岡山県の国立療養所にて研修をしてきました

はじめまして!高鳥毛ゼミ3回生の奥田あすかです。
今回は、初回のブログで言っていた岡山県の国立療養所研修について説明します。

日程は11月1日、3回生12名と4回生2名の計14名で、行き先は岡山県瀬戸内市にある国立療養所邑久光明園と国立療養所長島愛生園です。
この研修は高鳥毛ゼミでは毎年行われているそうなのですが、今回はコロナ禍ということで例年とは違って日帰りとなりました。
大阪―岡山間を日帰りということで、現地での滞在時間はあまり長くなかったと思いますが、「百聞は一見にしかず」という言葉の意味がよく分かる1日になりました。

なにぶん行ってから時間が経っているため、時系列などについてあまり詳細には記述できないのですが、覚えている限りで1日の流れについて書いておこうと思います。

7:30 大阪駅集合
10:10ごろ 岡山県瀬戸内市邑久町に到着。コンビニに寄って買い物をした後、国立療養所邑久光明園へ移動。
〜13:00ごろ 邑久光明園の社会交流会館資料展示室の見学+光明園で働く医師の方から「医学から見たハンセン病問題」についての講話を聴講+お昼ご飯+監禁室を見学
〜16:30ごろ 長島愛生園へ移動し、長島愛生園歴史館内の資料や監房跡、収容桟橋などを愛生園歴史館学芸員の方の案内のもと、見学+邑久長島大橋、しのびづか公園へ
〜19:00ごろ 備前海の駅でお土産など買い物をした後、岡山を出発。大阪駅到着、解散。

ゼミ選択の参考に見てくださっている方のためにも、詳細に書いた方が良いかなとは思ったのですが、上手く説明できそうになかったので、すみませんが今回は私の所感でご容赦ください。

今回の研修で、1番強く思ったことは「療養所って思ったより明るい場所なんだ」だということでした。
邑久光明園には「こみょたん」というイメージキャラクターがいるのですが、邑久光明園の社会交流会館資料展示室の入り口にはそのこみょたんがいて、とても入りやすい雰囲気になっていました。この社会交流会館資料展示室が開かれたのは数年前のようなので、当時の療養所の雰囲気そのものではないのかもしれませんが、今回行った2つの療養所がある長島という島も非常に景観が良いところで、一般社会とは隔絶された土地だったとは信じられないくらいでした。

もちろん今回の研修の中でも、ハンセン病隔離政策によって
「幼いうちに親と離れることになった」
「愛生園内にあった新良田教室では療養所を出た時のためにうそをつく練習の授業が設けられていた」
「親の不幸で故郷に帰るために療養所から逃走したことで監禁室に閉じ込められた」
「町の火葬場は使えないからと療養所内に火葬場がつくられた」
「親族との繋がりも切れてしまい遺骨の引き取りがされないため療養所内に納骨堂もつくられた」
などこれら以外にもたくさんの差別や偏見、苦しいことがあったということも教えていただきましたし、それらの事実は決して蔑ろにしていけないことだと思います。

しかし、ハンセン病問題は差別偏見の問題だったという点を考えると、ハンセン病問題は決して特別な原因や場所、環境において起こったことではなかったと目で見て感じることができたことは、私にとってはとても大きなことでした。

光明園と愛生園でお話いただいたお二方ともが、ハンセン病の差別と「新型コロナウイルス感染症」に関わる差別の共通性について話されていました。

そこで今回のコロナ禍を思い返してみると、感染してしまった人を責めたりしたことはないと思っていますが、やはり健康状態などそれぞれの事情もあるのだし必要以上だとしても感染を怖がることは悪いことではないだろうということは何となく考えていました。
しかし、ハンセン病の隔離政策について考えてみると、当時ハンセン病隔離政策が成立したのは差別をしてやろうと思っていた人がたくさんいたからではなく、ちょうど今の私みたいに、「感染した人も周囲にはいないし、自分にはあまり関係がない」と思っていた人がたくさんいたからではないのだろうかと思い至り、ハッとしました。
「差別は無関心が生む」ということも度々耳にしますが、ようやくその意味を理解できたと感じます。

ハンセン病問題について学ぶことは、偏見差別やいじめなどの人権問題とも向き合うことであること。

拙い文章だったとは思いますが、今回私が感じたことが少しでも伝われば嬉しいなと思います。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました!

以下、書きたかったけれど上手く文章に入れられなかった話。
・ハンセン病隔離政策は不要だった。
ハンセン病は人から人にうつりにくいという話を聞いたことがある方は多いのではないかと思いますが、「当時はハンセン病に関する知見も少なく、隔離は必要なことだった」と思っている方もおられるのではないかなと思います。(私はそう思っていました・・・)
しかし、政策が作られる頃には隔離の必要性がないことは分かっていて、プロミンという特効薬ができた昭和30年(1955年)ごろには隔離の必要性は完全に否定されていたそうです。

・人間回復の橋(邑久長島大橋)について
一般社会から長く隔絶された長島と本土を自由に行き来できるように、と多くの人が国などに働きかけて1988年にようやく実現したということで、長島と本土の間にかかる邑久長島大橋は人間回復の橋と呼ばれています。橋の長さは30mくらいで、下の写真を見ていただいたら分かるように島と本土の距離は本当にすぐ近くでしたが、あの辺りは潮の流れがとても早いらしく、泳いで渡ることは非常に困難だそうです。

写真1
(写真1)邑久長島大橋の前にて

写真1
(写真2)頂いた資料など

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。