KANDAI HEADLINES ~ 関西大学の「今」

「仕事も子育ても」 ~人生の基礎は「秀麗寮」に~

関大人

株式会社鶴屋百貨店 業務部次長 松本 晃世さん(文学部 1997 年卒業)


  「人生の全ては○○で学んだ」。よく聞くフレーズだが、熊本の百貨店・鶴屋百貨店の松本晃世・業務部次長にとっては「関西大学の 4年間・秀麗寮で学んだ」ということのようだ。華やかだが厳しい百貨店ビジネスに身を置く松本さんに、女性が働きやすい職場環境の整備に奮闘した経験や熊本地震で感じた思い、人生の原動力となった関大時代について振り返ってもらった。

女性が働きやすい職場づくりに奔走

  取材対応をしているときも、お客さんがそばを通ると「いらっしゃいませ」と声をかけ、笑顔で会釈する。その姿は紛うことなき「デパートのセールスパーソン」である。「女性が多く活躍し、華やかでキラキラで、世界のスーパーブランドから地元のお漬物までそろっている」。そんな熊本を象徴する鶴屋百貨店に入社して27年目。これまでファッションやブランド品といった売り場でキャリアを重ねる一方、「女性が働きやすい職場」づくりに奔走してきた。

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2022年から2024年2月まで松本さんが統括していた鶴屋百貨店本館6階キッズテリアにて

  「鶴屋は昔から女性従業員の割合が高かったのですが、入社当時のマネジメント職は全員、男性でした」。松本さんはそう振り返る。やがて徐々に女性管理職が増え、自身も売り場の責任者、セールスマネージャーに昇進する。30歳の時だった。
  「その時に最初の妊娠・出産を経験したのですが、当時の上司の部長が女性で、報告した際の一言目が『よかったね』でした。その言葉が一番の励みになりました」。そして「妊娠期間中でもバリバリ仕事をする、自分なりの啓発活動」を、周囲にするようになる。「仕事を単に過小化するのではなく、できるときはできる。できないときはできないので。妊娠したらお辞めになる先輩方がいらっしゃって、もったいないなあと感じることもありました」。
  自身や夫の両親らは少し離れた地域に住んでおり、頼るわけにはいかない。そこで平日と土日祝日で違う保育園・託児所に預けたり、ベビーシッターなどを雇ったりしながら、夫と協力して子育てと仕事の両立に奮闘してきた。「親戚に『そこまでして仕事をするの』と言われたこともありました」。

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松本さんが設立に携わった従業員福利厚生施設  「鶴屋保育園 SmiliA(スマイリア)」

土日の出勤が多い百貨店独自の勤務体系に即した保育時間が設定されており、子育て中の従業員がキャリアを中断することなく働き続けられる環境が整えられている

  そんな経験から人事部時代には、社内にある認可保育園と企業主導型保育園の設置に携わり、土日の出勤が多い従業員も子供を安心して預けられる環境を整えた。一つの企業に二つの保育園があるのが珍しかったのか、他地域の百貨店をはじめ全国の企業から視察が相次いだという。  好きだからこそ仕事も諦めたくないし、家族だけでなく職場の仲間やお客さんともずっと笑顔でいたい。自分の悩みは、周囲のママたちの悩みでもある。その課題を解決したい。そんな想いで奔走してきた。

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鶴屋百貨店・本館6階「キッズテリア」内の室内遊び場「ピッコロの森」

熊本地震で再認識した「地元の支持」

  松本さんは人吉市にある熊本県立人吉高校の出身だ。進学の際に、なぜ関大を選んだのか。
  「どうしてもどうしても地元から外に出たい、という思いがあったんです。その時、関大出身の同窓会会長から良さを教えていただいて。親戚が大阪にいたこともあり、両親から『関大だったらいいよ』となりました」。
  水道水で顔が荒れることもあり、熊本・人吉の水の良さを改めて知ったこともあったが、「本来の意味で、関大という『水』には合いました」。そして就職活動では「地元に戻ってね、という両親の声もあった」こともあり、熊本に戻って社会人となった。
  鶴屋百貨店の企業ミッションや行動判断基準を念頭に「お客様のお役に立ちたい。そのためにはどういう品揃えが必要なのか、接客サービスが求められるのか」。それを考えることが、地元の顧客に支えられている百貨店の役割だと思っている。
  住民に頼られ、愛されているお店であることを改めて感じたのが、2016年の熊本地震の時だ。

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2016年の熊本地震で甚大な被害を受けた熊本のシンボル「熊本城」。復旧・復元に向けて修復が進む
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開店まもないころの鶴屋百貨店(写真中央)。地上3階、地下1階建ての建物は熊本県で初の近代建築だった(1953年撮影・毎日新聞社提供)

  震度7の激しい揺れに2度も襲われ、熊本のシンボル・熊本城も大きく損傷して、被災していない人がいない、という状況だった。松本さんも避難所や車内などで過ごしつつ、ヘルメットをかぶって店舗の早期営業再開を目指した。そんな状況で「鶴屋が明日、営業再開するってよ」「鶴屋が開かんと元気んでらんもんな!」という避難者の声を聞き、従業員は号泣したという。当時のエピソードをまとめた冊子が、鶴屋百貨店のホームページで公開されている。

「鶴屋百貨店 とっておきの話~熊本地震から学んだおもてなしの原点」~
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その後の全てを支えた 4年間

  いまや鶴屋百貨店の大黒柱の松本さんだが、そのバックボーン(精神的支柱)は4年間過ごした関大の学生国際交流館・秀麗寮にある。「苦しくなったときでも立ち戻って初心に戻れるところ。私の一番の財産です」。
  松本さんは秀麗寮で何を学んだのか。

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【関西大学 学生国際交流館・秀麗寮】  1953年「秀麗寮」設立、在寮期間4年、最大時定員約490人。1989年に日本人学生と留学生が共住する「学生国際交流館・秀麗寮」として建替え、定員は180人に。2018年からは広く学生への機会提供のため在寮年限1年として運用。レジデント・アシスタントが入寮者の生活をサポート、日常の中で自然な国際交流ができる環境を創出

  自身が入寮した時、女子寮の1年次生の日本人枠は9人で、入寮は狭き門だった。「面接や小論文もあったんです。大学に入るときより秀麗寮に入るときの方が勉強しました」と笑う。寮全体は男子寮や留学生らもいて、180人の大所帯。日本は47都道府県、世界は欧米、アジア等々からの出身者がいて、「今考えると全ての縮図でした」。日本人の先輩と後輩、文化習慣が異なる留学生が三つ巴状態で混在し、「共通点は同じ世代」という学生が自ら運営する自治寮だった。「例えば、あるアメリカ人の友人はあぐらをかいてごはんを食べる、だけど香港人の友人にはそれがノーだったりします」。そんな環境で24時間の集団生活を送るうち、ストレス耐性や調整能力、そして「何より意見をいう力」を身につけた。

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(左上)寮生が定期的に発行していた冊子(右上)寮祭での仮装(左下)留学生のルームメイト、クララと(右下)寮合宿にて

  寮生活では「集団の規則に従いながら、いかに自分を埋没させないか。わがままではなく、相手を考えてその意見を受け入れながら、自分の考えを伝えていかなければなりません」。学んだのは、"ぶつからないと調和は生まれない"、ということだ。「議論しかしていませんでした。議論 議論 議論 議論 議論、みたいな感じです」。

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26年ぶりに秀麗寮を訪れた松本さん。(左)議論を交わした委員会室で(右)友人と過ごした女子棟ラウンジにて

  3年次生の時には寮の副委員長に立候補。上級生に従う日本的文化をおかしいと感じる意見の対立があったが、「そこを融合させたいと思ったんです」。そんな松本さんの姿を見て、ある留学生が「留学生の意見も聞いてくれる、晃世が立候補するのを支援する」と応援演説をしてくれた。多様性やダイバーシティーなどを24時間、感じ続けた4年間だった。それがその後の会社人生、子育て、PTA活動など、あらゆることの「背骨」となり続けている。
  留学生らのおかげで世界各国に友人ができた。「夏休みになったら人吉に帰らずに、荷物を背負っていろんな国にいきました」。本当に楽しかった関大での4年間だった、と何度も語った。

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(上から順に)ベルギーの留学生訪問時、留学生宅でパーティー衣装での記念撮影、一緒に旅行した寮の友人と、フランス訪問時、留学生のご家族と、秀麗寮で出会った留学生と

ノーではなく「ジャスト・セイ・イエス」の人生を

  その秀麗寮で留学生に囲まれ、言われたことがある。「日本人は、『バット、ビコーズ』しか言わない。『ジャスト・イエス』からいかないと、前に行けない」と。最初から否定して言い訳から入るのではなくて、まずは受け止め、先に進めようというのがその心だろう。
  「このことは私の指針になっています。だから私は『バット、ビコーズ』は言わない。鶴屋に入ってからは常に『イエス』か『はい』か『喜んで』を心がけています」と笑いながら話す。その精神で仕事も子育ても楽しめた、と振り返る。

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(上)寮時代の友人からの手紙(左)留学生送別会当日、お世話になった下川美彌子寮主事らと(右)女子棟ラウンジで

  今の学生に伝えたいこと。それは繰り返しになるが、「関大の4年間に経験したことが、その後の人生のベースになっている」ということだ。卒業論文のタイトルは「秀麗寮における集団心理」で、その中に「学んだこと」として次のように書いた。「私の前にまだ道はないけれど、私の後ろには道はある」
  やはり、人との出会いが人生を変える。だから、関大で多くの人に出会って欲しい。「自分から進まないとチャンスは訪れない。まずは飛び込んでみて、何か起きたら対処していけばいいんじゃないかな」。楽か、苦しいか二択になったら、苦しい方を選んでみながら「それを楽しめるといいのかな」とも語った。
  「ジャスト・セイ・イエス」の人生を。松本さんは後輩たちに、希望のまなざしを送っている。

●株式会社鶴屋百貨店
1952年創業。現在は熊本県内唯一の百貨店として、熊本城や繁華街に近い熊本市中心部に本館・東館などを展開するほか、県内の主要地域で店舗を営業。2023年2月期の売上高は454億7600万円、同月末の従業員数は541人(うち女性320人)。企業ミッションは「お客様に幸福な体験をご提供すること」、行動判断基準は「お客様は家族である」。2016年4月14日と16日に熊本県内で2度の震度7を記録した熊本地震では、一時休業や部分営業を余儀なくされ、従業員も被災者となったが、同年6月1日に全館での営業再開にこぎ着けた。「その経験と想いを次世代に伝えよう」と、当時、顧客対応や接客などに当たった従業員らの声を集めた「鶴屋百貨店とっておきの話~熊本地震から学んだおもてなしの原点~」が、同社ホームページに公開されている。
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鶴屋百貨店 本館外観。左奥は東館  鶴屋女子バスケットボールチーム公式キャラクター「つるッピー」
出典:関西大学ニューズレター『Reed』75号(12月20日発行)※一部改訂
松本(旧姓:山田)晃世─まつもと(やまだ)あきよ
株式会社鶴屋百貨店、業務部次長。1975年熊本県生まれ。県立人吉高校、関西大学文学部教育学科(教育心理専攻)卒業。1997年鶴屋百貨店(本社・熊本市中央区)入社。インポート雑貨、新店準備室プロジェクトなどの担当を経て、2005年化粧品などのセールスマネジャーに昇進。その後2度の出産・育児休暇を経験し、人事部の教育グループ長兼鶴屋保育園統括責任者代理などを経て2022年から子供用品部部長に、2024年3月からは全館の営業企画立案計画、中心市街地活性化取組等を担う業務部の次長に就任。