東北研修 被災地を見る 百聞は一見にしかず
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執筆者:淵田 歩香
9月14日
○大川小学校 見学
大川小学校の見学で一番印象に残っているのは、裏山に逃げれば助かったのに助けられた命が助けることができていなかったことである。
大川小学校では、津波をくることを想定して逃げるのか、そしてどの場所に避難すれば良いのかをすぐに決めることができず、結論川の近くにある比較的高い位置にある三角地帯に避難をし、大勢の生徒や先生が命を落としてしまった。学校の裏にある裏山に逃げることができていれば、津波に飲まれることはなかったと思うと、とても悲しく悔しい気持ちになった。
○南三陸町庁舎跡
防災対策庁舎は、とても有名な話があり何度か話を聞いたことがあった。実際に残された庁舎を見てみるとすごく衝撃だった。女性が、津波が来るまで避難を呼びかけた話は有名であり以前から知っていたが、上司の三浦さんという方が最後の方まで呼びかけ続けたという話を聞き、驚いた。このように、一回でも多く呼びかけ、1人でも多くの命を救おうとした方達に救われた方はたくさんいるんだろうなと思った。今後も教訓を伝えていくためにもあの建物は残しておいてほしいと思った。
○南三陸町ワイナリー
東日本大震災のボランティアとして、活動を行っていてこの町のためになりたいとおう思いからワイナリーを始めることがすごいと思った。また、南三陸町の食べ物に合うように作っているということやワインのデザインの話を聞き、いろんなことが思い詰まったワインだと感じた。初めてのワイナリー見学だったので貴重な体験ができて楽しかった。
9月15日
○南三陸ホテル観洋 語り部バス 高野会館
津波がきた高さが書いてあり、リアルに感じた。電気が割れていたり壁が剥がれているのを見ると本当に津波がきたことが想像された。
○震災遺構 旧向洋高等学校
被災したち建物などは外から見る機会しかなかったので、中から見るのはとても新鮮でリアルだった。特に学校ということから自分が通ってた学校を想像しながら見てみると、恐ろしさがわかった。ノートや教科書が散らばったりしているものの中にはメモ書きがされているものがあったりして、本当にここに通っているひとがいたということがリアルにわかった。錆びていた部分がありそこまで波が来たことがよくわかった。折り重なった車はアートかと思うぐらい綺麗に高く積み上がっており、ここまで高く積み重なるということはこれほど高く力強い津波が来たことがよくわかった。
○ケアハウス ソレイユの丘
鈴木昇 前気仙沼市長 トミ子夫人
お話を聞いて、人生は一度であり、挑戦をすることが大切だということがわかった。
選挙などに何度も挑戦をしたという話を聞き、私もやりたいことがあれば、全力で挑戦したいと思った。また、トミ子さんの被災の話を聞いて、同じように車で避難していた車たちと津波にのまれてしまい、トミ子さんは助けられたが、他の方たちはなくなった聞き、本当に人はすぐに津波に飲み込まれてしまうんだと再度認識しました。そのような経験をした今でも元気な姿を見れたのでよかった。
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○オイカワデニム工場
工場の見学をし、すべて手作業でしていることがとても印象に残った。もともとは、普通のジーンズを作っていたが、東日本大震災の被災をきっかけに、余っているメカジキの部位を利用し、ジーンズを作ったきき、思いも発想もすごいと思った。今では、他の種類のジーンズも作っており、他にも何かのジーンズが出るのか楽しみだなと思った。
○東松島 野蒜小学校跡kibocha
被災した小学校を使い、宿泊施設にしているのはとてもいい案だなと感じた。今回はしてないが、そこでは防災教育なども学べ、被害地を観にくる宿泊施設としてはとても良いと思った。また、ボランティアとしてきていた自衛隊の人が自衛隊をやめてこの被災地で働くことを決したなどボランティアをきっかけに人生を変えることもあるんだなと感じた。
9月16日
○東松島市 野蒜駅舎 震災遺構
実際の線路や駅舎が残っており、リアルだった。JRの線を走っていて地震で途中で止まった列車の話がとても印象的だった。その話では、止まってしまった地点であればここに逃げろというマニュアルがありそこに逃げようと思ったが、その列車には消防士が乗っておりその消防士はここの列車にいるべきだと主張した。最終的には、この列車に残ることを決断し、津波に飲まれることはなかった。もし、マニュアル通り逃げていれば途中で津波に飲まれていた可能性が高かった。この話を聞き、マニュアル通りには行かないんだなと感じた。そのような状況判断と決断はとても大切だと感じた。
○閖上 祈念碑
祈念碑の周辺には住宅はなかった。慰霊碑には、想いが籠ったメッセージがかかれていた。また、犠牲になった方の名前が刻まれており、名前がたくさん並んでいたことからたくさんの方が亡くなったことを感じた。また、慰霊碑の高さは、津波の高さになっていた。これらが、未来まで引き継がれていくことで震災の記憶を引き継いでほしいと思った。