日本一多く駅名が変更された駅! 「関大前駅」ヒストリー
文化・スポーツ
関西大学千里山キャンパスの最寄り駅である、阪急千里線「関大前駅」。
実は、あることで「日本一」なんです。
乗降客数、標高、駅名の長さなど様々な日本一の駅がありますが、いったい「関大前駅」の何が一番かというと...。
答えは、駅名変更の回数。実は「関大前駅」は、日本で一番多く駅名が変更された駅なんです。
その回数は、なんと6回! 現在の「関大前駅」という名称に落ち着くまで、約40年の間に6度もの駅名が変更されたというから驚きます。
なぜこれほど頻繁に変更することになったのでしょうか? その理由を探るべく、関大前駅の歴史をたどってみましょう。
関西大学第一高等学校・中学校、幼稚園、関西大学会館、第3学舎が立ち並ぶエリアには、かつて「千里山花壇(千里山遊園)」という遊園地が存在していました。現在の「関大前駅」がある前後区間には、遊園地にアクセスするための「花壇前駅」、関西大学の最寄り駅である「大学前駅」という2つの駅があり、この2駅がのちに統合されたのが「関大前駅」なのです。
千里山花壇は、1921(大正10)年にオープンしました。今からちょうど100年前の遊園地とは、どんなものだったのでしょうか?
開園当初は「花壇」の名の通り、桜・桃・菊といった四季折々の花が楽しめるフラワーパークのような場所だったようです。その後数年にわたり改修・拡張され、ボート池や野外音楽堂、飛行塔、小動物園などが作られ、家族で楽しめる一大レジャースポットとして人気を集めました。
ちなみに、現在の第一高等学校・中学校の正門は、かつて遊園地の入口があった場所。第3学舎(社会学部)1号館のあたりに飛行塔、100周年記念会館の場所に野外音楽堂がありました。
現在の関大の姿からはなかなか想像がつかないですが、正門の位置や構内の地形は、実は当時とそれほど大きく変わっていないそうです。
1938(昭和13)年、児童遊園地や子供汽車が増設され、園名を千里山遊園に変更。それに合わせ、駅名も「花壇前駅」から「千里山遊園駅」に変わりました。しかし戦争が激しくなってくると、「戦時にふさわしくない」との理由で園名は千里山遊園から千里山厚生園に、駅名もあわせて「千里山厚生園駅」となります。その後、千里山厚生園は軍事物資の貯蔵施設として使われるようになり、遊園地は閉鎖されてしまいます。
戦争が終わると、名称を千里山遊園に戻して1946(昭和21)年に営業を再開。駅名も「千里山遊園駅」に戻ります。しかしわずか4年後、入場者数の減少により閉鎖することになりました。千里山遊園がなくなったので、また駅名も変わることに。新しい駅名はなんと「女子学院前駅」でした。
女子学院...? 関大が女子校になったのでしょうか...?
実はそうではなく、遊園地の跡地が新しい女子校の建設地として決まったため、駅名も早々に「女子学院前」に変更されたのです。この時点ではまだ校舎の姿もなかったのですが...、何とも気の早い話です。
駅名はすでに変更されていましたが、遊園地の跡地に校地を拡大したいと考えた関西大学がすぐに交渉を開始。年内には交渉が成立し、翌年の1951(昭和26年)に駅名は「花壇町駅」へと変更されました。「女子学院前駅」が存在していたのは、ほんの8ヶ月ほどのことでした。
その後、「花壇町駅」は隣駅の「大学前駅」と統合されることに。1964(昭和39)年、2駅の中間地点に現在の「関大前駅」が作られました。
駅名の変遷を改めて振り返ってみると、「花壇前駅」→「千里山遊園駅」→「千里山厚生園駅」→「千里山遊園駅」→「女子学院前駅」→「花壇町駅」→「関大前駅」と実に6回。時代の流れと共に目まぐるしく変わってきたことがわかります。
今となっては、古い駅舎や遊園地の面影は残っていませんが、第一高等学校・中学校正門前の踏切には「花壇」の名前が記されています。かつて休日に訪れた子どもたちが、ワクワクしながらくぐった遊園地の門があった場所は、現在では高校・中学校の正門になり、青春を謳歌する生徒たちを温かく見守っています。