カリキュラム

教員エッセイ

第44回「学生であること」を捨てよ、さもなくば、知を捨てよ

商学部准教授  千葉 貴宏(マネジメント専修)

 ヒトの知性の発達に関心がある。自分がアホになりたくない、というか、自分をアホにしたくない、という想いがあるからである。自分という、自分にとって最もコントロール困難な存在に対して感じる焦りは、体力の衰えからくるのかもしれない。先人が生み出してきた知的産物は、なるほど見聞きしたり数回自力で解説したりしたところで何も身についた実感を生じない。是非を繰り返し問い、日常用語だと感じるほどに自らの身体に染み込ませ、さらなる反復使用を数え切れないほど続けると、わずかに自分のモノになったように感じる。こうした真なる習得行為には、アタマだけでなく、体力もまた必要となる。知の獲得は、全身を使って行っていることなのだと最近気がついた。

 そもそも、アタマの良さとはなんなのか。勝手に列挙すると、知への理解の中から誤解をより分ける、Xならば「ナンチャラなので」Yといった背景的な論理を見いだす、ひとつの考えを文・図・表・数式等の複数メディアで示す、自分の考えを構造化し他者に伝達する、他者の考えをノイズなく別の他者に伝達する、自身の創造物への修正提案に対して情緒的反応をしない、といった諸点を満たすことだろうか。無論、何が知性の豊かさなのかはひとによって異なる。より大事なことに、各人が何らかの知的特性の必要性を身にしみて感じなければ、それをモノにすることはかなわない。

 学生は、知の必要性よりも知そのものを先に得る。その必要性を実感する場が欲しい。ある職責を全うせねば誰かや自分を傷つけるとき、あるいは、教わるのではなく教えるとき、知の必要性は自ずと生じる。誤解を恐れず言えば、学生は学生であることを捨てる必要がある、ということだろう。

『葦 2019.№174 秋冬号』より

2020年6月30日更新
※役職表記は、掲載当時のものです。

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