KANDAI HEADLINES ~ 関西大学の「今」

舞台に立つ"誇り"をつかむため、 自分を磨き続ける

関大人

誰かの喜ぶ姿が踊り続ける原動力

ダンサー・俳優 脇坂 美帆 さん(社会学部 2010年 卒業)


 舞台の上で華やかに歌い踊る人たちの姿は、観客から眩しく輝いて見えるものだ。しかし、その陰では日々惜しみない努力を重ね、つらい思いや悩みに苦しむこともある。「悔しくて泣いたことはたくさんあります」─ 今はそんな苦労も笑顔で語る脇坂美帆さん。舞台人の彼女が歩んできた道のりとは......。

幼少期から続けたバレエを武器に「劇団四季」へ

 「舞台に立つ時は命懸けです」。朗らかで明るい笑顔が魅力的な脇坂さんも、舞台の話となればその目の奥に力強い光を宿す。劇団四季の舞台をはじめ、数々のステージで華々しくスポットライトを浴びてきた生粋の舞台人だ。
 近所に住むお姉さんの発表会を見て「私もバレエを踊りたい!」と声を上げたのは6歳の時。家の近くにあるスタジオへ通い始めた。
 負けず嫌いの性格もあって、上手になりたいと夢中で踊り続ける日々。「あの子は練習しなくてもできることが私は練習してもできない、とスタジオのトイレで悔し泣きをしたこともあります」。
 しかし熱心に練習を重ねてめきめき上達。努力の甲斐あってスタジオでは特進クラスに所属していたが、才能ある仲間たちを見て、自分がバレリーナを職業にするのは無理だとも感じていたという。


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バレエを始めたころの脇坂さん(当時6歳)

 新たに目指したのはミュージカルの世界。「中学2年生の時に観た劇団四季の『キャッツ』が大好きで、私もあの猫になりたい!と思っていました」。パンフレットにあるキャストたちの経歴にバレエの文字があるのを見つけ、自分もこの世界につながっているかもしれないと心ときめかせた。
 その一方で、関大一高から関大へ進学。バレエと学生生活の二足のわらじ生活を送っていたが、同級生たちが就職の準備を始める頃に脇坂さんはニューヨークへ留学することを決意した。当時は日本でミュージカル俳優になるための情報が得にくく、まずは本場であるニューヨークに行こう! と思い立ったのだ。
 現地のダンススタジオで劇団四季出身者やオーディション合格者たちと知り合い、彼らとのレッスンの中で初めて自身に手応えを感じた。「私の夢は現実として考えていいんだ、ステージの上に立つ仕事がしたい! とはっきり思いました。舞台人になろう、いや『なる』って決心したんです」。
 帰国後、劇団四季オーディションに初チャレンジで見事合格、ミュージカル俳優への道が目前に開かれた。そして初舞台はなんと4カ月後。『オペラ座の怪人』のバレリーナ役が与えられた。その後も、『夢から醒めた夢』、『コーラス・ライン』など数々の舞台に立ったが、プロの道は厳しいもので3年後には退団することになる。

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(左)大学の入学式当日に行われた、所属する地主薫エコール・ド・バレエ初主役の舞台
(右)舞台出演で入学式には出席できず、母・あけ美さんと千里山キャンパスで記念撮影のみ行った

ニューヨークの魔法"で苦渋の日々を脱し再び舞台に

 「それでも舞台に立ち続けたかったので、退団後はフリーのミュージカル俳優として活動を始めました。最初はとにかくオーディションを受け続け、収入の有無にかかわらずたくさんの舞台に立ちましたね」。
 バレエの公演、ダンスの公演、勉強のためと芝居だけの小劇場公演にも立ちながら、合間には歌やダンスのレッスン。そして生活のためにアルバイトもこなし無我夢中だった。そんながむしゃらな日々を続けて3年が経った頃には、心身共に疲れ果てボロボロな状態に。
 このままではダメになる......限界を感じた脇坂さんは、"自分を鼓舞してくれる場所"へ。進むべき道を定めたニューヨークへもう一度旅立つことにした。「3カ月間、立ち上がれなくなるほどやみくもに踊り続ける毎日を過ごした中で、『私には可能性がある』『私なら出来る』と明確な自信が再び湧いてくるのを感じました。私はこれを"ニューヨークの魔法"と呼んでいます(笑)」。
 帰国してすぐにミュージカルのオーディションに参加し、ニューヨークで充填したエネルギーと自信を力にして合格をつかんだ。これをきっかけに商業ミュージカルの舞台へ復帰し、以降、バレエやダンス公演のほか、人気アーティストのコンサートでもバックダンサーを務め、自主公演の企画やバレエ講師など活躍の場を広げている。

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"自分を鼓舞してくれる場所"ニューヨークにて

努力を怠らず自分磨き、それが仕事への責任

 仕事をする上で大切にしているのは"自分が選んだ事に責任を持つ"こと。「私の思う責任とは自分を磨き続けること。少しでも休みができればどこのレッスンに参加しようかと考えます。人前でパフォーマンスする以上、それが真摯な姿勢だと思うから、日々の練習も妥協しません」。
 自分が納得できるまで自身を高め続けてこそ、舞台にも胸を張って立つことができる。そして人に教える仕事もできるというのが脇坂さんの持論。「バレエ教室の生徒には発表会前に『誇りを持って』と必ず言うんです。舞台に立てる自分に誇りを持ってほしいと。積み重ねてきた努力全てが誇りになると思うので、その仕事に携われている自分にも同じ言葉を掛けています」。

 そんな彼女も自分の仕事に対する悩みはあった。東日本大震災やコロナ禍...... 一時期はエンターテインメントの世界など不要だという声も。「医療や救援など今はもっと求められるものがある中で、劇場に集まっている場合じゃないのでは、と悩みました。けれど自分の踊りに喜びや癒しを見つけてくれる人が一人でもいるならと。そのために自分は自分にできることをしようと思いました」。
 コロナ禍で出演舞台が公演中止になった時には、何か届けなければ! とスタジオで踊った作品をYouTubeに公開。「画面の向こうで誰かが私の踊りを見て、元気になれた、癒された、とわずかでも思ってくれたらうれしい。今でもそういった声が私の踊り続ける原動力なんです」。

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舞台メイクを施す脇坂さん

好きだと思えた事は絶対に手放さない!

 大学案内にあった「多様な視点でものごとを見る」というコピーに惹かれ て関大では社会学部を選んだ。社会学部の女子学生という意味で名付けられた"社ガール"仲間と共に、バレエやミュージカルのことは一旦忘れて、リラックスできる学生生活を楽しめたという大学時代。「自分の仕事にはさまざまなものの見方が必要で、コミュニケーションスキルも大切です。それが自然とできているのは社会学部での学びや仲間との時間で得た経験値のおかげですね」。
 今、その学生時代を送る後輩たちには『好きだと思ったことは、絶対に手放さないで』とメッセージを送る。「私自身、オーディションに落ちたり仕事がなかったり......つらくて泣いたこともたくさんあります。それでも踊ることが好きでやめることはできなかった。自分で決めた道を納得いくまで極めたい、その気持ちで挑み続ければ、新しい景色が見える場所に必ずたどり着くことができます。私もバレエやダンスが自分の新しい世界を次々に広げてくれた。ただ真っ直ぐに努力を続けてきたからこそ、開けた道だと思っています」。

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初のアルゼンチンタンゴ自主公演「Todo o Nada」より

出典:関西大学ニューズレター『Reed』77号(6月28日発行)
脇坂 美帆 ─ わきさか みほ
1987年大阪府吹田市生まれ。関西大学第一高等学校卒業後に関西大学社会学部へ進学し、2010年に卒業。6歳からバレエを始め、ミュージカル俳優の道を目指し21歳で劇団四季オーディションに研究生として合格。『オペラ座の怪人』など数々の舞台を踏んだ後、退団。現在はバレエやミュージカルの舞台に立つほか、人気アーティストのコンサートでバックダンサーも務める。一方で、バレエ講師やアルゼンチンタンゴの自主公演を企画するなど精力的な活動を続けている。