 吉田 宗弘

 私は小学校六年生までを京都市下京区の河原町通七条上ル住吉町というところで過ごしました。当時は河原町通も七条通も市電が走っており、その交差点である「七条河原町」には停留所がありました。この停留所の名称は、私が小学校の三、四年生頃まで「七条内浜(しちじょううちはま)」といい、付近には「内浜」の名称を冠したアパートや医療機関がありました。私は、河原町通の西側を枳殻邸(きこくてい)と呼ばれる渉成園(東本願寺の別邸でそのルーツは源融の河原院)の壁を左に見ながら高倉通花屋町下ル若松町にあった稚松(わかまつ)小学校まで通っていましたが、河原町通から一筋東には、「米浜(よねはま)郵便局」と「菊浜小学校(菊屋町と富浜町に由来)」という内浜同様に「浜」の字を含む施設がありました。
 京都駅に近いこれらの地域に「浜」の字を含む地名が存在するのは、この地が高瀬川の水運において荷揚げの場として機能していたからです。小学校の社会科の授業の中で地域のことを調べる宿題があり、「内浜」、「米浜」、「富浜」を合わせて「京の三浜」と呼んでいたこと、明治の頃には荷揚げに従事する人夫らの「ホーイ、ホーイ」という掛け声が聞こえていたことをお年寄りから伺った記憶があります。高瀬川周辺の都市形成を調査した田中らの論文*は、下の絵図に示すように内浜が東西約300メートルにもわたる舟溜りで、貯木場としての機能もあり、付近は材木商、倉庫、さらに米会所や株式取引所などもある物流の一大集積地であったと述べています。私の生家があった「住吉町」の「住吉」から連想される住吉大社が航海の神を祀ることや、周辺に「材木町」という地名が残っていたことも高瀬川の水運や貯木場の存在をうかがわせます。
 菊浜小学校の近くには遊郭として知られた「五条楽園」が存在し、七条高瀬川付近には地区を取り仕切る「その筋の人たち」の事務所がありました。三浜周辺には様々な階層の人々が集っており、月に何度か夜店が出ていたことも記憶に残っていますが、御土居の外側になる七条通よりも南側が映画「パッチギ」の舞台であることでわかるように、階層ごとの居住地の境界線は明確でした。今にして思えば、私の育った1960年代前半の「七条内浜」は港町独特の猥雑な雰囲気が残る魔界のような街だったのです。
 高瀬川は、1611年に角倉了以によって開削され、大正9(1920)年までの約300年間京都・伏見間の水運に用いられました。水運の終了とともに内浜の広大な舟溜りも埋め立てられましたが、水運に関係する地名は現在に受け継がれました。私が生まれ育った内浜や住吉などの地名は、この地が高瀬川の水運によって都市化し、通り名を中心とした平安京以来の地名に追記が生じたことを示しています。地名は、そこに暮らした人々の記憶の缶詰のようなものであり、様々なことを教えてくれます。行政区の変更などによって安易に地名を記号化することは歴史を消す行為であることを認識すべきでしょう。

* 田中尚人、川崎雅史、鶴川登紀久:舟運を基軸とした京都高瀬川沿川の都市形成に関する研究、土木計画学研究・論文集、No 17、491-496(2000)

添付画像について
明治9(1876)年作成の「京都區分一覽之圖 : 改正 : 附リ山城八郡丹波三郡」(国際日本文化研究センター所蔵)に描かれた七条内浜界隈(同センターの了解を得た上で図の一部を加工した)。
 内浜の名称は、黒いラインで描かれた御土居の「内側の舟溜り」に起因する。私の生家があった住吉町、小学校があった若松町など、現在も残る町名が数多く記されているが、渉成園は鉄道寮出張所となっている。また、御土居の外側である七条通の南側はまだ都市化されていない。京都・大阪間の鉄道開業はこの年の9月である。富浜と米浜の位置は、菊浜小学校と米浜郵便局より推定した。


明治9(1876)年作成の「京都區分一覽之圖 : 改正 : 附リ山城八郡丹波三郡」に描かれた七条内浜界隈
明治9(1876)年作成の「京都區分一覽之圖 : 改正 : 附リ山城八郡丹波三郡」に描かれた七条内浜界隈