「仕事も子育ても」 ~人生の基礎は「秀麗寮」に~
関大人
株式会社鶴屋百貨店 理事 業務部次長 松本 晃世さん(文学部 1997 年卒業)
「人生の全ては○○で学んだ」。よく聞くフレーズだが、熊本の百貨店・鶴屋百貨店の松本晃世・業務部次長にとっては「関西大学の 4年間・秀麗寮で学んだ」ということのようだ。華やかだが厳しい百貨店ビジネスに身を置く松本さんに、女性が働きやすい職場環境の整備に奮闘した経験や熊本地震で感じた思い、人生の原動力となった関大時代について振り返ってもらった。
取材対応をしているときも、お客さんがそばを通ると「いらっしゃいませ」と声をかけ、笑顔で会釈する。その姿は紛うことなき「デパートのセールスパーソン」である。「女性が多く活躍し、華やかでキラキラで、世界のスーパーブランドから地元のお漬物までそろっている」。そんな熊本を象徴する鶴屋百貨店に入社して27年目。これまでファッションやブランド品といった売り場でキャリアを重ねる一方、「女性が働きやすい職場」づくりに奔走してきた。
「鶴屋は昔から女性従業員の割合が高かったのですが、入社当時のマネジメント職は全員、男性でした」。松本さんはそう振り返る。やがて徐々に女性管理職が増え、自身も売り場の責任者、セールスマネージャーに昇進する。30歳の時だった。
「その時に最初の妊娠・出産を経験したのですが、当時の上司の部長が女性で、報告した際の一言目が『よかったね』でした。その言葉が一番の励みになりました」。そして「妊娠期間中でもバリバリ仕事をする、自分なりの啓発活動」を、周囲にするようになる。「仕事を単に過小化するのではなく、できるときはできる。できないときはできないので。妊娠したらお辞めになる先輩方がいらっしゃって、もったいないなあと感じることもありました」。
自身や夫の両親らは少し離れた地域に住んでおり、頼るわけにはいかない。そこで平日と土日祝日で違う保育園・託児所に預けたり、ベビーシッターなどを雇ったりしながら、夫と協力して子育てと仕事の両立に奮闘してきた。「親戚に『そこまでして仕事をするの』と言われたこともありました」。
土日の出勤が多い百貨店独自の勤務体系に即した保育時間が設定されており、子育て中の従業員がキャリアを中断することなく働き続けられる環境が整えられている
そんな経験から人事部時代には、社内にある認可保育園と企業主導型保育園の設置に携わり、土日の出勤が多い従業員も子供を安心して預けられる環境を整えた。一つの企業に二つの保育園があるのが珍しかったのか、他地域の百貨店をはじめ全国の企業から視察が相次いだという。 好きだからこそ仕事も諦めたくないし、家族だけでなく職場の仲間やお客さんともずっと笑顔でいたい。自分の悩みは、周囲のママたちの悩みでもある。その課題を解決したい。そんな想いで奔走してきた。
松本さんは人吉市にある熊本県立人吉高校の出身だ。進学の際に、なぜ関大を選んだのか。
「どうしてもどうしても地元から外に出たい、という思いがあったんです。その時、関大出身の同窓会会長から良さを教えていただいて。親戚が大阪にいたこともあり、両親から『関大だったらいいよ』となりました」。
水道水で顔が荒れることもあり、熊本・人吉の水の良さを改めて知ったこともあったが、「本来の意味で、関大という『水』には合いました」。そして就職活動では「地元に戻ってね、という両親の声もあった」こともあり、熊本に戻って社会人となった。
鶴屋百貨店の企業ミッションや行動判断基準を念頭に「お客様のお役に立ちたい。そのためにはどういう品揃えが必要なのか、接客サービスが求められるのか」。それを考えることが、地元の顧客に支えられている百貨店の役割だと思っている。
住民に頼られ、愛されているお店であることを改めて感じたのが、2016年の熊本地震の時だ。
震度7の激しい揺れに2度も襲われ、熊本のシンボル・熊本城も大きく損傷して、被災していない人がいない、という状況だった。松本さんも避難所や車内などで過ごしつつ、ヘルメットをかぶって店舗の早期営業再開を目指した。そんな状況で「鶴屋が明日、営業再開するってよ」「鶴屋が開かんと元気んでらんもんな!」という避難者の声を聞き、従業員は号泣したという。当時のエピソードをまとめた冊子が、鶴屋百貨店のホームページで公開されている。
いまや鶴屋百貨店の大黒柱の松本さんだが、そのバックボーン(精神的支柱)は4年間過ごした関大の学生国際交流館・秀麗寮にある。「苦しくなったときでも立ち戻って初心に戻れるところ。私の一番の財産です」。
松本さんは秀麗寮で何を学んだのか。
自身が入寮した時、女子寮の1年次生の日本人枠は9人で、入寮は狭き門だった。「面接や小論文もあったんです。大学に入るときより秀麗寮に入るときの方が勉強しました」と笑う。寮全体は男子寮や留学生らもいて、180人の大所帯。日本は47都道府県、世界は欧米、アジア等々からの出身者がいて、「今考えると全ての縮図でした」。日本人の先輩と後輩、文化習慣が異なる留学生が三つ巴状態で混在し、「共通点は同じ世代」という学生が自ら運営する自治寮だった。「例えば、あるアメリカ人の友人はあぐらをかいてごはんを食べる、だけど香港人の友人にはそれがノーだったりします」。そんな環境で24時間の集団生活を送るうち、ストレス耐性や調整能力、そして「何より意見をいう力」を身につけた。
寮生活では「集団の規則に従いながら、いかに自分を埋没させないか。わがままではなく、相手を考えてその意見を受け入れながら、自分の考えを伝えていかなければなりません」。学んだのは、"ぶつからないと調和は生まれない"、ということだ。「議論しかしていませんでした。議論 議論 議論 議論 議論、みたいな感じです」。
3年次生の時には寮の副委員長に立候補。上級生に従う日本的文化をおかしいと感じる意見の対立があったが、「そこを融合させたいと思ったんです」。そんな松本さんの姿を見て、ある留学生が「留学生の意見も聞いてくれる、晃世が立候補するのを支援する」と応援演説をしてくれた。多様性やダイバーシティーなどを24時間、感じ続けた4年間だった。それがその後の会社人生、子育て、PTA活動など、あらゆることの「背骨」となり続けている。
留学生らのおかげで世界各国に友人ができた。「夏休みになったら人吉に帰らずに、荷物を背負っていろんな国にいきました」。本当に楽しかった関大での4年間だった、と何度も語った。
その秀麗寮で留学生に囲まれ、言われたことがある。「日本人は、『バット、ビコーズ』しか言わない。『ジャスト・イエス』からいかないと、前に行けない」と。最初から否定して言い訳から入るのではなくて、まずは受け止め、先に進めようというのがその心だろう。
「このことは私の指針になっています。だから私は『バット、ビコーズ』は言わない。鶴屋に入ってからは常に『イエス』か『はい』か『喜んで』を心がけています」と笑いながら話す。その精神で仕事も子育ても楽しめた、と振り返る。
今の学生に伝えたいこと。それは繰り返しになるが、「関大の4年間に経験したことが、その後の人生のベースになっている」ということだ。卒業論文のタイトルは「秀麗寮における集団心理」で、その中に「学んだこと」として次のように書いた。「私の前にまだ道はないけれど、私の後ろには道はある」
やはり、人との出会いが人生を変える。だから、関大で多くの人に出会って欲しい。「自分から進まないとチャンスは訪れない。まずは飛び込んでみて、何か起きたら対処していけばいいんじゃないかな」。楽か、苦しいか二択になったら、苦しい方を選んでみながら「それを楽しめるといいのかな」とも語った。
「ジャスト・セイ・イエス」の人生を。松本さんは後輩たちに、希望のまなざしを送っている。