被災の街を歩く ―阪神・淡路大震災から23年目の神戸市長田区のフィールドワークより ―セクション3

野田北部地域で大規模な火災が起こった理由として、古い木造住宅が多かったことに加え、道幅が狭かったことが挙げられていますが、今回、野田北部地域を歩いていて気になったことは、「大国公園」から東側の地区と西側の地区の違いです。


火災が酷かった東側の海運町は「震災復興土地区画整理事業」の対象になり、道路幅が広げられることになったのですが、対象にならなかった公園の西側と街並みが分断されないように、西側の長楽町でも、独自に「街並誘導型地区計画」を導入し、地域全体を一体的に整備していくことが目指されました。

区画整理事業が行われた地区[写真1]では、道路幅が拡げられていますが、街並誘導型地区計画で再建された地区でも、狭かった道路を拡げるため、住宅がセットバックして建てられていることが分かります[写真2]。


[写真3] 震災復興土地区画整理事業が行われた公園東側の道路


[写真4] 街並誘導型地区計画が行われた公園西側の細街路

ただ、街並誘導型地区計画でセットバックした道路を見て、これでも細いという感想を抱いてしまいました。そのため、地震が発生したときの消防や救急のルートを確立させておく必要があることも感じました。

このフィールドワークを経て、野田北部では、復興まちづくりが成功したと言われていますが、火災の被害が非常に大きく、その経験から、家の敷地が狭くなっても、道路の拡幅を確保するために、大変な努力がなされてきたことが分かりました。

普段何気なく通っている道にも、様々な経緯があって現在の姿になっていると思うと、いろいろな面白さがあると感じました。

 (文責:宮都成和、山上義之)