KANDAI HEADLINES ~ 関西大学の「今」

能登から翔ける左腕、夢のその先へ 日本一に導いたエースの原点

文化・スポーツ

/人間健康学部 4年次生(体育会野球部) 米沢 友翔 さん


 関西学生野球春季リーグ戦優勝、第75回全日本大学野球選手権記念大会を制し、54年ぶりの日本一を手にした関西大学体育会野球部は、秋季リーグ戦、そして明治神宮野球大会に向けて、大学野球"四冠"を狙う。そのチームの中心に立つのが、全日本選手権で最高殊勲選手賞(MVP)を獲得し、一躍ドラフト候補として注目を浴びるエース左腕・米沢友翔さん。
 能登半島地震での故郷の被災や怪我、チームの低迷を乗り越えてつかんだ日本一の栄冠。幼少期から野球一筋で育った米沢さんのこれまでの軌跡を振り返る。

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石川の自然で育った野球少年

——野球を始めたきっかけを教えてください。


 野球をしていた父の影響もあって、小学2年生のときに先輩に誘われて始めました。石川県珠洲市の自然に囲まれた環境で育ち、野球一筋の元気な少年でした。ゲームもほとんどせず、とにかく野球が大好きで、家の前でいつもキャッチボールをしていました。珠洲市立緑ヶ丘中学校では、軟式野球部に入って投手や外野手としてプレーしていました。幼い頃から、いつかプロ野球選手になれたらいいなと思っていました。

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小学生時代に所属していた学童野球チーム「JBC珠洲」での米沢さん(前列中央)

——高校時代の成績を教えてください。


 金沢高等学校での県大会の成績は、1年夏がコロナ禍で中止となり、秋はベスト8。1年秋にレフトでレギュラーになりました。投手として先発を任された2年春はベスト4、夏は準優勝という結果でした。決勝では小松大谷高等学校との対戦で先発しましたが、悔しさの残る内容での敗退で、力不足を実感しました。3年春は準優勝、夏はエースとしてマウンドに立ちベスト16。結果だけで言えば、あまり良い思い出はないですね。
 肩の怪我で思うように投げられない時期が続き、納得のいくパフォーマンスを発揮できない悔しさがありました。ストレートは最速141kmまで伸びましたが、プロを目指す気持ちがある一方で、自分にはまだまだ実力が足りないなと感じていました。

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(左)珠洲市立緑ヶ丘中学校の軟式野球部時代 /(右)金沢高等学校の野球部時代

山口高志さんとの縁で、関西大学へ進学

 関西大学に入学したきっかけは、高校時代に指導していただいたコーチが元阪神タイガースの選手で山口高志さん(関西大学野球部アドバイザースタッフ)とつながりがあり、そのご縁で関西大学の練習に参加させてもらったことです。広いキャンパスや野球グラウンドの環境、そして先輩たちの気さくな雰囲気に惹かれて進学を決めました。
 人間健康学部は福祉やスポーツを実践的に学ぶことができる学部で、運動生理学やスポーツ栄養学が専門の澁谷顕一教授のゼミに所属しています。卒業研究のテーマは「投球の動作分析」で、野球部OBの大学院生と一緒に、堺キャンパスにある計測機器などを使って投球フォームの分析をしています。身体の各部位をどう使えばパフォーマンスが向上するのか理論的に理解することで、その知識を野球にも生かすことができています。例えば、足の筋肉の使い方を学んだことでピッチングや短距離のスピードも向上しました。
 堺キャンパスでは、体育会「KAISERS」の他競技の学生や、福祉に関心のある学生と交流する機会もあるので、いろいろな考え方を知ることができました。

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堺キャンパス・体験学習エリアにあるアドベンチャー施設では、グループ活動を通じて「気づき」を深める
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アルバイト先の焼肉店「レーサーズ」で店長と。同店は野球部員に代々親しまれている

能登半島地震での被災と、野球への葛藤の日々

——能登半島地震のことを聞かせてください。


 1年次生の正月に珠洲市に帰省し、祖母も含めて家族全員が実家にいたとき、強烈な揺れがありました。午後4時10分、震度6強でした。壊れた窓枠から外に出ると砂煙や木くずが舞っていて、周りの家は潰れ、目の前の光景が一変していました。山側にある実家は亀裂程度で済みましたが、海側にある祖母の家は津波の被害を受けました。家族は無事でしたが、その後少しの間、小学校の避難所で過ごしました。
 しばらくは野球に気持ちが向かず、身が入らない日々でした。地元が大変な状況だったので、「大阪には帰りたくない。珠洲に残る」と両親に伝えましたが、「あなたは大阪へ戻って野球をしなさい」と背中を押されました。大阪に戻るために気持ちを整理しようとしましたが、その後も震災の報道は見たくなくて......できるだけ見ないようにしていました。大阪に戻ってからも、すぐに気持ちを切り替えるのは難しかったのですが、チームメイトや先輩方が支えてくれて、少しずつ前を向いて、また野球に向き合えるようになりました。

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——その頃から、チームはリーグ4季連続Bクラスの低迷期に入ります。


 投打のバランスが悪かったことが、大きな理由だったと感じています。また、選手全員が「優勝を目指す」という強い意識を共有できていなくて、このままでは勝てないと感じるようなチーム状態でした。2年の春季リーグ戦では先発ではなく中継ぎで投げていましたが、左肩に違和感があり、不安を抱えたまま投げ続けていました。本当に「投げられない」と感じたのは3年の春季リーグ戦で、登板したときに左肘を痛めました。
 野球をしたいのに投げられないという葛藤の日々でしたが、手術はしない選択をし、トレーナーの方を信じて、ひたすらリハビリに取り組みました。山口さんもたくさん声をかけてくれて、周囲の方々も心配してくれましたが、最終的には自分自身との戦いでした。投げられなくてもトレーニングだけはしっかり続けていましたが、正直、楽しくはなかったです(笑)。2年先輩の金丸夢斗さん(中日ドラゴンズ)が大学時代に腰を痛めていたこともあり、どんなトレーニングをしていたのか教えてもらいながら、少しでも前に進める方法を探していました。


——チームや自身の状況をどのように見ていましたか?


 チームは勝てず、自分も投げられない。本当につらい時期でした。3年の夏頃からは周りが就職活動を始め、母からも「野球を諦めて、石川に帰ってきてもいいよ」と言われました。野球を続けるべきか本気で悩むほど追い込まれ、野球以外の進路も考えていました。当時は怪我が治ったとしても、プロに進める自信はありませんでしたね。

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低迷期から、全国制覇への転機

——登板復帰したときは、いかがでしたか?


 怪我が完治したのは3年の秋頃でした。痛みが完全になくなり、再び投げられることが本当にうれしかったです。ただ、焦らず少しずつ段階を踏んで投げるように心がけていました。4年の春季リーグで先発復帰して初勝利を挙げ、関西学院大学戦での準完全試合(1安打無四球完封)を多くの人に見てもらえたこともきっかけとなり、そこから波に乗れました。春秋では5季ぶりに優勝することができ、チームでずっと目指してきた結果だったので本当にうれしかったです。


——チームが変わった背景には何がありましたか?


 主将の森内大奈(総合情報学部4年次生)を中心に、「勝ちにこだわる」という意識がチーム全体に浸透していたと思います。練習内容自体は以前と変わっていませんが、一つ一つの練習に取り組む姿勢が変わりました。全員が同じ方向を向き、個々の能力を高めたことが優勝につながったと感じています。学生コーチも含めて厳しく指導してくれましたし、選手同士でもしっかり意見をぶつけあうようになりました。特に4年次生を中心に、自発的に気づいたことを言語化して共有する雰囲気ができていましたね。


——全日本大学野球選手権制覇の瞬間を振り返ってください。


 実は準決勝の國學院大學戦の朝から体調がかなり悪く、病院で点滴を受けていました。決勝の慶應義塾大学戦では、監督や選手たちに直訴してマウンドに上がりました。胴上げされたときはうれしい気持ちもありましたが、体が限界を迎えていて、「本当に胴上げされているのかな?」と思うほど記憶が曖昧で頭が回っていなかったですね。

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第75回全日本大学野球選手権記念大会で優勝
(下段右)関西大学理事長・学長への優勝報告
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(左)決勝・慶應義塾大学戦でプレーする米沢さん /(右)優勝が決まった瞬間、マウンドに駆け寄り歓喜の輪をつくった

——全国制覇のあと、金丸選手とは何か話しましたか?


 「おめでとう」と声をかけてもらいました。自分が2年次生のとき、2024年のドラフト会議で名前が呼ばれた瞬間の金丸さんは本当にかっこよかったです。そのときに「追いつきます」と金丸さんと約束しました。関大でずっと一緒に練習し、面倒を見てくれた先輩がプロで活躍していることは、自分にとっても大きな励みになっています。


——優勝後の侍ジャパン大学日本代表は、どのような経験になりましたか?


 青山学院大学の鈴木泰成選手や慶應義塾大学の渡辺和大選手など、同学年の選手たちと直接話せたことは大きな収穫でした。マウンドでの考え方や変化球の使い方について意見を交わし、刺激を受けました。アメリカ遠征では、メジャー候補の選手たちのフィジカルとパワーが圧倒的で、直球では太刀打ちできず、もっと努力が必要だと感じました。


——ドラフトが近づいてきましたが、意中の球団はありますか?


 もし自分を指名していただけるのなら、どの球団に行っても頑張りたいです。特定の球団のファンではありませんが、僕の周りには巨人ファンが多く、家族や祖父も巨人ファン。小さい頃から、巨人戦のテレビ中継をよく見ていました。憧れの選手は、金丸さんと同じく、シカゴ・カブスの今永昇太選手です。力感のないフォームから、空振りを奪える伸びのあるストレートを投げるところが好きで、自分の投球でも心がけています。

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2026 ワールド カレッジ ベースボール チャンピオンシップでは、「侍ジャパン」大学日本代表として初代王者に輝いた

関大野球部で得た財産

——関西大学での4年間を通じて、ご自身の成長を教えてください。


 山口さんからは、投手としての振る舞いを教えていただきました。試合では常に「マウンドで胸を張りなさい」という山口さんの言葉を意識しています。緊張はしても、動じない。「マイペースすぎる」とよく言われますが(笑)、投手向きの性格とも言われます。感情に振り回されず、まわりを気にしすぎないことは、自分の強みでもあると感じています。
 震災や怪我など苦しい経験もありましたが、この4年間で身体面でもメンタル面でも成長し、人として強くなったと感じています。珠洲でのびのびと育った環境が、自分の原点です。故郷のためにも、これからも頑張りたいです。


——最後に、関西大学野球部で得た財産は何でしょうか?


 関大に入った頃は、主力として投げられるような力はなかったと思います。それでも、小田洋一監督や山口さん、金丸さんら先輩、チームメイトなど、たくさんの人に出会い、支えていただき、最後の学年でしっかり活躍できたことは大きな自信につながりました。
 200人を超える部員、投手だけでも70人いる大所帯の中で切磋琢磨し、あれほど多くの応援を受けながらプレーできる大学はなかなかありません。恵まれた環境で野球をできたことが、一番の財産です。リーグ戦の春秋連覇を目標に、追われる立場になっても受け身にならず、自分たちも挑戦者だという気持ちで、一戦一戦、戦っていきたいです。


米沢 友翔 ─ よねざわ ゆうと
石川県珠洲市生まれ。金沢高等学校卒業。左投左打。最速149kmのストレートを武器に、スライダー、カーブ、チェンジアップ、スプリットを操る。身長180cm、体重81kg。2026年侍ジャパン大学日本代表。3兄弟の長男で、弟は大学で準硬式野球部、妹はテニス部に所属。趣味は平成のドラマや映画鑑賞。好きな俳優は横田真悠さん。好きな食べ物はハンバーグ。