教員が語る専門領域の魅力
取材当時の資格のまま掲載しています。
vol.20 田島 慎朗 准教授
「実の学」としてのコミュニケーション学
私は米国でコミュニケーション学という学問を修め、そのなかでも修辞学、弁論術、議論学やスピーチコミュニケーションといった分野を専門にしています。大学では、異文化間コミュニケーションプログラムの科目を教えています。私の専門は、米国では政治家の教育、法科大学院やビジネス・スクールの基礎教育、ひいては大学のアカデミック・スキルの一つとして教えられていて、私が在籍した大学では、パブリック・スピーキング、いわゆるスピーチは全学の必修科目でした。そもそも、米国のコミュニケーション学の歴史を見ると、実利的な要請に応えて作られた側面がとても強いです。そういう意味では、コミュニケーション学はそもそも「実化」していた学問と言えるでしょう。
ディベート、スピーチ、レトリック
私の専門は、教育と学術研究という二つの領域にかかわります。これをご覧の皆様も外国語学習や社会学習でディベートやスピーチの経験がある方も多いでしょう。これはこの領域の教育としての側面、つまり、上手に話すスキルとしての弁論術です。私は大学生時代からこういう学習に興味があり、英語でディベートをしたり、大学院の時はアメリカの学部生が所属するディベートチームをコーチしたりしました。他方で、説得の技法は教室の外、つまり社会のなかで日々実践され、私たちの価値観や信条だけでなく、ひいては政治や資本を動かします。この力をよく理解し、社会はどんなコミュニケーションに説得力をもたせるのかという観点からコミュニケーションを分析することもできます。コミュニケーションを中心に添えてこうした社会の動きを考えるのが、学術分野としてのレトリック研究という分野です。
分断、対話、共同体
私が最近気になるのは、米国で先般話題になった社会の分断です。日本で暮らす私たちも、他人の立ち居振る舞いに立ち入らないという風潮が強くなっている気がしますが、それが「好き嫌い」や「個人の選択」、はては「多様化」と結びつけられて語られてしまうのは、歯がゆく思います。というのも、共同体としての結びつきの強さや政策の正当性は、多様性を活かした異なる立場をお互いがしっかり表明し、議論を重ねた後に、双方納得できる結論を導きだしてこそ担保されるからです。この過程を経なければ、分断が起こったり、多様化をアリバイにした排除がまかり通ったりしてしまいます。この難しくも意義ある社会の問題を、自分の声を相手に届けるにはどうすれば効果的なのかという実用的な技法と同じ地平で考えながら学べるのが、関西大学外国語学部の異文化コミュニケーションプログラムの良いところでしょう。
学生のみなさんへのメッセージ
大学生時代、私はたまたま英語でディベートやスピーチをすることが好きになって、のめりこんで今に至ります。皆さんも、保護者の方々や社会に後ろめたくない範囲で、大学生でしか出来ない素敵なことを見つけて、それにとことんのめりこんでほしいと思います。真剣にやった分だけ将来を生き抜く糧になることでしょう。
vol.20 高橋 秀彰 教授
ドイツ語の多様性
ドイツやオーストリア、スイス、ルクセンブルク、リヒテンシュタイン、イタリア北部、ベルギー東部などで、それぞれ独自性のあるドイツ語が公用語として使われています。言語は人々のアイデンティティと密接な関わりがあり、ドイツ語を使う国や地域によって標準語の捉え方に違いがあります。同じドイツ語を使う国であっても支配したり、支配されたりさまざまな歴史的経緯があり、互いの距離感を反映して少しずつ違う標準語を使っています。また、国境を超えて同じ方言圏に属している地域では、国が違ってもよく似たドイツ語を使っています。こうしたドイツ語の多様性は、地域文化を大切にする人々によって守られています。
ドイツ語の統一性
それぞれの国や地域が自分たちのドイツ語標準語(正確には標準変種)の独自性を強く主張しすぎると、ドイツ語がバラバラになってしまう恐れがあります。それぞれがアイデンティティーを保つ程度に独自の標準語を守りながら、ドイツ語全体の統一性を考えねばなりません。文学作品や各種メディアがある程度の統一性を保っていないと、互いに理解するのが難しくなってしまい別の言語のようになりかねません。そのために、少なくともスペルの規則(正書法)は、ドイツ語圏が協力して決めています。ドイツ語の多様性と統一性の絶妙なバランスの取り方を学んでいくと、歴史や文化にも視野が広がります。
リンガフランカ(共通語)としての英語が及ぼす影響
英語はリンガフランカとして、世界で幅広く使用されています。今日では、ドイツ語圏でもグローバル化を促進するために多くのメディアや組織が英語でも情報発信を行なっており、英語を使って幅広い情報を得ることができます。それならば、もうドイツ語を学ぶ意味がないのでしょうか。ドイツ語圏の文化や社会は、ドイツ語の上に成り立っていることを忘れてはなりません。このことは、AIが発展して機械翻訳の性能がさらに向上しても変わることはないでしょう。ドイツ語圏の人々と理解し合うには、ドイツ語を使うのが基本です。単なるツールとしてだけではなく、人や文化、社会を理解するための言語にも思いを馳せながら外国語と向き合う姿勢が大切だと思います。
学生のみなさんへのメッセージ
AIの進化によりDX化が加速し、私たちは短期間の間に人類がこれまで経験したことのない急激な変化に直面しています。今ではスマートフォンのない生活は想像できませんし、コミュニケーションの形態もSNSの進化に伴って大きく変化しています。DX化はグローバル化を容易にし、世界が身近になった感があります。このことは外国語学部生にとっては福音でしょう。世界を自分の日常に組み込んだ生活を楽しんで欲しいです。
vol.20 常本 亜希 助教
これって発音のせい...?
日常の英語のやりとりのなかで、「これって発音が悪いから...?」と思ったことはありませんか。例えば、英語の授業中にやりとりがうまくいかなかったり、外国人に道を聞かれたり、海外旅行中に英語が通じなかったときに感じるかもしれません。あるいは、自分が聞き手の立場のとき、「アクセントのせいで聞き取りづらいな」と思うこともあるかも。例えば、空港や電車のアナウンスを聞くとき、外国の映画やテレビ番組を見たとき...。
このように、日常のさまざまな場面で、発音を原因とする「かもしれない」問題が起こることがあります。知っている単語のはずなのに、簡単に聞き取ることができない。その原因は発音だけなのでしょうか。そして、どのような発音であれば聞き取りやすいのでしょうか。
外国語スピーチの聞き取りやすさに関わる要因
私は、外国語のスピーチ理解に関わる要因に興味があります。これまでの研究によると、外国語スピーチの聞き取りには、発音だけではなく、例えば話すスピードや使用される単語や文法、そして話す順番や構造といったさまざまな要素が関係することがわかっています。さらにスピーチそのもの以外に、ジェスチャーの使用頻度といった要素も、聞き取りやすさに影響する可能性が示唆されています。
そして、近年ではスピーチを聞き取る人の個人差も重要であることがわかってきました。例えば英語を指導した経験があったり、発音指導は重要だと考えている人は、そうでない人たちと比べて、同じ音声を聞き取りやすいと感じる傾向があるようです。
聞き取りやすさの要因とその応用
私の研究目的は、スピーチの聞き取りやすさの評価に関わるさまざまな要因を探ることで、学習者や指導者がどのような要因に注目すれば、相手にとって聞き取りやすく話すことができるようになるかを検証することです。
そして、コミュニケーションは話し手・聞き手、お互いの努力によって成り立つものなので、どのような要素に気をつければ、あるいはどのような経験を積めば、相手のスピーチを苦労なく聞き取ることができるようになるかについても研究しています。これらの研究成果を、教員を目指す人たちや英語学習者に還元することで、より効果的な指導・評価に結びつけていきたいと思っています。
学生のみなさんへのメッセージ
発音は円滑なコミュニケーションにおける重要な要素の一つです。ただ、「発音が悪いから...」「アクセントのせいで...」とそこで立ち止まらず一歩踏み込んで、発音であればどの音の聞き取りが問題なのか、発音以外に理解を難しくしている要因はないのか、どうすれば簡単に聞き取れる・聞き取ってもらえるようになるのか。学生の皆さんとは、このような疑問をぜひ一緒に考えていきたいと思っています。
vol.20 大和 知史 教授
プロソディはシンデレラ!?
私が研究領域である声の強弱や長短、上げ下げなどの「プロソディ」に興味を持ったのは、大学2年生の後期にスコットランドのエディンバラに行った時に、「あなたの英語は平坦だね」と指摘されたことがきっかけでした。どうすれば...ともやもやを抱えて帰国後、卒業論文に取り組む中で、Discourse Intonationというアプローチに出会いました。そのアプローチの「対話者は、やり取りの中の情報構造を受けて音の上がり下がりを操作している」という説明に、ぐっと心をつかまれました。ただ、プロソディは、感覚的・無意識のものと思われていたり、「感情を込めて」など感覚的な指導に終始したりするなど、その重要性や学習・指導の必要性を認識されにくく、英語教育の中の"Cinderella(なかなかその真価が認められないものの代名詞)"と呼ばれていたぐらいでした。
シンデレラがガラスの靴を履く
それから時を経て、欧米の英語発音指導では、英語母語話者のような音声を出すことを目標とするのではなく、明瞭性(intelligibility)を高めることを目標とするアプローチが取られるようになり、最近では日本でもよく聞くようになってきました。明瞭性が高い音声とは、平たく言えば「聞き手に十分に分かる程度の音声」のことですが、それを高めるためには、/l/や/r/といった個別の音(分節音)だけでなく、アクセント・リズム・イントネーションといった「プロソディ」(超分節音素)の要素も取り込むとよいということが分かってきたのです。コミュニケーションを円滑に行うには、聞き手に伝わりやすい英語である必要があり、プロソディの果たす役割が見直されてきました。それまで"Cinderella"と呼ばれてきたプロソディですが、最近ようやくガラスの靴を履いた感があります。
シンデレラのその後:学習・指導のフレームワークづくり
大学2年生の時に自分自身がうまくできなくてもどかしい経験をしたプロソディに心奪われ、以来このトピックはずっと私の心にひっかかり、大学院から今に至るまで、研究するにいたりました。日本人英語学習者はどのようなプロソディで英語を話しているのか、聞き手にどの程度分かりやすいのか(intelligibleなのか)を評定してもらう方法を用いて、学習者の現況を把握する調査などを行ってきました(L2 Speech研究の枠組み)。また、そうした調査を踏まえ、プロソディの中でもどのようなものを、どんな風に指導するとよいか、音声学、L2 Speech研究の成果を応用し、コミュニケーション上重要でかつ教授可能性の高い側面を整理してミニマム・エッセンシャルズとして提案する取り組みも行っています(発音指導・英語教育の枠組み)。まだまだこれからも探求は続いていきそうで、シンデレラがhappily ever afterとなるのはいつの日か、という感じです。
学生のみなさんへのメッセージ
学生の皆さんには大学で過ごす時間の中で、ことばのいろんなところに「ひっかかって」ほしいなと思います。ことばを学ぶ中で、ことばを使う中で、分からないことや分かったこと、不思議なことや気になることなど、おやっと立ち止まっては考えてみてほしいと思います。そんなことがじっくり、たっぷりできる時間です。後々思い返せば、小さなひっかかりが、皆さんに大きな影響を与えることになるかもしれません。
vol.20 山崎 直樹 教授
何でも盛りこむ外国語の学習設計
ずっと取り組んできたのは、外国語(わたしの場合は中国語)の学習は、どう組みたてたらおもしろくなるかということです。「コミュニケーションに必要な能力は、言語に直接関係なくても『コミュニケーション能力』の一部」「言語教育は教育の一部なのだから、学習者の人間形成に有益なものであるべき。だから、役に立ちそうなものは、全部、言語教育の中で学んでしまえ」などという、かなり乱暴な主張をして、いろいろ突拍子もない学習設計を考えてきました。また、そのためのワークショップを、仲間といっしょに、各地(台湾、ロシア、中国などの外国も含む)で開きました。そのおかげで、同じアイデアに共感する人とは、教えている言語の違いを越えて、協働作業ができるということがわかりました。
授業のユニバーサル・デザイン化
近年は、授業のユニバーサル・デザイン化が関心の中心です。これまで、さまざまな外国語教授法が開発されましたが、その多くは、学習者がすべて同じように動き、同じように知覚し、同じように認識することができるという前提の上に成りたっています。このような「平均的な学習者」像に基づいて設計されてきた言語学習の授業は、障害(身体障害だけではなく、発達障害、学習障害......などさまざまな障害を含む)を持つ人にとっては、とても参加しにくいものです。授業のユニバーサル・デザイン化とは、多様な学習者がいることを前提とし、どのような学習者が現れても、労せず参加を保障できるような授業形態を、あらかじめ設計しておくことです。
楽しい多言語景観調査
ここ数年、学生たちと楽しんでいるのは「言語景観」(公共の場の言語表示の諸相)の調査です。日本における外国籍住民の増加という社会の変化のもたらした影響を知るため、いろいろな場所(公共交通機関、商業施設、医療施設、大学構内、観光地......)の多言語表示の充実度を調査し、報告としてまとめています。海外旅行に行った学生が戻ってくると、「こんな写真を撮ってきました!」と、旅先の言語景観の報告をしてくれることもしばしばです。学生たちは、これらの活動をもとに、「どんな人が、どんなときに、どんな情報が手に入らなくて困っているのか」について思いをめぐらせ、「多言語表示の充実度」から「情報保障の充実度」へと視野を広げていっています。それを傍で見ているのは、とても楽しいです。
学生のみなさんへのメッセージ
世の中には実にさまざまな言語があり、それは、残念ながら、人と人との断絶を作り出す元凶にもなっています。でも、「ちょっと気のきいたくふう」次第で、そんな断絶を乗りこえることができるかもしれない......そう考えると、とてもわくわくします。
vol.19 阪本 章子 教授
翻訳者は未来の絶滅種?
「AIをつかった機械翻訳が発達しているから、翻訳を勉強しても無駄になりませんか?」こんな質問を学生さんから受けることがあります。オンラインで無料でつかえるAI機械翻訳の性能が最近ぐっと上がっていることは、皆さんご存じでしょう。外国語や翻訳の学習意欲が萎えるのも無理はありません。
でも、答えは「ノー」です。最近の機械翻訳は「流ちょうな」訳ができるようになりました。しかし、その流ちょうさのうらに「意味の間違い」が潜んでいることがあるのです。でも、それに気づくことができるのは、人間の翻訳者だけ。それも、機械以上の外国語能力を身につけたうえでテクストの文脈や文化的背景を感じ取り思索できる優れた翻訳者だけです。
人間にできて機械にできないこと
「看護師」という単語をドイツ語に訳すとき、女性看護師のKrankenschwesterなのか、男性看護師のKrankenpflegerなのか、機械には分かりません。テクストの外にある状況を考慮できないからです。また名詞に性がない英語でも、次に来る文でその看護師をHeで受けるのかSheで受けるのか、やはり文脈が分からないと訳せません。
私の翻訳ゼミの学生に目指してほしいのは、機械に負けない翻訳者になること。そのために必要なのは、まず高い外国語能力と母国語能力を獲得すること。そのうえで、翻訳の基礎もきちんと学ぶこと。授業では翻訳のためのテクストの分析方法や、「効果的な翻訳とは何か」という概念も探求します。また、産業界でよく使われる翻訳支援ソフトも体験して、プロの翻訳プロセスも理解できるようになります。
未来で通用する翻訳者とは
私は翻訳テクノロジーが翻訳者に与える社会的・心理的影響について研究しています。翻訳者の仕事は、原文を一から訳す従来型の仕事から、機械が訳したテクストを修正・編集する新しい形態の仕事(ポストエディット)に変わりつつあります。これによって、翻訳者の労働意欲や社会的地位はどう変わるのか。翻訳の未来では機械と人間の共存がどんな形をとっていくのか。まだまだ分からないことはたくさんあります。しかし、ひとつ分かっているのは、これからの時代、機械翻訳程度の語学力ではプロの翻訳者として通用しないということ。厳しい言い方になりますが、機械翻訳がおかす間違いに気づけない翻訳者は、淘汰されていくでしょう。やはり基本となるのは語学力。そして翻訳という営みに対する理解。デジタル社会でいきいきと活躍できる翻訳者になるためには、人間翻訳の強みと機械翻訳の限界をきちんと理解したうえで翻訳を学んでいく必要があるのです。
学生のみなさんへのメッセージ
私が研究している「翻訳学」は欧州発祥の比較的新しい学問です。日本では外国語学習や文学研究の一部に翻訳の勉強が入っていることが多いですが、翻訳そのものを研究対象とするのが「翻訳学」です。小説の翻訳、映画の翻訳、仕事で使える翻訳。どんなジャンルでも構いません。翻訳が好きな学生さんには、ぜひ翻訳の世界を探求して、デジタル時代に活躍できる翻訳者を目指してほしいと思います。
vol.19 郭 楊 准教授
面白い言語現象とは?
我々は日々母語を何気なく使っており、様々な人と様々な話題について話を交わしているでしょう。ただ、その何気なくしゃべっている言葉のなかに、追及したら意外とネイティブの人でも答えられないような現象はたくさんあるのです。たとえば、私の母語である中国語では"小圆桌"(「小さい丸いテーブル」)とは言えますが、"圆小桌"(「丸い小さいテーブル」)とは言えません。ネイティブにとっては、これは当たり前のことであり、なぜ?と言われても答えるまでもないと言われるでしょうが、言語学の立場から見れば、これは当たり前のことではありません。だって、"小"「小さい」も"圆"「丸い」も"桌"「テーブル」」の素性としての質が同じなのに、なぜ前者の語順しか許されないのか、全く自明ではありませんね。このような「面白い現象」に出会うたびに、わくわくして、脳裏からなかなか消えません。
面白い現象を見つけてから何をする?
上のような「面白い現象」(すぐには解けない問題)にであって、暫くしてからもスッキリとした答えが出なかったら、"小圆桌"(「小さい丸いテーブル」)と似たような表現をなるべくたくさん考えておいてから、それぞれの言えるとき、言えないときの規則性を見出します。この手法はたびたび論理学では「帰納法」とも呼ばれたりします。この作業をするときのコツは、偏りなく、満遍なく例を考えることです。たとえば、"小圆桌"における形容詞はモノの形状を語る形容詞になっていますが、そこを心理形容詞(「危ない」や「素晴らしい」など)に置き換えたら、どのような語順の規制がかかってくるだとか、"小圆桌"における名詞の"桌"は一音節(漢字一文字)なのですが、二音節の名詞に置き換えたらどうなるかとか、「言葉の実験」みたいものをするのです。
なんとか答えを見つけたあとは?
以上の帰納法による作業を経て、様々なケースを見てからは、さあ、いざ自分なりの答えを出す、つまりこの現象に基づく仮定をする番です。"小圆桌"とは言えるけれども、"圆小桌"とは言えない理由については、私は○○だと思いますと結論付けるのです。ただ、結論を出せたら終わりではありません。自分の答えが正しいものであるか、ちゃんと演算していかないといけません。この場合は、自分の持っている母語における「常識」を全部捨て、純粋に数学の式に値を代入し、「=」の右に出てくる結果がokか、×かを見てみるだけです。×な結果、つまり自分の仮定によって生み出されてもよさそうだけど、実際言わないようなものが出てきた場合は、立ち止まって、自分の答え(仮定)のところに戻って、やり直さなければいけません。このやり方は、論理学では「演繹法」と呼ばれたりします。
学生のみなさんへのメッセージ
失敗なんてありません!人生のすべてが経験にしかすぎない。
vol.19 伊澤 明香 准教授
日本語が分からないクラスメートとの出会い
「あぁ、この子は日本語が分からないから授業中なのに保健室にいるんだなぁ。」
私がこの分野に進んだきっかけは、小学生の時、突然学校に編入してきた日本語が分からないブラジル人クラスメートとの出会いからです。外国人児童が公立学校に編入しても、日本語を教える先生も支援する学内外の体制もない・・。現在でも日本語指導が必要な外国人児童生徒は日本社会で増加傾向にあります。国内で日本語指導が必要な児童生徒の母語は、ブラジル人の母語であるポルトガル語が一番多いです。そのため、私は日本語教育を専攻する傍らポルトガル語や英語、韓国語も習得しました。これは、日本語を教えるだけでなく相手の言語・文化も理解した日本語教師になりたいと思ったからです。
子どものための日本語教育に必要なことは?
小学校の頃に出会ったクラスメートのような外国人児童生徒が、日本だけでなく世界で活躍できる人材として育ち、生かされる社会の実現を願っています。そのため、外国人児童生徒が授業を理解できる言語能力を身につける方法や支援体制づくりを研究しています。子どもは大人と違って言語的、心理的、認知的にも発達段階にあります。また、子どもに対しては教科に関わる学習言語能力まで言語能力を引き上げる必要があり、そのためには長い時間がかかります。子どもの言語能力(日本語・母語)の実態を把握し支援方法を立案・遂行するために、実証研究を国内だけでなく、移民社会の先駆例として世界最大の日系社会を形成しているブラジルでも行っています。
子どものために大人・地域社会ができることは?
外国人児童生徒の学びを支えるには、学校・教育委員会・地域・保護者など様々な大人のサポートも重要です。そのため、学校・自治体で持続可能な体制をどのように構築するかについて調査を基に協働で考えています。また、子どもへの教育方針は、保護者の意識が大きいので、保護者へのアンケートやインタビューを通して家庭でどのようなサポートが必要かを探っています。2019年に日本語教育推進法が施行されました。しかし、日本語教育の専門性を持ち合わせた教員は、学校現場や地域の学習支援教室ではまだ少ないのが現状です。そのため専門家として研修講師を依頼される機会が多いです。その際には、研究成果を現場の実践に生かせる助言になるように努めています。
学生のみなさんへのメッセージ
地球は1つの太陽1つの月を使う1つの家族だ
文化と土地が異なるだけだ
地球に再び戦争が起こらないように
私たちは平和を成さなければならない
私たち同士お互い友愛して理解して
助けてあげながら平和を成してこそ
この平和が世界へと広がっていく (Josué.M)
vol.19 A.S.ホフメア 准教授
International, Intercultural, Global
International travel, work, and the internet have accelerated communication with people who are culturally different from ourselves. More and more, we meet people, both face-to-face and online, who have different communication styles, beliefs, and values from our own. In addition, many of the issues we face today - climate change, poverty, the education gap, food insecurity, discrimination - are occurring at a global level. It is now more important than ever to collaborate across cultures towards an understanding of how these issues affect us and how we can work together to find effective solutions.
Beyond Language
Learning foreign languages allows us to connect to and communicate with people from other cultures around the world, but there is so much more to culture than language. To develop a deep understanding of other cultures, it is also important to be aware of the customs, beliefs, values, and traditions of others as well as our own and how they influence our behaviour. To truly communicate interculturally and understand others, it is important to ask questions such as "How does the culture that surrounds us influence who we are?" And "How do we communicate and interact with others?"
Diversity Within
We often think of cultural diversity in terms of differences between people from different countries and cultures, but there is also diversity within national borders. Understanding the values of others who live in our society, as well as how to communicate with people of different ages, genders, religions, political parties, ethnicities, and so on is equally important. How can we learn to appreciate and to make the most of diversity?
学生のみなさんへのメッセージ
"Not all those who wander are lost" - J.R.R. Tolkien
Life is made of exciting meetings and experiences that change who we are. Kansai University will provide you with fantastic opportunities to explore the world around you.
vol.18 竹内 理 教授
効果的な外国語学習法とは
これまで私が取り組んできたのは、どうすれば外国語(特に英語)が効果的に学べるのか、そしてその過程で、どうすれば「やる気」を失わないのか、というテーマです。外国語の学び方には、多くの人々に共通する普遍的側面と、環境や目的により変わる個別的側面があります。これまでの研究では、普遍的なことに焦点を当てて論文を発表してきたのですが、現在では、目的や場面、状況に応じた研究へとシフトさせ、研究を続けています。ところで、方法がしっかりしていたら、学習は上手くいくのでしょうか。皆さんもご自身の体験からお分かりのように、そうはいきません。ここには人間の感情(やる気など)の要素が入ってくるのです。つまり、方法(メタ認知と方法)と感情をセットにして研究しないことには、「めげない」「おれない」「効果的な」外国語学習の方法というのは明らかにならないのです。
自己調整学習の方法を探る
方法(メタ認知と方法)と感情をセットにして、効果的な学習方法の解明に挑む。このアプローチのことを、専門的な用語では自己調整学習のアプローチとよんでいます。この自己調整学習は、実は、2021年度から中学校で、2022年度からは高等学校で実施される学習指導要領の中でも中心的な概念の1つとなっています。自ら目的を設定し、その目的に応じて学習計画と学習方法を考える。そして、それを「めげずに」「折れずに」実行に移し、成果を振り返りながら改善していく。このメカニズムに興味を持ったというわけです。研究の成果は、英文の著書や論文で世界に向けて発信するだけでなく、学部の授業や教職課程・大学院での教員養成に利用したり、小中高の英語検定教科書作りに盛り込んだりと、積極的な活用を行っています。
実際の授業はこんな感じ
学部1年生の「基礎演習」の授業では、この自己調整の概念を取り入れて、目標設定、計画立案、振り返りのサイクルを重視するよう授業を運営しています。もちろん、動機づけの要素にも十分な注意を払っています。また、3年生の「言語教育学(英語)」の授業や教職課程の「英語科教育法(一)(二)」の授業では、学習者の「やる気」を引き起こしながら学校の英語授業をどのように運営するのかを、アクティブ・ラーニングの方法で学生の皆さんと一緒に考えています。大学院では、「外国語学習者論」や「外国語教育メディア論」の授業、および博士課程前期課程(修士)ならびに博士課程後期課程(博士)の「演習」(ゼミ)の授業で、学習方法、動機づけ、学習不安、自己調整学習、行為主体性などの研究に、院生の皆さんと一緒に取り組んでいます。
学生のみなさんへのメッセージ
宗教改革に取り組んだ神学者で牧師のマルティン・ルターは、
If I knew that tomorrow the world would go to pieces, I would still plant my apple tree.
と述べています。不平不満をあまり口にせず、やるべきことを毎日着実にやり遂げる。そうすれば、その蓄積は大きな成果を生むというわけです。さて、皆さんにとっての apple tree は何でしょうか。毎日、それを着実に植え続けていってください。vol.18 金 佳 准教授
外国語の勉強、あなたは音声重視派?
音声による言語コミュニケーションは非常に重要であり、人間の言語の本質は音声言語にあると言われています。ほとんどの赤ちゃんはお母さんのお腹の中にいる頃から韻律情報を聞き取っていて、生まれた後にとても早い段階で清音・濁音(例えば、日本語では/タ/と/ダ/の違い)といったような個々の音も簡単に習得できます。一方、大抵思春期以降より、外国語を勉強しはじめた人にとっては、音声の習得に非常に苦労しているようです(完全にできないというわけではありません)。どのレベルの学習者にとっても、音声に対するニーズが高いにもかかわらず、何らかの理由でうまくいかないケースは多々あります。先ほど述べた生理的な理由や言語間の違いのほかに、学習者の心理や客観的な学習時間の制限や現場教師の力量など・・・たくさんの要因が絡んでいるのです。
「わかる」と「できる」の隔たり
音声学のできる先生だったら絶対外国語の発音も綺麗だろうと思われる方は多いのではないでしょうか。事実だったら非常に嬉しいのですが、残念なことにそうでないことも少なくありません(自分もその中の一人)。むしろ、何でこんなにできないのだろうかと問い詰めて、自分と闘いながらこの世界に入ってしまった方も多いのかもしれません。実は、音声知識が「わかる」ことと、音声がネイティブ並みに「できる」こととは別のことなのです。会話分析をやっている研究者であれば、人と会話する時に困ることがないというわけではないのと同様に、音声学と音声習得の間では関連性があって、音声学の知識が何らの形で部分的に音声習得に役立つと思われますが、何が、いつ、どのように習得されるかは予想以上に複雑な問題のようですね。
いろいろ気になりませんか?
中国語や英語における/L/と/R/は聞き取りも発音も難しいので、聞き取りと発音はいつも連動しているのかな?アナウンサーの発した/が/と普段我々が使っている/が/は同じ発音?今の若者はそれらの違いを聴き分けることができる?またアナウンサーみたいに発音できる?ある言語の音を習得する際に、より簡単にできるのはどんな音?音声評価においては、音の高さ、速さ、強さといった韻律のほうが音声の全体をカバーしているため、子音や母音と比べて、韻律は評価結果により大きく影響しそう?方言ができる学習者は標準語の発音も非常に綺麗。だから、方言を勉強させることは、標準語の音声習得に役に立ちそうなのかな?これらの問題を一緒にクリティカルに考えていきましょう。
学生のみなさんへのメッセージ
学而不思則罔、思而不学則殆
(学びて思わざれば、即ちくらし、思いて学ばざれば、即ちあやうし)
−『論語』より−
vol.18 名部井 敏代 教授
「学校の教室で外国語を学ぶ」ということ
私が「英語」に出会ったのは、中学校1年生のときでした。中学校の教室で、ドキドキしながら英語の教科書や辞書を広げたものでした。近年、外国語指導は小学校ではじまりますので、皆さんの「英語との出会い」は小学校でしょうか。いずれにせよ、日本人英語学習者の多くは、「教室」で英語に出会っていると思います。
教室は「学び」を創出する場です。コミュニカティブな指導を指向する教室は、学ぶべき外国語が身につくよう、教材が準備され、教師が学習者のレベルに応じて指導をする場所です。教室内での言語活動は必ずしも完全に自然なコミュニケーションではないかもしれません。しかし、言語を使ったやり取りをする相手(つまり、教師やクラスメート)と多様な言語使用の機会が存在する、有機的でダイナミックな場です。
教室内の第二言語習得研究
外国語や第二言語の習得過程を研究する者にとって「教室」は、奥深く興味深い探究テーマの宝庫です。「授業中の教師の質問やフィードバックとそれらに対する学習者の受け答えといった教室内談話や対話は、学習過程にどのように影響するのだろうか」、「教師が見込みをもって計画した学習活動は、学習者にどのように受けとめられ、実際どのような学びが発現するのだろうか」、「グループ活動中の学習者同士の対話で外国語知識が深化し言語能力が向上することはないだろうか」など、教室で日々展開するやりとりと学習活動、教室に集う人々の対話に、外国語の習得の軌跡を見たいと考えています。
学習者こそ学びの主役
教室はとても複雑な環境です。最近は遠隔授業やオンデマンド授業もありますから、「教室」そのものが物理的に複雑です。そこに教師の望みと意図があり、集う学習者はそれぞれに個性があります。こうした様々な要素が集まり混沌とした中で「外国語を学ぶ」活動を行うとき、「学び」を発現させる重要な要素の一つは、学習者自身の気づきです。コミュニカティブな教室で教師が使った文型に気づくとき、提出した作文に教師が記したフィードバックの意図に気づくとき、友達が用いた新しい語句に気づくとき、自ら表現したいことをどう言い表せばいいかわからないと気づくとき、その学習者が学びの一歩を踏み出していることを、これまでの研究は示唆しています。学習者の視点から指導と学びを見つめる研究を続けたいと思っています。
学生のみなさんへのメッセージ
授業中に「気づく」経験をしたことはありませんか?気づきは発見、そして学びの促進剤です。気づく瞬間を経験したいですね。ところで、気づくとき、ひとは「対話」していることが多いようです。教師に質問するもよし、クラスメートに語るもよし、脳内で自分に向かって一人でツッコミするのもよし。ことばを使って語ることが気づきを引き起こすようですよ。
vol.18 松永 薫 助教
実践共同体の中で活動するために必要な言語能力
皆さんは、英語圏に留学する際に必要な知識やスキルというのはどのようなものがあると思いますか?留学先(英語圏)の大学で授業を履修するという事は、大学という組織、そして履修する授業・コミュニティーに属し、同じ目的を目指すものと一緒に行動を共にするという事です。これを、ウェンガーは「実践共同体」、英語で「Community of Practice (CoP)」と呼んでいます。実践共同体のコミュニティーの一員として活動するためには、生活言語能力(Basic Interpersonal Communicative Skills /BICS)や学問的言語能力(Cognitive Academic Language Proficiency/ CALP)と言った能力が必要となってきます。
生活言語能力(BICS)と学問的言語能力(CALP)とは?
生活言語能力(BICS)というのは、日常生活において他者とのコミュニケーションを取るために必要な言語能力を表します。例えば、友人との会話、お店に入った時のやりとり、道案内、電話での会話などで必要とされる言語能力です。これに対し、学問的言語能力(CALP)というのは、知的理解力を意味するものです。例えばレポート課題にも文献レビュー、論証型レポート、調査型レポート、実験型レポート、実習レポートなどがあり、用途に応じ書き方や内容、使用する言葉などを変えなければなりません。学問的言語能力は文脈性が低く、身振り手振りといった非言語的ヒントが少ない分、認知的な要求度が高く、高度なコミュニケーションだと言えます。また、このような能力を発揮する為には、情報の整理、解釈、統合、分析、評価、批判・批評、理論の応用といったスキルも必要となってきます。
教育、研究、実践の結びつき
以上のような2種類の言語能力以外にも、留学先で必要となる知識やスキルというのはたくさんあります。例えば、グループプロジェクトを行う上で重要な協働性、協働的な学び(collaborative skills/ learning)もその一つです。しかし、このような能力を身につけるのは決して簡単なことではありません。私の研究では、学習者が直面する課題や葛藤、適応、問題解決に至るまでの過程、またそのような活動とアイデンティティーとの関係性を研究しています。このような研究を重ねることで、留学前・留学途中・留学後に必要なサポートや教室内で実践できる効果的な指導方法や教授法を追求しています。また、学習者一人ひとりが主体性を持ち、自ら行動し、自身のポテンシャルを最大限に発揮することが出来るような教育を目指しています。
学生のみなさんへのメッセージ
"Education is not the learning of facts, but the training of the mind to think." -Albert Einstein
vol.17 鼓 宗 教授
詩のことば
詩は古くから存在してきました。それが文字で記録されるかしないかはさて置き、どの言語でも、最初に生まれる文学の形態は詩だと言えるでしょう。詩はわたしたちが日ごろ用いているその言語で記されますけれども、しかし、あることばとまたほかのことばとのつながりが、道具として伝達し得る内容とはまた別の意味(この「意味」という呼び方は適当ではないかもしれませんが)を獲得し、まるで生まれたばかりのもののように、わたしたちが初めて触れるもののようにして立ち現れます。詩を通じて、わたしたちは言葉が生まれる瞬間に立ち会うのだと言ってもよいでしょう。ある詩人はそれを指して「始原の言葉」と呼んでます。
ことばの詩
そのように詩は、日々、使われることでくたびれ、誕生した時に持っていたはずのまるで魔術が発現する時のそれのような輝きを失った言語をよみがえらせます。その再生の在り方はさまざまで、詩としてふだん広く認知されているような分かち書きされた行の連なりばかりがそうとは限らず、散文がそのまま詩のことばとなることもあれば、日常のなかのふとした会話がそうなる可能性もあります。詩はどのようにも姿を現しうるのです。ただわたしたちもまた、誰もがそうやってそこにある詩に敏感で、掃きだめに一輪の花を認めるように、あるいは、分け入った森の深くに群生するめずらしい花に行き当たるがごとく、それに気づき、意識的であるか無意識的であるかは問わず、自らが次に発することばの滋養としています。
ことばのうちにあるもの
ずいぶんと抽象的になりました。もう少し身近な話にすると、大学で言語を学ぶということは実用に利するだけではなく、人類が誕生して最初のことばを口にして以来、そこに積み重ねられてきた諸々の文化に触れるということです。ことばはただそこにあって、いま必要な何かを伝えるだけでなく、人々の積年の営みを、人の世の歴史を背負っています。そして詩は、日常、忘れて過ごしているそのことをわたしたちに思い起こさせてくれるのです。担当するゼミナールでは、詩を読むこともありますが、他にもそうした言語がうちに秘める諸相を読み解く方法を大学での学問は教えてくれるはずです。ぜひ関西大学で、そうしたことばの持つ深みに指先を浸してみてください。そのまま腕のどこまでを引きこまれることになるのか、きっと驚きをおぼえるに違いありません。
学生のみなさんへのメッセージ
大学で外国語を学ぶことの意義は、その言語の運用能力を身に付けることにあるのではなく、それを用いて何を知ることができるのか、むしろそちらに関わっています。むろん両者は相互関係にあるのですけれども、おぼえようとしていることばで何を理解したいのか、あるいは、そのことばの何を探究したいのか、見きわめてくださればと期待します。それに、1冊でも、誰の詩集でも繙いてくださればと。
vol.17 田尻 悟郎 教授
英語力向上のための指導法研究
日本における英語教育では、以前は文法学習が中心で会話練習はほとんど行われず、「訳読式授業=訳毒式」などと非難されました。その後、コミュニケーション中心の授業へのシフトを求められましたが、高校・大学入試を突破するための指導(=文法学習)と会話の指導という対極にある指導を両立させることは難しいと感じておられる先生は少なくありません。しかし、英語でコミュニケーション(試合)をするためには英語が使える能力を身につけておかなければならず(練習)、文法学習は試合をする力をつけるための練習となります。文法が分かるから会話ができるという体験をしてもらい、その効果を検証するために全国の教育現場を回っています。
頭と心を動かす授業・教材作り
教室には、将来英語が必要でない仕事に就く人や、英語とは縁のない生活をすると思われる人は少なからず存在しています。そのような人たちが受けて価値がある英語の授業とはどのようなものかを考えることから、私の英語授業研究は始まりました。学習内容が面白く、深く、豊かであり、「もっと知りたい」、「もっと知ってもらいたい」と思った時に、言葉を使う必然性が生まれます。そのような気持ちを引き出す授業とはどのようなものか、あるいは知的で面白い活動はどのようなものか、生徒が家庭学習をやる気になるための教材や学習内容はどのようなものかを考えるのが、英語教育学の面白さです。
学習者心理の研究
教員が授業中に口頭説明をしながら黒板に情報を書き、生徒にそれを写させることが仮に10分かかるとすると、中学校では10分×140回×3年間=4,200分、3年間で実に70時間にもなりますが、果たして70時間分の成果が得られているのでしょうか。また、授業中に指名され、立って答えさせられている時の生徒の心理状態はどのようなものでしょうか。グループ学習やペア学習をする時、音読練習をする時、テスト返却時、姿勢が悪い時、先生の解説を聞く時などの生徒の心理を考えることは、生徒を理解し、授業を改善するためにとても大切なことです。一方的に教えるのではなく、生徒に考えさせ、気づかせる「発問・指示」を研究することも、教育学の面白さです。
学生のみなさんへのメッセージ
この不確実な社会を生きていくためには、『思考→判断→行動→反省→改善』という流れが不可欠です。「私も同じです」という返事は極力減らし、同じ意見であってもプラスαの情報を入れようとすることが創造につながります。コロナウイルス禍を経て、世の中は「言われたことをそつなくできる人」よりも「新たな価値を創造できる人」を求めています。能動的に頭を使いましょう!私も英語の授業を通してそれを支援していきます。
vol.17 高橋 絹子 教授
通訳ガイドから通訳者へ
高校生のころから日本語を外国語に換えることにとても興味がありました。また中学から茶道を習っていたので、日本文化を外国語で表現することにも関心がありました。これが私と通訳案内士(通訳ガイド)との出会いです。次第に、政治や経済なども含めたもっと様々な分野のことを外国語で表現してみたいと感じ始め、「通訳者」という職業にたどりつきました。通訳はある意味での情報産業で、語学力だけでなく、自分でも通訳するテーマについて語ることができるくらいその分野に精通していなければいけません。ただ単に語学力だけではなく、背景知識や社会に関する知識や常識もないと、母語にも外国語にも通訳をすることはできないのです。
音声学との出会い、そして通訳と音声学
しかしそのためには、やはり外国語がしっかり聞き取れることが大前提です。私は、英語は日本でしか勉強をしたことがなく(EFL学習者)英語の聞き取りには、とても苦労しました。読めば理解できるのに聞き取れない苦労がありました。でもこれでは通訳者はつとまりません。その後大学院に進み英語の音声の特質や規則を音声学を通して学び、実際の音声と頭の中に入っていた音声の違いを初めて知りました。また音声学を学んだことで、自分が聞こえないと思っていた音声は、実はほとんど発音されていない音であったこともわかりました。通訳者には俗に「よい耳が必要」と言われますが、では一体、よい耳とは何なのか、それ以来、これをずっと探求しています。
変わりつつある現場の通訳者。通訳者とは何?
本来、自ら英語で意思疎通ができない人たちの依頼を受けて、コミュニケーションを成立させるのが通訳者のはずです。しかし最近、ビジネスの通訳現場では、英語が堪能なビジネス関係者からも通訳の依頼があることもよくあります。これは一体どういうことなのでしょうか?通訳者という存在は一体何なのでしょうか?ビジネスの通訳現場では、状況に応じて通訳者を使ったり使わなかったりという「通訳者の使い分け」が行われます。依頼を受けてもほとんど通訳の必要がない場面もあります。従来通訳者を使うメリットと考えられていたことが次第に変化してきているためで、現段階ではまだAIなどの機械は、ヒトの複雑な要求に完全に応えることはできないでしょう。
学生のみなさんへのメッセージ
「通訳」とは実践して初めて「通訳」ですが、様々な角度から検証したり、考察したりしてみることもとても楽しいことです。「実践」に行き詰ったら、一歩立ち止まって、異なる視点で通訳を見てみることもよい方法です。活路が見出されるかもしれません。「耐えられないような試練に遭わせられることはない」(コリントの信徒への手紙一10-13)そうですから。
vol.17 M. ルーカス 准教授
What is "cross-linguistic influence"?
Imagine if someone were to ask you what kind of fruit you like. In Japanese, you could reply by saying 「バナナが好きです」. If we then literally translate this into English, it may become "I like banana." Can you spot the grammatical error? In Japanese, if we talk about something in a generalized sense (such as the kinds of things we like), the concept of whether it can be counted ("countability") is not particularly important. However, in English, it is very important because it determines which grammatical forms are used. This means, instead, we should say, "I like bananaS." If we forget to use the plural "-s," it may be because of the influence of the native tongue. This phenomenon is called "cross-linguistic influence."
The relevance of cross-linguistic influence to Japanese learners
Since Japanese and English are grammatically very different, cross-linguistic influence can have far-reaching effects. To continue with the previous example, we may accidentally say "I like banana and eat it often" instead of "I like bananaS and eat THEM often." Similarly, we may forget to use articles ("a" and "the"): "There is A banana on THE table." These errors are likely to occur because plural forms (including the way they are conceptualized) and articles do not exist in the same way in Japanese. My research has also shown that loanwords (such as "banana") may be even more difficult to use correctly in English because their form could become "fixed" from Japanese. These factors, among others, may adversely affect grammatical accuracy.
Raising awareness can help to improve accuracy
Having identified some common learning problems, we next need to think about how to solve them. One way is to become more "aware" of how Japanese and English can express the same meanings in different ways through their grammatical forms. Teachers can help their students through "explicit instruction." This kind of instruction explains what is to be learned and provides opportunities to put it into practice. In this case, such instruction actively points out the differences (and sometimes similarities) between Japanese and English, a technique known as "cross-linguistic awareness-raising." My research has shown that once learners start to "notice," or "listen to," these differences, it is possible to lessen the effects of old habits and improve grammatical accuracy.
学生のみなさんへのメッセージ
Developing awareness during the language-learning process holds within it a powerful metaphor: through first carefully observing what we encounter in life, we can then respond accordingly and use it as a tool to improve ourself. As the saying goes, "learn to listen, listen to learn."
vol.16 平嶋 里珂 教授
なぜ文法教育の研究が必要なのか?
私が取り組んでいるのはフランス語を学ぶうえで効果的な文法学習の方法を探ることです。外国語の実力をつけるには文法にこだわるより運用能力の養成に力を入れるべきだと考える方が多いと思います。確かに運用は大切なのですが、学習者が使っている教科書に外国語の仕組みが正しく記述されているとは限りません。多くのフランス語の教科書が準拠している文法は「伝統文法」と呼ばれており、フランス語の学校教育で使われている文法記述と同じものです。動詞の活用等、形の変化を学習するにはいいのですが、文法要素が実際の文中で表す意味を正確に伝えていないことがあります。ネイティヴスピーカーの直感が育っていない学習者が言葉の表す意味を正しく理解せずに形だけ覚えてしまうと、伝えたい内容を適切に伝えることができなくなってしまうのは問題です。
多方面の言語に関する研究を活用する
そこで私は3段階にわけて外国語学習に必要な文法記述の研究を行っています。まず、フランス語の文法要素の働きを言語学の視点から詳細に分析し、実際の文法要素の機能を明らかにします。次にフランス語の文法要素と日本語および大部分の日本人学習者がフランス語学習を始める前に学んでいる英語の文法要素の使い方を対照させ、類似点と相違点をあぶりだします。母語や既に学んだ英語に同じ要素があれば、フランス語の文法要素の意味を理解するのは難しくありません。同じものがない場合は要素の働きを理解するのは容易ではないので、機能の説明の仕方の方法を研究します。教育に応用する場合は、学習者のモチベーションやレベル、使える学習時間等を考慮して、研究で得られた知識をフランス語の例文やモデル文の作成、文法解説の説明の仕方、練習問題等に反映させていきます。
フランス語教育の現場で行うこと
文法教育の研究をしているからといって授業中に文法のことばかり説明しているわけではありません。授業の現場で大切なのは学習者の認知的側面です。入門の段階では、学ぶ方の頭にフランス語のストックが入っていないので、抽象的な説明を聞いても分かった!という実感が湧きにくいものです。この段階では感覚的に理解できる状況が反映された例文を用い、学生さんがそこで使われる文法要素の働きに注目してフランス語の仕組みを学んでいけるように心がけています。入門編を終えた学生さんには多様な状況を設定して言語を使ってもらいます。入門編で習った文法要素について解説を加えることもありますが、そこではより細やかに、文法要素が「伝える内容を的確に表すための手段」であることを伝えています。
学生のみなさんへのメッセージ
「外国語は英語さえ使えれば十分」と考える人は多いかもしれません。英語で精一杯と思っている人も多いでしょう。でも外国語学習には相乗効果があるので、英語が得意であれば二つめの外国語はかなり楽に学べます。英語が得意でない場合も、内容を伝えるための言語手段を意識して第二外国語をきちんと学ぶことで、英語の能力だけでなく母語の能力もアップすることがあります。
vol.16 新谷 奈津子 教授
なぜ英語で話せない?
こんな疑問を抱いたことがある人はたくさんいるのではないでしょうか。「第二言語習得論」では、一般的に言語の知識は、明示的知識と暗示的知識の2つに分かれていると考えられています。明示的知識とは、文法など言語形式のルール説明ができる知識、暗示的知識は、そのルールを無意識に使うことができる知識です。たとえば、英語を学習する人が、「三単現のsは、主語が三人称で単数の場合に...」とルールを説明することができたとしても、実際に英語で会話をすると、三単現のsが抜けてしまうという場合、この文法項目についての明示的知識はあるけれど、暗示的知識は身についていないということが考えられます。「文法を知っている」ことと「それを使える」こととは別の知識領域だと考えられているのです。
ではどうしたら英語で話せるようになる?
よく耳にする「中学・高校で6年間も英語を学んだのに,英語で道を聞かれたら何も答えられなかった。」という話は、学校で学んだ知識とコミュニケーションに必要な知識が別のものであるために起こる現象だと考えると、少し安心しませんか。
では、どういう勉強をすれば、言語の暗示的知識を身につけることができるのでしょう。一般的に明示的知識は明示的な学習(文法説明や機械的な練習)、暗示的知識は暗示的な学習(コミュニケーションの内容に意識が向く学習)によってより発達すると考えられています。つまり、話せるようになるためには、その言語を使って意味のやりとりを伴うコミュニケーションを繰り返すことが大切だということになります。留学をしたことがある方は、ある時期から急に話が聞き取れ、言葉が口からスムーズに出るようになったという体験をお持ちかもしれません。それは暗示的な学習の機会がたくさんあったからだと考えることができます。
答えを求めて
では、学校で身につけた明示的知識は、暗示的な学習にどのように役立つのでしょう。そもそも、暗示的知識を学校の授業の中で伸ばすことは可能なのでしょうか。そして、一般的に行われている英語のテストは、どちらの知識を測っているのでしょう。そういったさまざまな疑問を一つ一つ解き明かそうとするのが、私たち第二言語習得研究者の仕事です。「どうやったら使えるようになるの」という疑問に対する答えを求めて研究を積み重ねているのです。
学生のみなさんへのメッセージ
人間は、コミュニケーションを通して情報や思いを共有し、一人ではできないことを成し遂げて発展してきました。外国語を身につけることで広がる世界をぜひ体験してください。
As you think, so shall you become.
vol.16 松岡 雄太 准教授
未知なる外国語への挑戦
高校の頃からヒトが話す「ことば」に関心があり、ことばを研究する言語学が学べる大学(学部)を探して進学しました。言語学をやるには、何か一つ対象言語を選ばなければなりません。英語や日本語でもよかったのですが、大学に入って選んだのは、90年代まだ周囲にやり手の少なかった朝鮮語でした。その後いろいろあって、朝鮮半島の北に隣接する(もっとやり手の少ない)モンゴル語や満洲語(中国に清を建国した満洲族の言語)にまでも手を出すことになりました。言語学は大変裾野が広いのですが、私の専門は主にこれらの言語を対象にした記述言語学、中でも動詞に関わる文法カテゴリの研究です。
地味な喜び
文法の学習は地味なので、えてして学習者に毛嫌いされますが、実際のところ、その研究もかなり地味です。私の場合、調査は現地(主に韓国と中国)の母語話者への聞き取りです。ある文法形式の意味や用法を調べる際は、その文法形式を含む文と文脈を提示して、その文がその文脈で言えるかどうかを尋ね、言えない(あるいは言える)と言われたら、文の一部をいじったり文脈を変えたりして再度言えるかどうか聞く、といった細かい作業を繰り返します。調べはじめは、暗闇の中を手さぐりで右往左往するような感じですが、疑問点が明らかになっていくにつれ、少しずつ向かうべき方向が定まって、遙か先に小さな光が見えはじめ、いよいよ明らかになった瞬間は、暗いトンネルから抜け出したような喜びを味わえます。
実用性とは何か?
朝鮮語は今や書店に学習書がたくさん並ぶ、随分なじみある言語になりました。ですが、モンゴル語や満洲語はまだまだマイノリティ言語です。このような少数民族言語の中には話者が高齢化し、マジョリティ言語との二重言語状態をへて、若者はそれを母語として話せなくなり、消滅の危機にあるものもあります。満洲語は過去に書かれた膨大な文献を残し、そうしてほぼ消滅してしまった言語の一つです。マイノリティ言語は「実用性」にも欠きます。ですが、話者が存在する限り(もう存在していなくても)、少なくともその言語の使い手(だった人)にとって実用性はあるはずです。マイノリティ言語ほどその研究者は少なく、辞書や文法書の記述も不完全なものになりがちです。まだよく明らかになっていないことがある限り、研究に終わりはありません。私の担当する学部授業の一つでは、このようなマイノリティ言語を学ぶ意義について考える時間を設けるようにもしています。
学生のみなさんへのメッセージ
居處恭、執事敬、興人忠。雖之夷狄、不可棄也
<居処は恭、事を執りて敬、人と与わりて忠なれ。夷狄に之くと雖も、棄つ可からざる也>
(「論語・子路第十三」井波律子訳)
vol.15 阿南 順子 教授
パフォーマンス・スタディーズとは?
私の専門は、日本文化論、演劇学、パフォーマンス・スタディーズ、視覚文化です。「パフォーマンス・スタディーズ」に関しては、聞いたことがないという人も多いかもしれません。従来の演劇学は舞台芸術を対象にした研究分野ですが、1970年代から80年代にかけてアメリカ合衆国で誕生したパフォーマンス・スタディーズは、舞台芸術を含め、さまざまな場で起こっている「パフォーマンス」を対象にしています。例えば、日常におけるパフォーマンス。電車で座席に座っている人々を見てみると、男性と女性では座り方が異なることがわかります。男性は足を広げて空間を大きくとり、女性は足を閉じて空間を狭く使っています。
身体は文化によってつくられる
「日常のパフォーマンス」についてもう少し考えてみましょう。男性と女性の身体の使い方は異なる、といいましたが、かといって女性なら皆同じ身体の使い方をするわけではありません。日本で育った女性とアメリカで育った女性では身体表現の仕方が異なります。また、同じ日本国内でも、50年前と現代では身体表現や身体感覚が異なっていることでしょう。ここからわかることは、私たちの身体は文化や時代によってつくられるということです。「女性にとって自然な身体の使い方」や「日本人にとって自然なジェスチャー」が存在しているのではなく、人々はある社会に所属するためには何を「パフォーム」しなければならないのかを、意識的に、あるいは無意識のうちに学んでいるのです。
パフォーマンス・スタディーズの魅力
パフォーマンス・スタディーズの魅力は、このように、「当たり前だと思っていたこと」が実はそうではないということに気づかせてくれるところです。身体以外にも、2次元で起こっているパフォーマンスを考察することもできます。例えば世界地図。世界地図は各国で異なります。自国を中心に添えるという「パフォーマンス」をしていることはもちろん、各大陸の大きさが地図ごとに異なっている場合もあります。これは一体どういった「パフォーマンス」なのか。ここで重要なのは、「地図は正確なもの」という考えが、実は当たり前ではないということです。では、どうして私たちは様々な事柄を「当たり前」のこととして信じているのか。それを考えることが、パフォーマンス・スタディーズの第一歩です。
学生のみなさんへのメッセージ
自分の「当たり前」が崩壊してしまうことを恐れず、異文化をたくさん吸収して、視野を広げて下さい。外国語学部はそのための最適の場です。
vol.15 T. J. アレン 助教
What is sociolinguistics?
Sociolinguistics is a vast field of research with a very long history. Researchers have been interested in the ways in which language, culture and interaction are interrelated for some time. In sociolinguistics, researchers describe the effect of any and all aspects of society and language, including social and cultural norms, expectations, and the ways in which language is performed in various contexts. Sociolinguistics is closely related to the study of pragmatics (the study of how language is performed). Sociolinguists investigate how elements of society are reflected in language. They also study language varieties such as dialects, as well as how language differs between socially different groups of people. Research in this area is imperative because language is a social concept, and it (and culture) continually adapts and changes like a living organism.
The relationship between language and culture
Language and culture are connected. How one performs language in a particular context is influenced by their culture. Of course, the particular language you speak, also influences the way in which you perceive the world. If you are a sociolinguist, it is important to understand the ways in which language and culture influence each other. Rita Mae Brown suggests, "Language is the roadmap of a culture. It tells you where its people come from and where they are going". Studying sociolinguistics, culture and/or pragmatics will not only help you understand yourself and your cultural milieu, but it will also help you understand others.
Knowing more about different languages and cultures
Students at Kansai University not only learn language-related skills (e.g., reading, speaking), they also learn how to communicate with others who are from varying cultural backgrounds and who speak languages other than Japanese. Drawing on sociolinguistic and pragmatic research, students explore the ways in which people differ - their perceptions of the world, their beliefs and values, and their communication styles. Students learn to appreciate and understand cultural and linguistic diversity by increasing their awareness of various language varieties (e.g., Australian-English), and discovering ways in which their own native language and culture also differs (e.g., various dialects and micro-cultures in Japan). Students develop tools to be culturally sensitive and aware, and progress to be confident in their intercultural communicative abilities, so that in the future, they can be competent global citizens.
学生のみなさんへのメッセージ
"Never doubt that a small group of thoughtful, committed citizens can change the world; indeed, it's the only thing that ever has" - Margaret Mead
I encourage you to come to Kansai University and change the world.
vol.15 井上 典子 教授
英詩との出会い
皆さん、こんにちは。外国語学部では、「基礎演習」、「Academic Listening and Speaking」、「地域言語文化論(英米)」などを担当しています。専門分野は英詩研究です。
私は幼少の頃からピアノが好きで、高校も音楽科に通い、学校でも家でもピアノ漬けの毎日を送っていました。大学も音楽学部のピアノ科に入学しましたが、1年生の時に、初めてネイティブの先生が担当する英語コミュニケーションの授業を受けた時に、英語を話す楽しさを実感しました。その後、音楽学部から文学部英文学科に転学することを許可してもらい、本格的に英語で書かれた文学作品とじっくりと向き合う機会を得ることができました。様々な作品に触れましたが、私が一番惹かれたのは、英詩でした。今から思えば、それまでピアノに打ち込んできた私にとって、音とリズムが重要な要素である詩に惹かれたのは自然なことだったのかもしれません。
英詩の魅力
皆さんは詩に対してどのような印象を持っているでしょうか?私は、詩はことばの音楽だと思っています。どの言語で書かれていても、素晴らしい詩というのは、ことば・リズム・音が一体となり、私たちの想像力をかきたてて感動を与えてくれます。数学のように「一つの正しい答え」があるわけではなく、よい詩ほど複数の解釈が可能です。一つの単語が2重、3重の意味合いを持つこともあり、詩の解釈を試みることは謎解きの感覚に似ているかもしれません。また詩へのリスポンスは、私たちそれぞれの生き様や経験がベースとなりますので、以前の自分には「難しい」と感じた詩でも、例えば2,3年後にもう一度読んだ時には、「あれ、この詩、意外と面白い!」と思うことや、前には感じなかった感動を覚えることもあります。異なった時代に生きた詩人たちの感情、経験や知識をもとに書かれた詩と向き合うことで、その時代の社会、文化、思想も見えてきます。私は地域言語文化論(英米)の授業で、16世紀の作家シェイクスピアの詩から20世紀の現代詩人まで、各時代の代表的な作品を読んでいます。詩のことばと向き合う中で、学生さんたちが「英詩って思っていたより面白い!」と感じると同時に、英語を読み解く一層深く多様な視点を学び、英語に対する感性を磨いて下さればとても嬉しいです。
学生のみなさんへのメッセージ
大学の4年間は、自分の将来の方向性を模索し、色々な可能性にチャレンジして何度でも失敗することができる貴重な時間です。1年間の目標を立てることも大切ですが、「10年後、自分はこうありたい!」という大きなヴィジョンを持つことが大切です。人生は一度きり。敷かれたレールの上を進む人生ではなく、時には思い切って「脱線」と思えることをやってみる勇気、受け身の人生ではなく、人生を自分で切り開いていくタフさを身に付けてほしいと思います。
vol.15 田島 義士 准教授
不思議のはじまり
ふと気がつくと聴こえてくる、あのメロディ。もうこんな時間か。そろそろ行かなくちゃ。
たとえば、図書館で「蛍の光」によく似たあの曲が聴こえてくると、どうして人々は読んでいた本を閉じ、帰り支度をするのでしょう。他にも、トイレの入り口には赤や青のマーク。信号機は3色で、横断歩道は白。そうこうしていたら後続車からクラクション。けたたましいサイレンと共に真っ赤な消防車が・・・。
世の中には不思議なことがいっぱいです。こうした音や色が意味するものは昔から同じなのでしょうか。海を隔てた国でも同じ意味をもつのでしょうか。そして、私たちが普段、目や耳にする言葉も常に同じ意味をもつものなのでしょうか。
タイムマシーンなんていらない
私は、今から150年ほど前に書かれた作品を読むにあたり、当時の文化的背景を調べてみます。今でも理解できる言葉で書かれているからといって、その内容を自分の文脈で読んでしまうと、意外な落とし穴にはまってしまうことがあります。時代や国を隔てる時、人々のもつ知識、社会の常識やルールといった知の枠組みが異なる場合があるからです。 詩人も作家も画家も建築家も服飾デザイナーもみんな、その時代や場所に固有の文化を資本とし、自らのオリジナルを作ろうと努めてきました。何がベースにあって、何を新しくしようとしたのか。それを知るために当時のことを調べてみるのは大切なことです。そうした上で、はじめて今の「私」にも通じる普遍的なものを理解することができるのではないでしょうか。たくさんの資料に囲まれている時、私たちはタイムトラベラーになるのです。
「見つかったぞ」「何が?」
子どもの頃、閉店間際に流れる音楽やトイレの色分けを不思議に思った方もいるのではないでしょうか。はじめて見聞きするものに出会った時、私たちはそれまでの知識や経験を振り返りつつ頭をフル回転させます。それでも簡単には理解できないことに出会う時もあるでしょう。そんな時に、「わからないからいいや」とか「私には関係ない」や「個人の問題だ」としてしまっては、大学での最大の魅力のひとつである「研究」を行うことはできません。
19世紀に書かれた詩のほんの数行を読み解くために、私はフランスまで行くことがあります。詩人が過ごした場所に赴き、書物を調べ、当時の風景や生活に想いを馳せます。その時、時代と空間を超えて、私は詩人と向かい合っているのです。不思議に思うことに出会ったら、時間をかけてでも海を越えてでも、自分なりの答えを見つけることが研究なのです。
学生のみなさんへのメッセージ
Elle est retrouvée.見つかったぞ
Quoi ? L'éternité.何が? 永遠
C'est la mer alléeそれは太陽と
Avec le soleil.共に行った海
次にお会いするまでに、この引用が誰のものか調べておいてください。
vol.15 田村 祐 助教
第二言語習得研究とは?
私が対象としている研究領域は、第二言語習得と呼ばれるものです。人はどのような環境に生まれたとしても、第一言語(人が最初に身につける言語)を獲得することができます。しかしながら、第一言語を獲得した後に学習する第二言語の習得は第一言語獲得とは異なり、様々な要因の影響で発達のスピードや最終到達点に大きな個人差があります。第二言語習得研究は、この差がなぜ生まれるのかといった謎を解き明かす研究と言えるでしょう。語彙・音声・文法など、様々な領域の研究がありますが、私が中心的に扱うのは文法です。文法の習得で面白いのは、「知っているのに使えない」という現象と、「ルールを説明できないのにも関わらず、なんとなく直感で文法的な誤りがわかる」という現象です。
「知っている」のに「使えない」
例えば、「3単現の-s」と聞けば、中学で英語を習ったことがある人なら、「主語が三人称単数なら動詞に-sをつける」という規則を説明することができると思います。しかしながら、実際に英語を使う際に、この-sを間違わずに使いこなすことは難しいとされています。私が担当している学部1年生向けのライティングクラスでも、難しい語彙や文構造を使って流暢に英作文をする学生が、"This tell us an interesting thing"のような誤りをするケースは少なくありません。おそらく、スピーキングであれば誤りはより多く観察されるでしょう。このような場合、教師がルールを説明する必要はあまりなく、実際の言語使用のなかで間違いに自分で気づいて修正できるようなレベルをまずは目指すことになります。
「知っている」けど「知らない」
以下の英文は、文法的に正しいでしょうか。それとも誤りでしょうか。
(a) My younger sister was difficult to become an actress.
実は、この英文はtough構文と言われる英語の規則で、(b)が典型例です。
(b) The question is difficult to solve.
(b)の英文はsolveの目的語であるthe questionが主語の位置に移動したものと考えられており、誤りではありません。一方で、(a)の英文は、becomeの目的語の位置にも名詞句があり、文法的には誤りとなります。実は(a)のような英文が誤りであると学習者は判断できるにもかかわらず、彼・彼女らは規則を知らないと答えます。つまり、「自分たちでは規則を説明できないながらも、規則を『知っている』」状態だといえます。もちろん、このような知識は不安定であり、いつどのような文でも正しい判定ができるわけではありません。そうではあっても、規則を知らないとは考えにくいほどの確率で正しい判断ができるのです。
学生のみなさんへのメッセージ
上の2つの例は、言語の知識とは、単に「知っている=使える」、「知らない=使えない」という単純なものではないことを示しています。みなさんには、外国語学部での学びを通して、言語を習得するとはどういう営みなのかということを考えてもらいたいです。そのために必要なのは、「知っている」、「知らない」といった普段何気なく使っている言葉の意味、その「当たり前」を問い直すという作業です。そしてそれこそが大学の学びだと思っています。
vol.15 K. ラモンダ 准教授
What role do pictures play in language learning?
There has been a lot of research on the effect that pictures have on learning new words. Take, for example, a case where you meet a new word, and there is a picture of the word intended to help you understand its meaning. Does looking at and understanding this picture help you or hinder you from learning the word? The answer is it depends. For learning the word form (such as spelling), pictures can be a distraction, because your attention is divided between looking at the picture and the word form. On the other hand, pictures can be very useful to remember the word's meaning in the long-term. Research has found that the brain uses both verbal and visual pathways to store information. As a result, when you use both pathways to store a new word's meaning, you have stronger access to it when you try to later recall it. But what kinds of words are the best to pair with pictures to help learners?
What are idioms and why are they important?
An idiom is a group of words that together have a figurative (metaphorical) meaning. Some examples of idioms in Japanese include 出る杭は打たれる、石の上にも三年、八方美人、高嶺の花 and so on. The metaphors in idioms often come from history and culture, and as a result they can be difficult to understand and learn. Yet they are important because native speakers use them often, especially in certain kinds of social situations. Furthermore, skillful use of idioms can help non-native speakers integrate into local communities overseas, because their use can show an appreciation and understanding of the local culture. Wordplay involving idioms is also very common, and the creative use of language in this way can be endearing to listeners in casual conversation. However, as idioms' meanings aren't very clear from a reading of their literal words, they present a special challenge to second language learners.
How pictures can strengthen your memory of idioms.
Pictures can help learners understand and remember the meaning of idioms better by showing the metaphorical meaning through the literal meaning. By combining the two types of meaning (literal and metaphorical) in a picture, the learner can create a visual pathway in the brain to an image that packages both meanings together. Consider the two pictures on the left for the idiom "tie the knot", which means "to get married". The left picture only shows the literal words (a knot being tied), whereas the right picture shows the metaphorical meaning, through a wedding ceremony (metaphorical meaning) and a knot tied (literal meaning) around the couple. By bundling both meanings together visually, learners stand a better chance at accessing the metaphorical meaning as well as the literal meaning. In this way, pictures can help learners more efficiently remember the metaphorical meaning of idioms.
学生のみなさんへのメッセージ
Will Rogers once correctly said that "everyone is ignorant, only on different subjects". Any one person only knows a small amount of the total sum of knowledge in the world. For this reason, it's important not to overestimate what you know and always assume that you can learn something new from the person you are listening to.
vol.14 高梨 信乃 教授
日本語教育と出会って
外国人に日本語を教えるという職業があることを私が知ったのは、学部2年生の時です。日本語教師が、英語教師などと同様の専門職として認められはじめた時期であり、たまたま手に取った雑誌で「日本語教師養成」という特集記事が組まれていたのです。ことばについて考えるのが好きだった私は、目の前にぱっと道が開かれたように感じました。私のやりたい仕事はこれだ!と。大学院在学中から少しずつ教え始め、以来、ずっと日本語教育という仕事とともに歩んできました。どれだけ長く続けても、この仕事は難しく、また、飽きることがありません。
日本語教育の魅力
日本語教育は、日本の外へ向かって開かれた窓のような仕事です。相手である学習者は例外なく外国人ですから、教師は常に異なる言語・異なる文化と接し、それについて考えることになります。それは時に困難を伴いますが、刺激的で楽しい経験です。同時に、日本語を外国語として学ぶ学習者とともに日本語を見るとき、また日本という国を見つめようとする時、教師の視線は逆に内へと向かいます。そして、そこに普段意識することのない、自分の母語や自国の文化についての気づきが得られるのです。このように、外へ、また内へ、両方向に目を開かせてくれるのが日本語教育の大きな魅力だと思います。
教育現場から拾い上げる研究のタネ
日本語という言語は、さまざまな観点、立場、方法により長く研究されてきました。日本語教育を目的とした研究に限っても、多くの蓄積があります。しかし、わからないことや気づかれていない問題はまだまだ残されています。たとえば、ある日のゼミで、発表者である留学生が冒頭に「今日は◯◯について発表します。では、始めましょう」と言いました。この発話は不自然ですよね。「始めます」とか「始めたいと思います」が適切です。しかし、教師が授業を始めるときに「では、始めましょう」というのは、ごく自然です。学生が言うと、なぜ不自然になるのでしょうか。この疑問をきっかけに、私は最近、意志表現を考えています。このように、教育現場での気づきが研究につながることは少なくありません。
学生のみなさんへのメッセージ
日本語教育に関心があるならば、まずは、日本語学習者と交流してみましょう。キャンパスの中にも留学生はおおぜいいます。また、みなさん自身が海外へ留学した時も、日本語や日本について考える貴重な機会です。外へ、内へ、目を開いてください。
vol.14 桝本 智子 教授
異文化間コミュニケーション分野への興味
大学卒業後に就職をした企業では、さまざまな文化背景の社員が一緒に働いており、多国籍・多文化における人材育成に関心を持ちました。大学院に戻り、国際政治学を専攻しながら、その中でもコミュニケーションの分野に関心を持ちました。共通語の英語や日本語を話しているのに違和感があるのはなぜなのか、という疑問の答えを見つけるヒントがこの分野にあったのです。その後、ニューメキシコで異文化間コミュニケーションの分野の創始者と言われている先生の授業を受けたことは大きな財産になりました。その先生からは頭で考えるだけでなく、自分の五感を使って学ぶことを教わりました。言葉ができても誤解が生じる理由を、文化やコミュニケーションの観点から一般の人にもわかりやすく紹介してきた先生の教えは重みがありました。
共に学ぶ
現在、継続している研究の一つに文化背景の違う人々にどのように公衆衛生を広めていくのか、というのがあります。具体的には、ニューメキシコにおける文化背景の違う、主にネィティブ・アメリカンの人々が住む地域の生活や伝統に合った生活改善方法を一緒に考えてプログラムを作っていくことです。そこでも価値観の違いからなかなかうまくいかないこともあります。なかでも時間の感覚の違いには頭ではわかっていても苛立つこともありました。日本の時間感覚に慣れている私にとっては、ミーティング開始時間が1時間以上も遅れていても慌てる様子もない相手を目の前にすると、改めて価値観の違う人々と仕事をしていく難しさを認識します。時々、「これが授業で学んだことだ」と頭では理解していても、感情レベルでは全く受け止められていない自分に気が付くこともしばしばです。
自分の文化を知る
それでも、文化の違いからくるコミュニケーションの取り方を知っているのと知らないのでは相手との向き合い方が違ってきます。私自身も毎回が学びの連続です。有名な社会心理学者が、異文化間コミュニケーションの研究は、他の文化への旅から始まり、自分の文化への旅として終わる、というようなことばを残しています。まさに私も他の文化への「なぜ」「もっと知りたい」から始まり、今もさまざまな違いを経験しながら、同時に「私自身の文化の価値観は?私はどういう判断基準をしているのか?」と自問を続けています。異文化間コミュニケーションの分野は、言葉への興味や知らない場所への興味から始まり、さまざまな経験をしながら自分自身の文化について深く知るきっかけになります。それにより相手を理解することができ、結果的には良いコミュニケーションにつながっていくと思います。
学生のみなさんへのメッセージ
"We need to know and appreciate others in order to know who we are." (Edward T. Hall)
vol.13 塩田 紗矢佳 助教
授業は"おいしい"
私の授業では、グループワークを中心とした、一人ひとりが活躍できるアクティブ・ラーニングを実践しています。目標は、スペイン語の力はもちろん、外国語使用の際に即戦力となる「自信」と「主体的に問題解決に取り組む姿勢」を育てることです。
現在、私は第2外国語としてのスペイン語やスペイン文化論を担当しています。これまで、大学のほか、中学校(英語)、高等学校(以下、スペイン語)、専門学校、短期大学、会社などで授業をしてきました。また、スペインの大学の語学センターで、スペイン人学生への日本語教育にも携わりました。それらの経験を通じて、授業において積極的な取り組みを促すことの重要性を感じました。
第2外国語としてのスペイン語は、どうしても日常的な使用が難しいのが現状です。そのため、授業こそが練習の場であると考え、学生が主体的に問題解決に取り組めるよう工夫しています。授業は、学生がたくさん集まる場であり、自然なコミュニケーションをおこなうには、"おいしい(最適)"ですから。
スペイン語は"おいしい"
外国語には、それぞれ独特の世界があります。英語、中国語に加え、スペイン語を学習することはさらに多角的に物事を見ることにつながるでしょう。また、そのぶん、世界の人々と交流するチャンスが増えるということでもあります。
スペイン語の母語話者は約4億7千万人いますが、世界全体におけるスペイン語話者とスペイン語学習者も含めると約5億6千万人。これは、世界で2番目に多いということになります(2015年時点)。
スペイン語は、スペインをはじめ、中南米のほとんどの国で使われており、現在は21か国の公用語です。つまり、スペイン語を勉強することは、異文化理解の枠を広げ、また、現実場面への対応力を高めるに違いありません。そのため、スペイン語は、みなさんにとって"おいしい"言語であると言えるでしょう。
"おいしい"体験が待っている
16世紀に初めてスペインと接点を持って以来、日本には、宗教をはじめ、様々な事物が伝わってきました。そして今では、「パエリア」や「チュロス」など、スペインの食べ物のいくつかは日本人にも広く知られるようになっています。しかし、スペインには、"おいしい"ものが、まだまだたくさんあります。
例えば、写真のようなガリシア州の「プルポ・ア・ラ・ガジェガ」のような絶品料理があります。シンプルな味つけですが、タコは驚くほど柔らかく、茹でたジャガイモとの相性も抜群です。スペイン語を学ぶと、メニューが理解できるため、新たな料理に挑戦したり、ガイドブックに載っていないお気に入りのお店に出合ったりすることもできるでしょう。それも、言語を学ぶからこその"おいしい"体験ですね。
学生のみなさんへのメッセージ
Siempre mañana.(いつも明日が)
未だ見ぬ明日に希望を持ち、コミュニケーションの輪を広げ、いろいろな学習や活動に取り組んでください。
vol.12 植木 美千子 准教授
海外留学だけでは高い外国語能力は身につかない
今これを読んでる皆さんは「海外で学べば外国語(英語)がペラペラに話せるようになる」や「海外留学を経験すれば国際人になれる」と思っていませんか?残念ながら、その答えは「No」です。驚くことかもしれませんが、多くの場合、海外留学の効果というものは、行く前にすでに勝負が決まっているのです。この驚くような見解は、海外留学での外国語能力の伸び(向上)は、留学前の伸びに比例しているという第二言語習得研究で示されています。つまり、海外留学前の努力が、海外留学の成功のKeyを握っていると言えるでしょう。しかし、そもそも「海外留学の効果」とは、「外国語能力」だけなのでしょうか?この答えも「No」です。「海外留学の効果」においても、英語力、異文化適応力、行動力、また批判的思考力など、1つ1つあげていくとキリがないほど研究結果が報告されています。このように海外留学の効果というのは多岐にわたっているのです。情報社会の今、インターネットや携帯のアプリをつかった語学学習の機会も増えてきました。しかしこのような時代だからこそ「自ら体験して学ぶ」という経験という資本価値が高まっています。そのため、外国語能力だけではなく、いかに海外留学での学びを最大限にするのか、そのためにはどのような行動をすべきか、という事前のプランニングが重要です。私は、教員が海外留学前にどのような学びを提供し、指導を行うことが、留学の効果をより高めることができるのか、ということや、学習者の海外留学先での経験や出来事がどのような効果を生み出し、さらに留学後、それが学習者によってどのように「意味づけ」され、言語(外国語)習得や異文化理解につながるのかを包括的に研究しています。
その「読み」に根拠はありますか?
私の担当授業は、学部では「Academic Reading a/b」と「基礎演習」で、主に海外留学前のスタディスキルを育成しています。上記で述べたように留学前にどれだけ力をつけていくか、またつけてあげるのかが、学生にとっても、また教員にとっても、非常に重要です。そのため、リーディングの授業においては、何となく分かるという「雰囲気読み」を排除し、なぜ答えがそうなるのか、なぜそのように解釈できるのかを突き詰めて考えます。加えて、外国語学部ならではの読みの正確さや精緻さ、そして文化的背景の理解を目指した指導をしています。皆さんは自分の「読み」に根拠がありますか?ぜひ本学部で「読み」が変わる体験を味わってみてください。
学生のみなさんへのメッセージ
学習の取り組み方は、投資(努力や時間)の量に比例してるということが分かってきました。特にアカデミックな世界では、学習に最も多く投資することが求められます。「賢い」投資家になってください。
vol.12 嶋津 百代 准教授
日本語教育と出会って
私が日本語教育に出会ったのは、ハワイに英語留学していたときでした。当時、私は東京芸術大学の美術学部の学生で、自分が進むべき道を探していました。ある日、アメリカ人の友人に「日本人としての強みや専門性を生かして、アメリカで日本語を教えれば?」と提案されたのが、日本語教育に興味関心を持つようになった最初のきっかけでした。
それから、私と日本語教育の長い長い旅が始まりました。
自分の母語なのにどうやって教えたらいいのかわからなくて途方にくれたことも、自分は教師や研究者に向いていないと思って落ち込んだこともあります。でも「日本語と一生付き合う!」と覚悟を決めたら、目の前に道が開けました。そして、飽き性の私が日本語教育の場に居続けるのは、この旅の途中で出会い、私が立派な教師・研究者になれるように手を差し伸べてくれた人々に対して、私なりの責任を果たすためだからです。
外国語学部での私の担当科目
現在、私は二つの教育分野を担当しています。一つは、日本語を母語としない外国人留学生に対する日本語教育です。もう一つは、将来日本語教師になりたい学生に対する日本語教師教育です。
これからもずっと、外国人留学生が日本語を学ぶ教室に参加していたいと望んでいます。なぜなら、私のキャリアは日本語教師として始まったからです。そして、日本語教育の実践の場に立ち続けながら、日本語教師や日本語教育専門家を育成することにも力を注いでいきたいと思っています。
次世代の日本語教育環境の構築に向けて
今後の日本語教育は、日本語や日本文化を伝えていくだけでは不十分です。「日本語を通して世界をどう見るか」「日本語を使って世界にどう向き合うか」このように、グローバルな視点で大局的に日本語教育を捉えることが必要になってきます。日本語学習者もそのような感覚を会得してほしいと思います。日本が迎える多文化共生社会においてどのような日本語教育環境を構築していくべきかを、私も常に考えています。
具体的に言えば、理想の日本語教育環境とは、日本語のネイティブ教師とノンネイティブ教師が協働して現場を共有することです。特に日本語のノンネイティブ話者が日本語教師として日本でも活躍できるようになることです。そのような日本語教育環境の構築こそ、多文化共生社会が実現できることの一つであると信じています。
学生のみなさんへのメッセージ
母語であれ外国語であれ、それらの言語が使える自分に自信を持ってください。学生の皆さんが、自分の母語を大切にして、学んでいる外国語に惚れ込んで、それらの言語を使ってたくさんのことを成し遂げてほしいと心から願っています。私がそうであったように、ことばを通して世界の人々とつながることのできる喜びを経験してほしいと思います。そのために、私は全力でお手伝いさせていただきます。
vol.11 S.ハンフリーズ 准教授
Globalisation has created many opportunities for Japanese companies. As the world becomes more interconnected, Japanese companies have the opportunity to sell their products and services to more people around the world. However, globalisation also creates challenges. The world is changing at a fast pace, so companies need to hire workers who can continually adapt to complexity and uncertainty. Companies need workers who can communicate with people from other cultures. They need workers who have open minds and critical thinking skills. In other words, companies need workers who can actively find solutions to problems in this rapidly changing world. Since the late 80s, the Japanese government has made steps to try to improve education to develop students who have the skills to thrive in this global society. However, my PhD research and the research of others indicate that Japanese secondary schools have been slow to adapt. As a result, to fill this demand for globally responsive workers, Japanese companies are hiring many foreign students rather than Japanese graduates.
Japanese companies have first class services and products; however, they can improve their international competitiveness through improving their marketing strategies. My current research and my seminar focus on ways to improve various aspects of marketing. Students in my seminar will develop their skills at market research, negotiation and persuasion, and audiovisual communication. They will write a report based on the analysis of the marketing strategies of international companies and they will also create their own marketing campaign (including a video commercial).
学生のみなさんへのメッセージ
Your university days are the best days of your life. Work hard and grasp your opportunities at Kansai University.
vol.10 今井 裕之 教授
平成25年度から実施された高等学校学習指導要領の外国語科解説編には「授業を実際のコミュニケーションの場面とするため、授業は英語で行うことを基本とすること」「普段の授業で英語を使用することにより、教室自体が自然な言語の使用場面となるよう環境づくりをすること」が明記され強く求められています。授業で英語を使う機会を増やし習得効率を高めるには、授業自体を英語で行うべきとの判断は理にかなったものだとは思います。ただ一方で、教室でのコミュニケーションが「自然な言語使用場面」での「実際のコミュニケーション」なのかは疑問で、むしろ「特殊な言語使用場面」と言ったほうが適切ではないでしょうか。授業者として教壇に立ってみて、英語授業がいかに「不思議な言語使用場面」であるかを実感したのが、私の英語授業研究のはじまりだったように思います。
私たちの日常生活では、レストランでの注文のように定式と目的に沿ったやりとりをする一方で、電車での友だちとの会話のような、定式や目的がない偶発的なやりとりもします。授業は偶発的なこともありますが、目的、定式が強いコミュニケーションです。教師や生徒は、英語授業のもつ目的や定式に従いながらも、「自然な場」での「実際の」コミュニケーションを実践せねばならず、二重に縛られたコミュニケーションが求められます。教科書の登場人物たちの発話は不自然だと批判されることが時々ありますが、彼らは二重の縛りに苦しみながらも会話をつなごうとしているのです。それは教師や生徒たちも同じです。
そんな英語授業のコミュニケーションを研究し続けわかったことのひとつは、外国語学習は、「英語の自己(self)」をつくることであり、英語を話す「新しい自分」、現在はまだ成っていないけれど、そう成りたい自分の姿を背伸びして演じることだということです。また、英語の自己を演じているクラスメートを、肯定的に受け止めることも授業参加者の演じるべきもうひとつの大切な役割です。このような研究をしていますので、自分も授業の参加者として、学生の背伸びを受け止めるとともに、新しい教師像を背伸びしながら演じています。
学生のみなさんへのメッセージ
授業をよりよい時間と場所に変えるのは、英語指導者だけの仕事ではありません。指導者と学習者とテクストが出会う場に、学習者の皆さんがどのように参加するかが、実は授業のあり方を決める重要な要素だと思います。どんな役割を帯びて授業に参加し、どんな自分を演じるのか次第であなたの教室での生活の質(Quality of classroom life)が、そして英語学習の質がどんどん変わりますよ。
vol.10 小田桐 奈美 助教
旧ソ連地域の言語と社会
私が専門とする社会言語学は、言語を社会との関連の中で研究する学問分野です。私は旧ソ連地域を対象とし、特に中央アジアのキルギスの言語状況と言語政策に関する研究を行っています。具体的には二つの観点に関心を持っています。
一つ目は、国家建設における言語の役割です。これまで、社会言語学や言語社会学、ナショナリズム研究などの研究領域が明らかにしてきたように、言語は、世界の様々な地域において、歴史的に国家建設の過程で大きな役割を果たしてきました。例えば、日本では明治時代に標準日本語が整備され、国家の象徴として位置付けられ、国語と呼ばれてきました。実は、日本の憲法には言語に関する規定が見当たらず、どこにも日本語が国語であるとは書かれていないのですが、日本語が国語であると広く認識されています。一方、キルギスでは1989年9月23日に、キルギス語が国家語として制定されました。現在は、憲法でもキルギス語が国家語として規定されています。私は、1989年以降キルギスがどのような言語政策を実施してきたのかを研究しています。特に、キルギス語はどの程度普及しているか、またロシア語やその他の言語にどのような地位を与えているのか、といった点に注目しております。
二つ目は、ある特定の言語を話したり学んだりすることが、個人にとってどのような意味を持つのか、ということです。言語は、個人のアイデンティティの拠りどころとなるばかりではなく、場合によっては「美しい」といった感覚を呼び起こすものでもあります。また、特定の言語を習得することが、国内外における社会的・経済的成功と直結する場合もあります。例えばキルギスでは、言語とアイデンティティの観点から、キルギス人(=キルギス国民ではなく、キルギス民族に属する人)にとってキルギス語がどのような意味を持つのか、ということが活発に議論されています。また、キルギス人以外の民族にとっても、今後どの言語を学んでいくのかが問題になっています。
現在、日本はグローバル化に直面し、特に日本社会の中で英語やその他の言語をどのように位置づけていくのかが、大きな課題になっています。もちろん、日本とキルギスの言語状況は全く異なるため、キルギスの経験を日本にそのまま適用することはできません。しかし、日本もキルギスも、社会的にどの言語を承認していくのか、次世代にどの言語を託すのか、また自らどの言語を選択し習得していくのか、という答えの見えない課題に直面しています。その点では全く同じ状況にあり、我々が学ぶことも多いと考えています。
担当授業
現在、主に全学共通科目「ロシア語」を担当しています。世界には、ロシア語を第一言語または第二言語とする人が、2億5000万人以上いると言われています。ロシア語学習を通して、学生の皆さんがロシアをはじめとする広大なユーラシア地域へと活躍の舞台を広げ、世界の多様な価値観を知ることができるよう、お手伝いしていきたいと考えています。
学生のみなさんへのメッセージ
このページを見ている皆さんは、少なくとも何かしらの言語に興味を持っている人たちだと思います。言語に興味を持ったきっかけは何ですか?そのきっかけを、是非心の中で大事にあたためながら過ごして下さい。そうすると、日常生活の何気ない場面で、「あ!」という新しい発見があるはずです。
vol.9 柏木 貴久子 教授
外国語学部で伝えたいこと
「なぜドイツ文学を専攻したのですか」と今でも時おり聞かれます。高校生の時にルキノ・ヴィスコンティの映画に惹かれ、ドイツ文化に造詣の深かったヴィスコンティ監督を通じ、文豪トーマス・マンを読むようになりました。作品を原語で読みたい、というのが専攻志望理由でした。つまり他者の異文化受容を通じて、今度は自らが主導的に、その文化を受容しようと思うに至ったわけです。しかしそれは受動的な行為ではあり得ません。興味の触手を伸ばしていくのは、つまり分析と解釈への一歩を踏み出し、その歩みを続けていくのは、積極性を必要とする、実は勇気と根気のいる行為なのです。そしてその対象が外国語圏に属するのであれば、文字通り言葉の壁が立ちはだかります。なぜなら言葉が担うものは広範かつ多層的なのですから。文化的、精神的財産を記録し、伝え、発展させ、様々な解釈を加え、それぞれの時代の知のパラダイムを形成してゆく力を言葉が担っているのですから。だからこそ永遠に階段を上るような努力が求められるのであり、しかしその一段一段に、知の交換のダイナミズムに触れる歓びも隠れているのです。これは、「なぜドイツ文学なのか」という先の問いによって初心にたち返る私が、改めて感じることでもあります。
私は外国語学部で地域文化研究(ヨーロッパ)と上級年次生が履修する外国語演習(ドイツ語)を担当しています。授業を通じて文化の多様性と多層性、言葉と格闘することによって広がる地平の広さの一端でも伝えることができたら、こんなに嬉しいことはありません。
「文化研究」としての「文学研究」
文学テクストは社会や日常生活で起こるあらゆる事象、さまざまなメディアによる表象を内包する複雑な構築物であり、文化という織物を範例的に示す分析対象です。文化の読解性に注目したとき、この織物を解く術を握るのは観察眼と文献学で培われる読解力です。私が研究において行っているのは、テクストの周縁領域を視野に入れることで意味付与の過程と美意識を含めた認識の変遷を抽出する試みです。大きなテーマのひとつは「食」。社会的総合現象としての食物摂取を文化形成の過程という視点から観察します。もうひとつは「都市」。新興メディアの影響や生活形式、芸術潮流の変遷に注目しながら、大都市という空間、その空間性の変容を扱っています。解釈の作業は集団および個人の生を考察すること、数値化できない人間の機微を意識化することだと考えています。
学生のみなさんへのメッセージ
外国語学部で「セカンドハンド」ではない文化へのアプローチを目指してほしいと思います。言語構造は思考方法をも形成します。さまざまな文化圏に興味を持って、その地の言語にぜひ挑戦してください。
vol.9 守崎 誠一 教授
異文化間コミュニケーション学とは
わたしが専門としている「異文化間コミュニケーション学」は、1960年代のアメリカで生まれた50年あまりの歴史しかない比較的若い学問です。新しい学問が誕生する背景には、常にある種の"社会の要請"のようなものがその背景にありますが、1960年代のアメリカには、異文化間コミュニケーション学に対する"社会の要請"があったということになります。具体的には、多くのアメリカ人(ビジネスマン、外交官、軍人、平和部隊隊員など)が海外に出るなかで、現地の人々と様々なトラブルを引き起こしていました。 同時に、アメリカ国内でも公民権運動の高まりに見られるように、人種間の対立が極度に高まっていました。そのような中で、どのようにすれば"異なる文化の人とよりよくコミュニケーションできるのか"ということに関心が集まり、異文化間コミュニケーション学は生まれました。
そう考えると、いまの日本社会においても異文化間コミュニケーション学という学問は、大変重要な学問であると思われます。なぜなら、多くの日本人が国内外で外国人と一緒に仕事をしたり、勉強をしたりする状況になっているからです。にもかかわらず、最近になってさまざまなところで"若者の内向き志向"が批判されています。つまり、日本人留学生や海外駐在を希望する社員の減少などが問題視されています。その際に"最近の若者はチャレンジ精神がない"とか"海外なんて、行けば行ったで何とかなるものだ"のような、ある種の"精神論"でそのことを論じる人がいますが、そういった議論は全くのナンセンスです。効果的に異文化適応するためにどのような知識やスキルが必要とされ、どのような教育・訓練をおこなうことでそれらが身に付くのか、といったことの多くが、すでに異文化間コミュニケーション学によって明らかにされているからです。
では、外国人とうまくコミュニケーションが出来るようになれば、それでいいのでしょうか。近年になって、多様な人々がこれまで以上に社会参加をするようになったことで、国籍や人種の違いに基づく"文化"だけでなく、それよりも小さな"共文化"と呼ばれる違いを超えたコミュニケーションもまた活発になってきています。具体的には、同じ職場で男女がより良く仕事をするための"異性間のコミュニケーション"や若者と高齢者の"異世代間のコミュニケーション"、"健常者と障碍者のコミュニケーション"などの機会が増えています。そして、そのような共文化間のコミュニケーションもまた、異文化間コミュニケーション学では研究をおこなっています。
学生のみなさんへのメッセージ
これからの日本社会は、ますます多様化をしていきます。その際に、さまざまな違いを"文化"の違いとしてとらえて、異なる"文化"のあいだのコミュニケーションを困難にする要因を探り、どのようにすればうまくコミュニケーション出来るのかについて研究をおこなってきた「異文化間コミュニケーション学」に対して、より多くの学生が関心を持ってくれることを希望します。
vol.8 池田 真生子 教授
専門の学習方法論では、どのように外国語(英語)を学習するのが効率的か、そしてその学習方法を、どのように学習者に伝授すればよいかを、指導方法、教材、学習環境などの観点から研究しています。
外国語の学習では、学習の計画・振り返りを大切にし、(リーディングやリスニング、語彙学習などの)スキルに応じた効果的な学習方法をとることがよいとされていますが、その効果的な学習方法が一度授業で紹介されただけでは、学習者はなかなか実行に移せません。一度やってみることはあっても、なかなか継続できません。学習自体も、一人で「継続」させることは、なかなか至難の業です。研究では、ペースメーカーとなるようなものの存在が、継続を支えることがわかってきました。そこで現在は、授業ではどのような活動をすれば授業外の個別学習の支えとなるか、どのような教材が役立つか、などを研究しています。
担当授業は、学部では「英語教育論(学習方法)、(小学校英語)」「英語科教科教育法」「オーラル・コミュニケーション」「上級英語」です。「英語教育論」では、専門分野の学習方法論の他に、学習者がもつ動機や学習不安などを理解し、学習者の視点から英語教育学の理解を深めます。また、昨今導入された小学校での外国語活動について学びます。「オーラル・コミュニケーション」や「上級英語」の授業は、英語のみで実施し、グループワークを中心に進めています。学部の他に、大学院では「外国語教育教材論(英語)」を担当しています。
学生のみなさんへのメッセージ
外国語の能力は、なくても不自由しないかもしれませんが、あると世界中でのさまざまな体験を可能にしてくれます。外国語の習得には長い年月を要しますが、焦らず、あきらめず、Festina Lenteで続けましょう。そして、将来の可能性を拓いてみてください。
vol.8 小嶋 美由紀 准教授
中国との出会い
私は中学時代に地元である長野市の訪中団の一員として、中国北京市と石家庄市を訪問する機会を得ました。たった1週間程の滞在でしたが、大陸に降り立った瞬間日本とはまるで違う空気のにおい(大陸の乾いた砂のにおい)や色(人民服や建物の色である紺やグレー、モスグリーンが大半!)、人の表情(固く強張った役人の顔)に、眩暈がするほど強烈なカルチャーショックを受けたのを今でも鮮明に覚えています。でも、その滞在の中で、つたないこちらの英語(中学生の時はもちろん中国語が話せませんので)を懸命に聞き取ろうとしてくれる高校生や大学生、ピンクの旗を振りながらありったけの笑顔で踊って歓迎してくれる子供たち、蓋付きの陶器のコップから香るジャスミン茶の香り、そしてほっかほかの温かい中華料理!を前にしたとき、まさに私は「中国と出会った」と感じました。その後、大学では英語の重要性から英文学科で英語教育を専攻しましたが、あの1988年に出会った中国が忘れられず、英文学科でありながら中国北京に語学留学し、大学院ではより専門的に中国語を学ぶため、中国語学を専攻するに到りました。大学時代と大学院時代、合わせて2度の中国留学を経験し、行く度に目まぐるしい変化を目の当たりにしますが、私が中国を語るときの礎になっているのは、やはりあの1988年の中国のような気がします。
中国語から見える中国人の価値観
言葉を話すのは「人」ですから、言語にはそれを話す人々の価値観や文化的背景が反映されることが多々あります(もちろん、それが全てではありませんが)。私はこれまで特に中国語の人称代名詞の振る舞い方に興味をもって研究してきましたが、人称代名詞にも文化的背景が反映されているものがあります。例えば、中国語には既に"我们"という1人称複数形があるにも関わらず、もう一つ"咱们"があります。なぜ、1人称複数を表す形式が二つも必要なのでしょうか。"我们"は、「あなた」を含まない「私たち」(排除型)と、「あなた」を含む「私たち」(包括型)の両方を指示することができますが、"咱们"は「あなた」を含む「私たち」(包括型)を表すことしかできません。つまり、「あなた」を含んでも含まなくても使える"我们"と比較して、"咱们"はより積極的に「わたしとあなた」の仲間意識を相手に伝えることができるツールなのです。一方、日本語にはそのような区別はなく、「私たち」という1語だけです。また、日本語には3つの指示詞(こ、そ、あ)がありますが、中国語には2つの指示詞("这"、"那")しかありません。話し手と聞き手が近くにいても、相手のものであれば「そ」で表わし(例:その服)、自分のもの(例:この服)と区別して表す日本語とは対照的に、中国語は相手が自分の近くにいれば、同じ近称指示詞"这"を使って表します。これも、相手と自分との領域を分けない中国人の価値観の一つと言えるかも知れません。人称代名詞や指示代名詞のこうした振る舞い方一つとっても、日本の文化は相手の領域を尊重し、その領域に踏み込まないように相手と距離を置くことが、コミュニケーション上重要視されるが、中国の文化では、相手を自分の領域に取り込む、あるいは相手の領域に入りこむことによって、相手との仲間意識を伝えることが重要視されるといえます。中国で生活をしていると気がつくかも知れませんが、中国人は仲が良くなると、一緒に腕を組んで歩いたり(さすがに女性に限られますが)、相手の所有物でも許可を得ることなく自由に使います。「親しさ」を積極的に表現することを好しとする中国人ならではですね。言語形式の違いに文化的な相違が反映されることもあることを知ると、言語習得がより促進されるだけではなく、その国の文化の理解にも繋がり、深い意味でのコミュニケーションを学ぶことにもなります。どのような表現が「日本語的発想」で、どのような表現が「中国語的発想」なのかは両言語を対照研究することによって発見できることが多いのです。私が担当している「中国語購読」の授業では、単に書かれてある文章の意味を解釈するだけではなく、中国語の構造にも目を向け、日本語との違いを意識的に考察し、その背後に存在する発想の違いを知る授業になるよう心がけています。
学生のみなさんへのメッセージ
中国語をじっくり観察すると、日本語や英語といった他言語との相違点だけではなく、共通点があることにも気がつくと思います。そこには普遍的なコミュニケーションの原理や人間の認知能力を明らかにする鍵が隠されているかも知れません。より深く中国語を学ぼうとすれば、きっと日本語も知ることになるでしょう。そんなことばの探求をみなさんと一緒にできるのが楽しみです。
vol.8 A.J.バーク 教授
言語と文化は、切り離して考えることはできません。文法的に正しくても、文脈や文化的な背景に即していなければ、本当の意味でその言語を使いこなせている、とは言えません。円滑なコミュニケーションをとるために、その談話の場に当てはまる社会的・文化的ルールを意識しながら、適当な言葉を選択する注意が必要です。
第2言語の話者が特に気を付けなければならないのは、言語により、社会的・文化的ルールが異なることです。例えば、日本語で話す際、初対面の場合や話す相手が自分より社会的地位が高いと判断した場合は、社会的距離を示すために敬語を使用することができます。しかし、英語には、敬語というものは存在していません。では、英語では、どのように相手と良い関係を作るのでしょうか。又、どの言語で話しても、話者が何等かの情報を相手に伝えようとすると、発話には必ず、自らのアイデンティティーや相手のアイデンティティーを表明する「ヒント」(マーキング)が含まれます。しかし、その「ヒント」は、言語によってどの様に異なり、どんな形で現れるのでしょうか。外国語の学習者にとって、この様な質問の答えを探し出し、納得し、自分のものをとしていくことは、一つの大切な作業だと思っています。
授業ではそのため、私が学部で担当している「英語上級」、「英語ディベート1」、「英語ディベート2」、「英語リスニング2」、上級外国語(英語2)」のクラスでは、実際に外国で英語を学んでいるのと同じような環境を作りと試みています。全ての授業は英語のみで行われ、本格的な英語教材や資料等を出来るだけ多く使用しながら、実際の例を多く取り上げ、英語と英語世界の文化の相互関係を考察させます。例えば、「英語上級」のクラスでは、英語と日本語を比較しながら、言葉と「ジェンダー」、「ポライトネス」、「インポライトネス」、「アイデンティティー」、「メタファー」、「名詞の言語学的なカテゴリー化」、「擬声語/擬態語」、「人間の指示」等の関係について、各テーマを基とした様々なクラス活動を行いました。このように、英語を学ぶと同時に、英語に含まれている文化的な側面と日本語を比較・考察することにより、学習者の英語についての知識が深まり、より熟練した英語話者になれるのだと思われます。
学生のみなさんへのメッセージ
"Learning to speak another language means taking one's place in the human community. It means reaching out to others across cultural and linguistic boundaries. Language is far more than a system to be explained. It is our most important link to the world around us. Language is culture in motion. It is people interacting with people."
- Sandra Savignon
vol.8 水本 篤 准教授
私のこれまでの研究で、語彙を意図的に学習する際に使用する語彙学習方略を調査してきました。外国語を学習する場合に語彙は、「とにかく、ただ覚えればよい」というものであると思われがちです。しかし、学習者がどのように効果的に学んでいくかというプロセスを調査することによって、より良い語彙指導のモデルを提案できるようになるだろうというのが私の研究の出発点でした。
語彙学習方略研究によってわかってきたこと
数年にわたる日本人大学生を対象とした調査では、多くの学生が語彙を意図的に学習しようとするとき、何度も書いて覚えるという方略を使っていました。この方略は、漢字を覚えるときに書いて覚えるということもあり、日本人英語学習者が語彙学習でよく使用する方略ですが、TOEICのような英語能力試験との相関を調べてみると、あまり効果がないということがわかりました。そして、より効果的な方略としては、実際に声に出したりするというような音声の利用であり、さらに効果的なものとしては、記憶に残りやすいよう関連づけを行う方略であることが明らかになりました。しかし、それよりも、語彙学習を計画的かつ自主的に実行することがさらに重要であることがわかりました。それには具体的な目標設定をはじめとする動機づけが重要になります。これらの結果から、現在は語彙学習に対する動機づけをどのように高めるかを研究しています。
正しく測定し、正しく評価する
私のもう一つの研究テーマは、測定と評価です。テストは常に英語学習に関連するテーマです。能力がきちんと測定できない英語テストを使って、学習者の評価を行うことはできません。特に入試のようなテストでは正しい測定が重要になります。また、研究において測定がきちんとできていないデータを使って、何かを主張しようとしても意味がありません。このように、測定と評価は常に表裏一体の関係にあるため、これを正しく行う方法を追求しています。
外国語学部では一年次生、三年次生のスキル科目の他に、英語教育論(テスティング)を担当しています。この授業では、英語教育における言語テスティングの位置づけを理解し、望ましいテストが備えるべき特性について学ぶことを目標としています。また、そのようなテストを作成する具体的な技法を学び、実際に問題を作成したり、テスト結果を分析する演習を行っています。
学生のみなさんへのメッセージ
自分の目標を探して下さい。そして、その目標に向けてがむしゃらに努力してください。自分で決めた目標であれば努力も辛くないでしょう。そのためにも、誰かの意見に流されるのではなく、何事も自分で決めることができる人になってほしいと思います。みなさんの成長を楽しみに見守りたいと思います。
Success is the ability to go from failure to failure without losing your enthusiasm. (Winston Churchill)
vol.7 奧村 佳代子 教授
中国語学習と私
私は、大学の国文学科に所属しながら、第二外国語として中国語を学び始めました。大学生になったので、心機一転、真面目に勉強しようと決意したことを今でも覚えています。
1年生の秋に、翌年から中国に語学留学することが決まりました。大学の交換派遣留学ではなく、まったくの私的な留学でしたが、突然降って湧いた話でした。留学に対して漠然とした憧れを抱いてはいたものの、現実のものとなるとは、正直なところ思っていませんでした。想定外の留学ではありましたが、留学中はもちろんのこと、この留学を決めてからの多くの出会いが、私の人生の糧になりました。
世の中には、留学などせずとも、語学学習にしっかりと取り組み習得できる人も大勢いることでしょう。私自身は、留学して良かったと心から思います。留学していなければ、私は中国語の勉強を早々と止めてしまっていたかもしれません。しかし、留学しさえすれば、自動的に語学力が増すわけでもなければ、人生変わるわけでもありません。人生を一変させるのも留学なら、単に外国で暮らした一時期となるのも留学です。
外国語学部では、現代中国語の基礎固めをする授業を担当しています。少しでも自信を持って留学してもらいたい、と思いながら授業に臨んでいます。
それぞれの「現代中国語」
「現代中国語」を学ぶという行為は、現代の人間だけの特権ではありません。たとえば、300年以上も前の江戸時代の日本人の中にも、「現代中国語」を習得しようと努力した人々がいました。「現代中国語」とは、その人その人が生きる時代に、生身の人間が実際に使用している中国語です。1700年代の日本人にとっては、1700年代の中国で話されていた言葉、使われていた言葉こそが、「現代中国語」でした。私は現在、日本の江戸時代の中国語資料の研究に力を注いでいます。遠い過去の「現代中国語」の姿を知ることは容易ではありませんが、好奇心旺盛で勉強熱心だった江戸時代の日本人は、当時の「現代中国語」を様々に取り入れ、書物の中に残してくれています。その膨大な資料を前にすると、鎖国政策下における閉鎖的な側面よりも、むしろ積極的に受容しようとした開放的な精神を感じます。
現代であれ江戸時代であれ、中国語学習という大きな流れを形作っているのは、ひとりひとりの個人の営みです。現代とは学習環境がまったく違っていたであろう江戸時代に、どのような人々が、どのようにして中国語を学んでいたのか、さらには学んだ中国語をどのように用いたのか、コツコツと調査していきたいと思っています。
学生のみなさんへのメッセージ
語学学習には終わりがありません。外国語学部に入学したことで、みなさんは母語以外で一生つき合える「ことば」に出会える可能性があります。その「ことば」は、みなさんの年齢や内面の変化にともなって、様々な意味を持つでしょう。ぜひ、途中で中断せずに、死ぬまで続けてください。出会えた「ことば」を、豊かで奥深い世界への扉にするか、無味乾燥の道具としてしまうかは、みなさん次第です。
vol.7 高 明均 教授
意志疎通の手段として話し手と聞き手の間に存在することばは、その性格から見て音韻論、形態通辞論、意味論など3つの領域で理解することが出来る。このうち、私の専門分野は朝鮮語語彙意味論に関するもので、語彙の共時的、通時的研究を通じて、同義、反義、多義、同音異義関係等を究明することである。このような語彙を体系的に整理したものが辞書だが、最近の辞書は使用目的別に多様な形で刊行されており、学習者に多くの便宜を与えている。最近は、近代朝鮮語に関する研究を通じて、語彙研究のやりがいを感じている。近代は日本との交流を通じて多様な文献が残っているが、例えば倭語類解、捷解新語、隣語大方などがそれである。このような文献は日朝対照言語学や歴史学を研究する学者たちには貴重な資料と見なされている。このように、語彙意味を探求することを通じて語彙力を向上させ、ひいては言語生活の活性化を図ることが出来る。一方、中国の漢字語は朝鮮半島を経て日本に伝わり、植民地時代には日本の語彙、漢字語が韓国に再流入して、法律、建築、印刷など日常生活でも多く用いられるようになった。韓国政府は国語醇化運動の次元で多くの語彙を醇化したが、依然として現場では日本語が用いられている実情である。このような日朝語彙交流に関するテーマも重要な研究テーマであると思っている。 その他の関心分野は外国語としての朝鮮語教育だが、理解教育と表現教育が中心をなしている意志疎通(コミュニケーション)式教授学習法と教材分析にも関心を持って研究を行なっている。 学部では朝鮮語総合、大学院では朝鮮語語彙論、外国語教育教材論(朝鮮)を担当している。
学生のみなさんへのメッセージ
21世紀の国際化時代に世界はどのように動いているのか、自分で尋ねて行って体験してみよう。そのためには外国語能力が欠かせないと思う。外国語を通じて該当国家の文化を知り、現地の人々との交流を始めてみよう。そして、情報化時代にほかの人より一歩先んじて新たなものごとに接し、自分のものにしてみよう。究極的には自分の分野で最高の専門家となるよう、最善を尽くそう。
vol.7 A.J.ハント 教授
私は、ライティング1のコースと3回生のプレゼンテーション演習を教えている。ライティング1のコースでは、学生たちは上質の短い文章やエッセイを書くことを学ぶ。英語で書くことは、学生が、彼らの文章やエッセイの最初に主要な考えを提起することが大切である。日本語で叙述する場合は、主要な考えを最後に述べるという方法をとるが、それとは逆になるということである。また、自らの主要な考えを、それを説明し、証拠となる裏付け、つまり特定の例やその詳細や事実や統計を使って立証することが、大変重要である。詩人、ウィリアム・ブレイクはかつて、「一般化することは、馬鹿になることである。」と述べた。しかし、ライティングのクラスでは、「証明なしに一般化することは、馬鹿になることである。」と、私は言い替えたい。我々の考えは、それらの考えを立証するのに利用した詳細な点や事例とともにある時のみ有効である。この様に証拠とは、非常に重要なものである。有名な映画で、証拠の大切さを例証した『12人の怒れる男』がある。私は、学生たちがこの映画を見ることを強く薦めたい。
プレゼンテーション演習では、学生たちは新聞や雑誌から自分自身の素材を選び、その要点をまとめ、練習し、そして小グループでプレゼンテーションを行う。時折、学生たちはクラス全体にもプレゼンテーションを行う。それぞれのプレゼンテーションの後、他の学生が質問をすると、発言者は彼らが考えていることを知る機会を得ることになる。また、そのような機会は、発言者にとって質問に的確で効果的な返答をする練習の場ともなる。演習で、学生たちは自信を持つことができる。加えて、私の希望であるが、学生たちが世界で起こっていることを学んだり、世界の出来事について自分自身の考えを深めることを願う。
ここ数年、私の調査研究は、エクステンシヴ リーディングに集中してきた。エクステンシヴ リーディングは、学生たちが多くのかなり易しい本を選び、それらを短期間に読む形式の読書法である。その後、彼らは読んだ本について叙述し、クラスメイトとそれらについて討論する。調査研究の中で、2人の教授と私は、多くの本を読むことは読書のスピードと堪能さを増大させることを発見した。私は、読書や多くの本の朗読を聞くことでさえ、学生たちの英語の能力を正に大変増進させるであろうと確信している。
学生のみなさんへのメッセージ
言語を学ぶことは、ギターやピアノの演奏を学んだり、サッカーや野球の仕方を学んだりするのと似ている。何故なら、これらの技術を身につけるには、時間を必要とし、練習と粘り強い継続が必要だからである。ちょうど楽器やスポーツを学ぶことが、特に何年かの練習の後、多くの喜びをもたらすように、言語の習得も、諸君が旅行したり、異なった文化を持つ人たちと気持ちを通わせたり、友達になったりすることで、その人生を豊かにするだろう。言語を学ぶことは、本当に諸君の人生を充実したものとするだろう。
vol.6 玄 幸子 教授
口語の魅力
中国語は文言と口語という完全な二重言語の歴史を有しています。そしてその長い歴史の中で常に主役であり続けたのは、揺るがない規範を持つ文言であり、口語が記録されることはほとんどありませんでした。20世紀初頭に敦煌莫高窟で発見された大量の文書は、正に当時の社会、文化の実相ををそのまま記録する資料として世界中のあらゆる分野の学者たちの注目を集めました。言語についても同様、当時の口語の様相を伝えるこの世紀の大発見により中国語口語研究は飛躍的な進歩を遂げることとなります。口語に対する認識、研究は敦煌出土資料よりはじまったと言っても過言ではありません。ここからさらに掘り下げて、漢訳仏典や様々な分野の資料の中に口語の軌跡を見出すことの楽しさは、氷山の一角からその下に広がる膨大な言語の諸相を発掘する喜びでもあり、なにものにも代えがたいと思われます。
歴史研究の応用
外国語学部での担当科目は中国語総合などを担当しています。外国語を習得する場合、最初のハードルは母語にない新たな発音を習得する事です。中国語の場合、まずは声調、単韻母ならばe、ü、声母でもっとも厄介なのはzh,ch,sh,rというそり舌音など。教室で最初にこれらの説明をし、実践練習を始めると、エエッ?という第2声の大合唱が聞こえてきそうですね。ところで日本語はあいまい音が多く母音・子音の数も少ないように言われていますが、実は少し学ぶと意外にそうでもないことに気づく筈です。例えば、日本語の「か、き、く、け、こ」の「キ」の音、「は、ひ、ふ、へ、ほ」の「ヒ」の音、これらは現代中国語にはありません。事象だけ述べれば、「ああ、無いのね」で終わってしまうところですが、さあ、ここで、一考......「何故ないの?」この答えを見つけようとすれば、現代語だけの知識では答えは見つけられません。実は古い中国語には「キ」「ヒ」の音がありました。ところが、17−19世紀初めに「口蓋化」という音韻変化が起こりすべて「チ」「シ」音に代わってしまったのです。現代中国語の音韻体系を歴史の流れの中で改めて捉えなおしてみると、g.k.hの声母の後には開口(φ介音)・合口(u介音)、j.q.xの声母の後には斉歯(i介音)・撮口(ü介音)というように互いに補い合う関係にあることにすぐに気づく筈です。そうすれば、juを「ジュ」と読むといった信じられないミスをすることがなくなります。これは1例にすぎません。歴史的な視点で現代中国語を捉えなおすことは音韻面のみならず、現代中国語の語彙、語法を深く理解する大きなポイントとなります。授業では、時に意識してこのような歴史的視点を盛り込みながら皆さんの理解を深く掘り下げていく工夫をしています。
学生のみなさんへのメッセージ
現代中国語(普通話)がどのような過程を経て形成されてきたのか、その歴史をたどることは即ち中国の民族・文化・思想の歴史をたどることでもあります。知の桃源郷に自由自在に遊ぶことを目指して、さあ一緒に、歴史の河を遡りましょう。
vol.6 近藤 昌夫 教授
近代のロシア文学は、「北のヴェネツィア」サンクト・ペテルブルグを主な舞台にしています。「ロシア文学はペテルブルグとともにうまれた」といわれるほど、この町は様々な作家を輩出しています。プーシキン、ゴーゴリ、ドストエフスキー、ブローク、ベールイ、ブロツキーなど、枚挙にいとまがありません。ということで、最近は都市を触媒にしてロシア文学を勉強しています。
ペテルブルグは18世紀に、ピョートル大帝によって強引に建造された文明の象徴です。そのため、捻れを抱えたまま成長して行きました。幻想都市、神話都市、宮殿都市、人工都市、革命都市など、変幻する様々な顔にロシアの複雑な表情があらわれています。捻れを写し取った文学作品からロシアを再現する作業を続けているのですが、プーシキンの幻想都市に熱狂し、ゴーゴリの不条理都市に笑い転げ、ベールイの象徴都市に迷い込み、気がつくといつもまた振り出しに戻っています。おまけに西欧中世文学以来の地獄巡りの伝統まで抱え込む街なので、なかなか全体がつかめずに呻吟するばかりです。
もうひとつの関心はロシアの視覚的思考です。聖像画イコンや、イコンが世俗化した民衆版画ルボークなどの伝統的視覚表現は、ロシア人のものの見方や表現方法にどのような影響を与えているのだろう。中世聖堂都市モスクワとの関係でも興味引かれるテーマなのですが、キリスト教と関わりの深い素材なので、浅学菲才の身にはこれまた難題です。
研究は、「樹の生長する速さで、キツツキのようにこつこつと、蜜をさがす森の熊のように」と構えていたら、「少年老い易く学成り難し」が他人事ではなくなってきました。
主に教養ロシア語を担当していますが、外国語学部でもロシア語総合を担当させていただいております。関西大学のロシア語教育は、ピロシキやボルシチ作り、学内朗読コンクール、関西ロシア語コンクール、関大3セミなどの「活動」と、歴史、社会、民族、芸術関連の様々な「共通科目」との連携によって、広く、深くロシア語を理解してもらうことを目標にしています。
学生のみなさんへのメッセージ
皆さんには、私のロシア文学の先生がしばしば引き合いに出されたロシアの格言から、「学びは一生のこと」を、また、とくに二十を迎えた皆さんで、いよいよ学問を究めたいというあなたには、私の比較文学の先生の信条「学酒合一」をご紹介したいと思います。
vol.6 李 春喜 教授
物語内容と物語言説
物語には、小説であろうと映画であろうと、日本語で書かれていようと英語で書かれていようと、同じ事柄を伝えることができる要素と、同じ物語でも、小説で表現されたり映画で表現されたり、日本語で書かれたり英語で書かれたりするように、媒体が異なる要素とがある。前者を物語内容といい後者を物語言説という。
物語と言語習得
「オオカミ少年」の物語内容は映画でも芝居でもパントマイムでも伝えることができるし、日本語でも英語でも朝鮮語でも表現することができる。しかし、英語で表現された「オオカミ少年」と日本語で書かれた「オオカミ少年」とでは物語内容は同じでも物語言説が異なる。そこで、同じ「オオカミ少年」という物語内容を、異なる物語言説で読むという事態が生じる。そのとき、物語のどの部分は言説を超えて伝わり、どの部分は伝わらないのかを考えるのが物語論である。それは同時に、外国語を学ぶということそのものである。どこの国の人間であろうと、どのような文化のもとで生活していようと、同じ人間である限り私たちは共通の物語内容を持っているはずである。しかし、生まれ育った環境によって使用する言語が違うため、共通の物語内容を異なる物語言説で表現しなければならない。いうまでもなく、それは外国語習得そのものであり、さらにいえば、それは言語の本質そのものである。なぜなら、言語が表現するものは、もともとは言語ではないからである。言語とは、表現するもの(言説)と表現されるもの(内容)から構成される記号である。
物語を読むということは、外国語を習得するということであり、言語を考えることなのである。
物語とは生きるということ
しかしそれはまた、生きるということでもある。「うそをつくのはよくないことだ」という言明を物語だという人はいないであろう。しかし、多くの人はイソップ物語の「オオカミ少年」を物語だという。そして「オオカミ少年」を読むことによって、人は「うそをつくのはよくないことだ」という言明の意味を理解する。つまり、私たちが持つ価値観の多くは、言明や命題を理解することによって獲得されるのではなく、物語を読むことによって獲得されるのである。物語がなければ、人は自らの体験を言語化し理解し記憶することさえできないであろう。
物語を読むということは、生きるということなのである。
学生のみなさんへのメッセージ
英語が使えるようになることそれ自体を目標とするのではなく、英語を使って何がしたいのかを具体的に思い描きながら四年間を過ごしてほしい。
vol.5 加藤 雅人 教授
研究の紹介
現在の専門領域は「言語哲学」です。主な担当科目は、学部では「言語コミュケーション論」、大学院では「意味論」です。これまで、西洋哲学史のテクストの分析を中心に、「真理論」「個体論」「存在論」「意味論」などのテーマを扱ってきました。言語分析哲学の発祥地ともいえる英国ケンブリッジ大学トリニティコレッジでの研究を通して啓発されたのは、20世紀の言語分析哲学で主題となっている「意味」や「指示」の問題が、じつは西洋哲学の伝統的な「神の存在論的証明」の問題と深くつながっているということでした。
神の存在論的論証とは、11世紀イギリスの神学・哲学者アンセルムスや17世紀フランスの数学・哲学者デカルトによる、「神=完全な存在者」という概念から神の現実存在を演繹的に導出できるという主張のことです。18世紀ドイツの哲学者カントは、デカルトのこの考え方を批判して、「存在はレアルな述語ではない」と主張しました。現代の言語分析哲学の流れを作った哲学・数学者フレーゲやラッセルの「存在は述語ではない」という重要な主張は、このカントの考え方を継承しています。要するに、意味や指示といった言語の問題の背景に形而上学的背景があるというわけなのです。
もう一つ、私が最近関心を持っているのは、「カテゴリー」の問題です。カテゴリーとは、われわれを取り巻く自然的あるいは人工的事物を分類し把握するために、心が参照する認知的概念のことです。古代ギリシャの哲学者アリストテレス以来、カテゴリーの意味内容は一義的に定義可能とされてきました。たとえば、「三角形」の意味内容は「三つの直線で囲まれた、内角の和が二直角の図形」というようにです。しかし、すべてのカテゴリーがこのように定義可能とは限りません。たとえば、「野菜」と「果物」は厳密に境界線を引くことはできません。カテゴリーは、一義的な定義内容によってではなく、プロトタイプ(典型)を中心として構造化されている、というのが現代の認知意味論の基本的考え方です。この考え方を深化させるため、data-based researchによって諸々のカテゴリー語の日英比較を行っています。
学生へのメッセージ
「外国語学」を学ぶということは、単に1つ(または2つ以上)の外国語が使えるようになるということではありません。その程度のことなら、わざわざ大学に行かなくても、いくらでも他に方法が見つけられます。現に、大学に行かなくても、日本人はみな日本語を不自由なく使えるのですから。大学で外国語学を学ぶ意味は、ある言語の学習を通じて、その言語を使う人間の思考様式、心理的構造、その背景にある思想や文化などについて深く理解することにあります。つまり、言語(=見えるもの)の分析を通して、その背後にある思考や文化(=見えないもの)を解明することだと思います。
vol.5 菊地 敦子 教授
日本語の世界観と英語の世界観
車の運転手が座る席というのはハンドルの前だと思いますか、後ろだと思いますか?「ハンドルの前に決まっているじゃないか」と言われるかもしれません。でも、英語では運転手は He sat behind the wheel と言って、「ハンドルの後ろに座る」と言います。この違いは、運転手をどこから見ているかによるものです。もし後部座席あたりから運転手を見たら、確かに運転手はハンドルの前にいます。でも、車のヘッドライトあたりに立って運転手を見たら、運転手はハンドルの後ろにいることになります。どちらが正しいというわけではありません。たまたま、違う視点から見た言い方がそれぞれの言語で定着しているのです。
このように、目に入ってくるものをどのように捉えるかは、英語と日本語とで違うことがあります。目に入ってくるものだけでなく、抽象的な体験を表現する時も英語と日本語とでは違うことがあります。日本語では「失恋から立ち直る」と言いますが、英語では I'm over him と言って、直訳すると「彼を乗り越えた」と言います。英語の直訳を聞いて、日本人でも、どういうことか理解できると思いますが、「乗り越えた」というと何か前に進んで行く感じがしますが、「立ち直る」というとあまり方向性は感じません。ということは、日本語話者と英語話者とでは、失恋そのものに対する考え方が違うのでしょうか。そうだとしたら、日本語にとらわれて生きているのと英語にとらわれて生きているのでは、人生がずいぶん違ってくるのかもしれない?!
私の研究はそういった日英の概念の捉え方の相違点や類似点を考えることです。
日本語の世界を越えて
外国語を学ぶということは、新しいものの見方を学ぶことです。失恋から「立ち直る」だけでなく、彼/彼女を「乗り越えて」生きて行く世界も知ってみませんか?そして、たまには、ハンドルの「後ろ」に座って運転してみませんか?
私が学部で担当している「英語オーラル・コミュニケーション1」、「上級外国語1」英語」のクラスでは、日本語を一切禁止して、英語の世界にとっぷり浸かってもらいます。いつまでも日本語をそのまま英語に訳していたのでは、本当の英語の表現に出会うことができません。こんな場合には、こんな言い方をするのかという発見をしてほしいのです。それによって、始めて日本語の世界から解放され、英語の世界を見つけることができるのです。
「通訳論1」のクラスでは、まず英語の音声を聞きながら、ほぼ同時に、すべてのことばをそっくりそのまま正確に繰り返し発音するシャドイングから始めます。英語の音声をしっかり認識する訓練です。その後、ある程度の長さの英文を最後まで聞き、一時的に記憶にとどめ、原文をそのまま口頭で再現する練習、または、原文の意味をとどめて、違う表現を使って再現する練習をします。はじめは短い文で、徐々に長い文を聞いて練習します。耳で聞いた英語を自分で言う練習です。シャドイングと違って、聞きながら繰り返すのではなく、聞き終わってから再現するので、記憶保持の練習になりますし、表現力の強化になります。
「翻訳論」の授業では、新聞記事から子供の本、映画の字幕まで、様々なテキストを扱い、原文はだれが、だれに対して、どのような目的で書いているのかを考えながら訳す練習をします。ここでは、英語だけでなく、日本語の表現力も養われます。
学生の皆さんへのメッセージ
人間というのは、努力しだいで無限の可能性を持っています。日本語の世界の外に英語の世界を見つけるというのは、ほんの小さなきっかけにすぎません。英語を知ることによって、日本語の深さを知ることができます。そして、さらに第2外国語を勉強すれば、世界はいろいろな見方ができるということを知ることでしょう。そんな風にして、どんどん自分の世界を広げて行けたら楽しいと思いませんか?そして、言語、国境を越えた自由にはばたく人間になって下さい。
vol.5 山崎 直樹 教授
「プロフェッショナル」になりたい
わたしは,「プロフェッショナル」と呼ばれるにふさわしい中国語教師になるべく,思いつく限りのことを,広く浅くランダムに勉強してきました。それで得たものが学生のみなさんの役に立つといいなと思っています。
「学習者のための中国語辞書」~「中国語コミュニケーション文法」へ
数年前,仲間とプロジェクトを立ち上げ,「第二言語として中国語を学ぶ日本語話者に最適な中国語辞書はどうあるべきか」を考えました。「第二言語」というところがミソで,学習者の痒いところに手が届くような辞書を作るために,中国語を母語とする人からの視点からでは得られない視点を提供できたと思っています。現在は,「コミュニカティブな中国語教育のための中国語コミュニケーション文法を構築する」というプロジェクトを立ち上げるべく,準備中です。この試みは,現在,中国語教育で使われている学校文法への挑戦です。
ことばに関する知識をどう伝えるか
上述の2つの研究の根っこには,「我々が言語に対してもっている認知的知識を,学習者にどう伝えるのが効果的か」という問いかけがあります。これが,わたしの興味の対象です。平たくいうと,文の組み立てかたとか,ことばの使いかたなどを,細かいステップに分けて,図式化したり視覚化したりチャートにしたり,コンテクストと同時に提示したりして,もっとわかりやすく示せないか,ということです。
コミュニカティブな教室活動
その他に,中国語の授業で使う,コミュニケーション能力を訓練するための教室活動の設計にも力を注いでいます。個人的には,これがもっとも趣味にあっていると思っています。しかし,最近は,思いつきで教室活動を設計してはいけないと気づき(授業が盛り上がればいいや,というウケ狙いの根性だけで授業を組み立ててはいけないと気づいたわけです),科学的な根拠に基づいてシステマティックに設計をする研究をしています。
どんな授業を担当しているか
まず,一年生の中国語の授業を担当しています(上記の教室活動の研究の成果が生かされているといいんですが)。「中国語科教育法」も担当しています。中国語教師になるためのトレーニングをする授業です。新しく「中国語プレゼンテーション演習」という授業も担当する予定です。どんな授業になるのか,自分でも見当がつきません。
学生の皆さんへのメッセージ
わたしは体が弱いので,「旺盛な食欲で何でも食べる」ことができる「鉄の胃袋」をもった人が羨ましいです。でも,「旺盛な知識欲で何でも勉強する」ことができる「鉄の脳みそ」なら,心がけ次第で手に入ると思っています。大学は,みなさんの前にありとあらゆる知識を並べたててくれます。それを見て,「げっぷ」といって,目をそむけてしまうようでは,もったいないと思いますね。
vol.5 和田 葉子 教授
英語史研究の楽しみ
皆さん、こんにちは。外国語学部では基礎演習と英語オーラルコミュニケーション、大学院では地域言語文化論(英国)の授業を担当していますが、専門分野は中世イギリスの写本研究です。
このコラムをお読みになる学生さんの中には、受験生の頃、英単語の数の多さに苦しんだ方も少なくないのでありませんか。その原因として、英語には他のヨーロッパの言語に比べて同義語がはるかに多いことがあげられます。しかし、これは英語の強みでもあります。語のニュアンスを巧みに使い分けることで、より豊かな表現が可能になるからです。
また、英語のスペリングも悩みの種ですね。"superman"という言葉の生みの親である劇作家で批評家のジョージ・バーナード・ショー(1856-1950)が、"fish"は"ghoti"ともつづれる、と言ったことはよく知られています。つまり、 "enough"の "gh"、 "women"の "o"、そして "nation"の "ti"をつなぎ合わせると、"ghoti"になるという訳です。イギリス人もスペリングには悩まされ、合理的に規則化できないかと、長い間、様々な試みがなされてきました。ちなみに、英語の綴り字改革運動に深くかかわった多くの人々の中には、上述のショーの他、『ガリヴァ―旅行記』で有名なジョナサン・スウィフト(1667-1745)や『ロビンソン漂流記』を書いたダニエル・デフォー(1660-1731)もいました。
しかし、英語には学習しやすい面もあります。英語以外のヨーロッパの言語を学んでいる皆さんは、動詞や名詞、形容詞等の語尾変化に泣かされているのではないでしょうか。英語の動詞や名詞にも不規則変化はありますが、ほんのわずかです。
どうして、英語はこのような特徴をもっているのでしょうか。すべての疑問は、英語の歴史を学べば明らかになります。今日の英語は、ドロドロした歴史的事件に次々と巻き込まれ、数奇な運命をたどった結果、生まれたものです。
私は学生時代から英語史、その中でも中世の英語・英文学に興味を持っていました。その頃は編纂されて活字になっているテキストを読んでいましたが、ブリティッシュ・カウンシル・フェロウとしてケンブリッジ大学大学院で学ぶ機会を得てから、中世の写本を読み、研究するようになりました(写真1)。テキストは羊皮紙や紙に羽ペンで手書きされています。何百年もの時を経ているとは思えないほど色彩が新鮮で、思わずため息が出るほど美しい装飾画が描かれている写本もあれば、汚れてくしゃくしゃになっていても有益な調査結果を導き出してくれる写本もあります。最も有名な中世の写本の一つは、ジェフリー・チョーサー(1340頃~1400)の『カンタベリー物語』を収録したエレズミア写本(写真2)です。15世紀中ごろに筆写されています。現在、私が興味を持っているのは、1330年頃にアイルランドで書かれたと考えられている大英図書館に所蔵されている写本です(写真3)。当時の言語事情を反映して、英語、フランス語、ラテン語によって書かれており、英語の最古の子守歌や、宗教詩、痛烈な諷刺詩、フランシスコ修道会に関係する記録などが収められています。
学生の皆さんへ
図書館で定期的に行われている特別展示を見たことがありますか。関西大学にたくさん面白い蔵書があることがわかります。芸術家で作家のウィリアム・モリス(1834-1896)が 私家版限定本として出版したケルムスコット・プレスの『チョーサー著作集』のファクシミリが展示されたことがありました。これは、印刷本における世界三大美書の1つと呼ばれています(写真4)。羊皮紙に印刷された本物は1997年のオークションで6000万円の値がついたそうです。コアラでキーワード検索して、あなたにとって興味深い分野の図書を探してみては?好きなトピックが意外な方向に展開するかもしれません。
vol.4 高橋 秀彰 教授
欧州連合(European Union, EU)
皆さんはリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーを知っていますか。オーストリア・ハンガリー帝国の外交官の父と日本人の母との間に生まれ、欧州統合の父とも呼ばれている人です。欧州は20世紀に入ってから大きな戦争を繰り返し経験し、近代兵器の使用により多くの人命が奪われました。クーデンホーフ=カレルギーは、国家や民族の枠を超えて、人々が仲良く共存していくためには、欧州全体を含む共同体を作らなければならないと考えました。また、アメリカや日本など経済力が強い国と競争していくためにも、国家を超えた共同体構築は欠かせません。クーデンホーフ=カレルギーの掲げた独仏の宥和と中・東欧を含む欧州の統合を目指すという「汎欧州主義」は多くの反響を呼び、今日の欧州連合として実を結んでいます。
EUは27の加盟国(2009年2月現在)を擁する巨大な共同体で、地理的に見ると東部は旧ソ連邦に接しています。多様性を旨とするEUは、加盟国の平等を根本原則にしており、EU公用語は23言語にもなります。
ドイツ語
EU内で最も母語話者が多い言語は何語だと思いますか。意外に思う人が多いかもしれませんが、答えはドイツ語です。西欧で行った調査によると、EU市民の4人に1人がドイツ語を母語として話しているのです。また、中・東欧での調査では、ドイツ語学習者は英語とほぼ同数で、フランス語学習者の約3倍にもなります。EUの行政機関では、作業言語として主に英語とフランス語が使われていますが、市民レベルではドイツ語が結構広く使われているのです。また、ドイツ語圏の経済力はEU内で最強です。このような現状を反映して、EU諸機関でもドイツ語をもっと使用しようという気運が高まっています。
欧州でも英語を使用する人が増えていますが、「母語+2言語」の計3言語を習得しようという運動が展開されています。誰もが英語しか学ばないようなことになると、多様な言語・文化から成り立っているEUの存立基盤が揺らいでしまうからです。また、英語以外の言語を軽んじたりすれば、EU内で不平等が生じ、社会的な結束が脅かされることにもなりかねません。さらに、外国語を学ぶ機会に恵まれないことで不利益を蒙らないように、外国語を学ぶことは大切な権利とも考えられています。これは「複言語主義」(plurilingualism)により保障され、誰もが必要に応じて、生涯にわたって多くの言語でコミュニケーション能力を発展させる権利があるされています。
功利主義的な物の見方が幅を利かせている今日のグローバル化世界では、人の人生には経済的損得以外にも大切なことがあるということを忘れてはなりません。言語は単なる道具ではなく、人間性の本質に根ざしたものです。他者と情報や気持ちなどを共有すると言う意味でのコミュニケーションは、人間として最も大切な活動であり、そこでは言語がとても大きな役割を果たしています。もちろん英語が大切な言語であることは言うまでもありません。しかし、英語以外の言語圏の文化や社会にも目を向けないと、英語圏諸国ですら相対的な視野で理解することが難しくなってしまいます。欧州に関心がある人は、ドイツ語を学んで自分の中に新しい窓を作ってみませんか。
学生の皆さんへ
あなたは大学での生活を通じて何を学びたいですか。世の中の仕組み、人の心、愛、学問など、学びたいことはたくさんありますね。いろんなことを学ぶ上で、自分がどんな能力を持っていて、どこまでその能力を伸ばすことができるのか、知りたいと思いませんか。今の時点で、自分が得意なことと不得意なことを、自分なりにある程度はわかっているかもしれません。でも、どんな領域であっても、その活動を精一杯がんばって、とことん深めなければ、あなたの潜在力が芽生えることはありませんし、本当に向いているのかはわからないものです。多くのことを幅広く見ることはもちろん大切ですが、何か没頭できるものも必ず持ってほしいと思います。忍耐を持ってどこまで深めることができるか試し、新しい自分が見つけられると素晴らしいですね。あなたのそんな取り組みをサポートするのが大学です。