宮城フィールドノーツ

執筆者:溝端 峻

こんにちは、
近藤ゼミ3回生の溝端峻です。

宮城訪問、2日目は、
石巻市震災遺構の
門脇小学校を視察してきました。

関西大学OB会の西村さん、松永さん、
そして、西郷村の村議会議員の大竹さんに案内していただき、
校舎の中を視察させていただきました。

門脇小学校は一階部分が津波によって浸水し、
2階から上が津波火災によって火事になった施設です。

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震災当日は
小学生たちは裏にある丘の上に避難していましたが、
近くの住民の方々は門脇小学校に避難して
津波のファーストアタックから身を守りました。

津波によって一階の教室は机や教卓が倒されていました。
2階の教室は木造部分が焼け焦げて無くなっている部分もあり、
机の木の部分は焼け焦がされ鉄の部分だけが残った机になっていて、
黒板は原型がわからない鉄の塊となっていました。
10年以上経った今でも当時の悲惨さが感じられ、
津波の恐ろしさを痛感しました。

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遺構の門脇小学校に隣接する施設では
さまざまな展示物があり、石巻市の震災直前の模型だったり、
被災者の声が飾られています。

その中には震災当時のわたしたちと同じような、
小学生だったと思われる方の声もありました。
当時の小学生たちの気持ちが痛々しく伝わってきました。
明らかに困っている人たちを目の当たりにしても
手伝いたくても手伝えない、手伝わせてもらえない
子供たちの気持ちが伝わってきました。

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次に、門脇小学校の裏の丘の上にある
日和山公園と鹿島御児神社に行きました。
当時の門脇小学校の児童と職員が避難した場所です。

神社の鳥居からは海岸まで見渡すことができ、
災害危険区域となった門脇町が一面に広がっています。
その奥には太平洋を見ることができ、
海からの距離を実際に見てみると、
かなり距離があるのではないかと感じました。
でも、それは震災当時は
現在作られた高い堤防や丘がなかったため、
距離があると感じたのかもしれません。
当時はただ真っ直ぐ自分が立っている丘に目掛けて
大津波が押し寄せてきたのだろうと思いました。
1時間足らずで目の前が濁流に飲まれ
町がなくなっていくことを想像すると、
災害時にはほんとうに何もできずに壊れていく町を
私たちはただ見ていることしかできないのだろうかと
感じました。

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2日目の最後は南三陸町防災庁舎を訪れました。
建物は鉄骨以外は跡形もなく、錆びれた部分を塗り直し、
少し綺麗に整備された姿が残されていました。

防災庁舎の周りに当時のことがわかるような建造物はなく、
新しく出来上がった公園の中にひっそりと佇む姿は
とても寂しく見えましたが、
当時屋上に避難して津波に飲まれそうになりながらも
建物にしがみついて耐え抜いていた方々を支えた
この建物からは不思議な力強さも感じました。

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今回私が仙台訪問のフィールドワークに参加した理由は
11年前、ちょうど私が小学4年生だったときに訪れた
被災地の景色が現在どうなっているかを確かめたかったから
という理由が1番大きな理由です。

新幹線から見る景色も
移動中のバスから見る景色も
どこにも当時の瓦礫の山があるような景色は見えませんでした。
しかし、被害を受けた建物をたくさん見て
どの建物にも過去に被災地で感じたことのある寂しさを感じました。

今回の宮城フィールドワークを通して
災害の恐ろしさだったり、被災地の問題をリアルに感じたり、
どのような復旧・復興が行われているのかを学ばせていただきました。
この経験をしっかり持ち帰り、
新たな学びへと結びつけたいと思います。

ありがとうございました。

溝端 峻