KANDAI HEADLINES ~ 関西大学の「今」

「教育」で支える 子どもたちの笑顔と未来

グローバル

共に歩む支援のかたち

/特定非営利活動法人「Smile Please☆世界子ども基金」主宰・俳優・関西大学客員教授
藤原 紀香 さん


 華やかな芸能活動の一方で、20年以上にわたり世界の子どもたちを支え続けてきた藤原紀香さん。阪神・淡路大震災での経験を原点に、紛争や災害に苦しむ地域で支援活動に携わってきた藤原さんに、その経験、そして「教育」に込めた思いを聞いた。

活動の原点は阪神・淡路大震災

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 ──関西大学から客員教授就任の依頼があった時は、どのようなお気持ちでしたか?


 お話をいただいた時は「私には分不相応で、お受けできません」と一度お断り申し上げたのですが、大学側の思いを聞くと、24年間続けてきた私のライフワークでもある支援活動の経験などを学生たちに共有してほしいというお話でしたので、「私の経験がお役に立ちますならぜひ」とお受けしました。関西大学の学生さんたちとのご縁を大切に、交流を重ねたいと思っています。


 ──国内外でさまざまな支援活動をされていますが、きっかけは何だったのでしょうか?


 1995年阪神・淡路大震災が起こり、大学の卒業生や友人たちと避難所でのボランティア活動をしていたときのこと。著名な方々が応援に来てくれて、弾き語りで元気づけてくれたり、炊き出しをしてくれたり。寒さに耐えていた高齢の方や復旧活動で疲弊し ていた皆さんが「私たちは忘れられてないんだね、頑張ろうね」と高揚した様子で、彼らが帰ったあとも話に花が咲き、明らかに避難所の雰囲気も変わりました。私はその時、彼らはテレビや映画や舞台で人を楽しませるだけではなく、その現場に、光のような元気やあたたかさを届けることができる存在なのだと感動しました。実は、以前から私の夢は両親に反対されていましたけれど、私は、このことをきっかけに、〝今は親にも反対されているけれど、もし自身の夢が叶えられたら、エンタメの世界で表現するだけではなく、少しでも人や社会の役に立てるように頑張りたい〟と心に誓い、「何も援助はいらないから、自分の力で挑戦したい」と両親に伝え、上京を決意しました。

9.11 以降の戦禍を経たアフガニスタンへ

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 ──芸能活動は最初から順調だったのでしょうか?


 いいえ。いろんなオーディションに落ちましたし、貯めていたお金もすぐに無くなり、五畳一間の一人暮らしの日々が続きました。夢が叶えば、人の役に立てることをしようと思っていたのに、もう自分のことで精一杯で、何も行動できず葛藤の日々でした。被災した兵庫の友人たちと連絡をとるたび、「彼らも頑張っている。まだまだ私もやれるとこまでやる!」と、奮い立たせながら生きていました。
 そして、ようやく一歩ずつ階段を登り、連続ドラマの主演などを務められるようになったころ、9.11アメリカ同時多発テロ事件が起こりました。
 ニューヨークには語学留学のため、都度、お世話になっていたホストファミリーがいました。彼らの無事を確認し安堵した半面、その後、渡航した際、優しかった家族がアフガニスタンへの報復を当然だと話していたことに複雑な思いを抱きました。戦争は無関係の市民や子どもたちを巻き込んでしまいます。現場でしか分からないこともたくさんあるのだと、震災からの思いもあり居ても立っても居られず、戦争直後の一般市民の現状を伝えたいと考え、ドキュメンタリー番組の企画書を自ら作りテレビ局に提出しました。


 ──当時のアフガニスタンは、渡航すら危険な状態だったのではないでしょうか?


 戦争が終わったとはいえ、テレビ局からは最初「女優さんをアフガニスタンには連れていったことがありませんので」と断られました。その後、セーブ・ザ・チルドレンさんが救援物資を届けるルートなら同行許可が下りるということになり、渡航を決意。マネージャーもスタイリストもメイクさんももちろんいません。局のスタッフさんは有志、そして、私と、1人アフガンの言葉を英語に訳してくれる通訳の方も一緒に行ってくれました。彼女は幼い頃、アフガニスタンから父と2人で亡命をし、日本にたどり着いたアフガンの人でした。


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 ──アフガニスタンはどのような様子でしたか?


 渡航前に受けたセーブ・ザ・チルドレンの講義で、以前のアフガニスタンの街はパリのシャンゼリゼ通りのように華やかで栄えていたと聞いていましたが、現地にその面影は一切ありませんでした。到着したカブール国際空港には爆撃を受けた飛行機がそのまま横たわり、外に出れば軍用ヘリが轟音で機銃掃射をしながらパトロール、街を歩けば、行く場所がなく、今にも崩れそうな建物に住んでいる人たちもいました。現地の人たちは復興に対する余力さえなく、その日を生きることに必死でした。


 ──アフガニスタンではどのような場所に赴かれたのでしょうか?


 カブールの識字学校や、赤十字国際委員会が運営する義足センター、国連が支援していたテントで作られたバーミヤンの学校などを訪問しました。おもちゃに見せかけた地雷で手の指を失ってしまった女の子や、脚を失い義足で懸命にリハビリに励んでいる子どもたちにも多く会いました。アフガニスタンには、当時、約1,000万個以上の地雷が残されているとも言われていました。地雷区域を示す赤い石も道路の至る場所にあり、学校では子どもたちに危険性を教える地雷教育も行われています。しかしそれだけでは防ぐことはできず、多くの子どもたちが残留地雷の被害に遭っていました。


(左)アフガニスタン・カブールの識字学校 (右)女の子を抱きしめる紀香さん
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①③地雷の危険を知らせるため赤と白に塗られた標石の中を歩く人々。赤側は危険、白側は安全であることを示している。
 ②赤十字国際委員会が支援する「義足リハビリセンター」。ここで働くスタッフの多くは義足の使用者
 ④センターで製作された義足 ⑤5リハビリに励む片足が義足の3歳の少年 ⑥地雷教育を受ける子どもたち

 ──出会った子どもたちはどのような様子でしたか?


 学校では子どもたちと一緒に遊んで話をして、積極的にコミュニケーションをとりました。日本という遠い国から来た見ず知らずの私に「遊ぼう!遊ぼう!」と懐いてくれる。皆笑顔が可愛くて、勉強がしたい、学校に行きたいと話してくれました。なけなしの水でチャイを入れてくれたり。とても心優しい子どもたちでした。
 アフガニスタン最後の日、名残惜しい気持ちを抱えながら帰り道を歩き始めた時、彼らが追いかけてきてくれたことは今でも忘れられません。どんなことがあっても子どもたちの前では泣かないと決めて旅を続けていましたが、その姿を見て自然に涙が溢れて出てしまいました。「カンダクゥ、クダハフィス(笑顔で、さようなら)」と言ってくれた。美しいその言葉が忘れられなくて、アフガニスタンで撮影したチャリティー写真集のタイトルにしました。


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アフガニスタンでの活動から世界へ

 ──ニューヨークでも写真展を開催されたそうですね。


 2004年にニューヨークの日本クラブで写真展を開催しました。 その際、偶然私の写真集を手に取ってくださった国連の方のつながりから、2006年3月、インドネシアから独立したばかりの東ティモールへの視察にカメラマンとして同行することになり、同年5月には国連本部で、撮影した写真の写真展を行いました。ノーベル平和賞の受賞者である東ティモールのラモス=ホルタ大統領も出席してくださいました。その後、コフィー・アナン国連事務総長(当時)にお会いすることができ、各国大使が集まる国連本部で世界の子どもたちについてのスピーチをする機会もいただきました。
 アフガニスタンの他にカンボジアへも何度も訪れています。カンヌ国際映画祭で知り合ったアンジェリーナ・ジョリーさんや、お世話になった映画監督に勧められたことがきっかけです。カンボジアにも、ベトナム戦争の残留地雷で被害に遭った子どもたちや、貧困や親の麻薬犯罪によって孤児院に入っている子がたくさんいることを知り、胸を締め付けられました。

子どもたちへの「教育」支援の必要性

 ──子どもたちへの「教育」の支援に力を入れているのはなぜでしょうか?


 さまざまな国で子どもたちと話をした時、私の耳に届いていたのは、どんな過酷な環境下でも「学びたい」「学校に行き、友達をいっぱいつくりたい」「読み書きを学び勉強して先生になりたい」


 ──そんな声で溢れていました。生まれた環境によって選べるはずの未来が閉ざされ、学校にも行けない子どもたちがいる。彼らの未来に選択肢を増やすお手伝いがしたいと思いました。「学びたい」という気持ちに応え、そして学ぶことで、彼らの未来の選択肢も少しは増えるはずだと信じています。


 亡き小山内美江子先生が率いていた「JHP・学校をつくる会」が、カンボジアにたくさん学校建設をされていたので、豊富なノウハウをお持ちだったことからご協力を仰ぎました。最初はアフガニスタンにアンダー女子小学校をつくりました。チャリティー写真展や講演会を24年間細々と続けてきて、多くの方々と協力し合いながら、カンボジアやネパールなど合計6つの学校をつくり、現在も支援を継続しています。


 ──学校での子どもたちの様子はいかがですか?


 本当に喜んで学んでくれているようです。一番忘れられないのは、開校式で「学校をつくってくれた日本の人たちにお礼の気持ちを伝えたいけど、私たちには差し上げられるものが何もない。だから日本の歌を歌います」と、『ふるさと』を日本語で歌ってくれたこと。こんなにも心が温かくなった贈り物は初めてで、とても感激しました。
 また、2008年に完成した学校に、15年後に調査で再訪した時、私の肩を叩いて「私に見覚えありませんか?」と声を掛けてくれた若い女性がいたのです。その笑顔には15年前の開校式で元気に生徒代表挨拶をしてくれた少女の面影があり、本当に驚きました。「日本の皆さんが建ててくれたこの学校を卒業した後、夢を叶えて先生になり、ここで働いています」と聞き、胸がいっぱいになりました。
 ボランティアやチャリティーといった活動は結果が目に見えないことも多いです。しかし、地道に活動を続けていると、このような素敵な出会いに恵まれることがあります。「継続は力なり」なのです。校舎を建設して終わりではなく、その後の文具や図書を補充したり、建物の修繕であったり、開校後も継続的なメンテナンスとアフターフォローを行っていくことが重要だと感じています。また、こうした取り組みを引き継いでいく必要性も、日々強く感じています。

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【藤原さんの活動によって建設した6校の小学校】
(左上から右へ)アフガニスタン・バーミヤン県 アンダー村女子小学校(2004年)・ネパール・ジャパ州 ガネシュ学校(2018年)
カンボジア・プレイベン州 メーサン小学校(2008年)
(左下から右へ)カンボジア・プレイベン州 ポチバラン小学校(2023年)・カンボジア・スバイリエン州 プレイトロー小学校(2014年)
カンボジア・スバイリエン州 ワットトゥールティエット小学校(2011年)
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2008年に建設したカンボジア・プレイベン県
メーサン小学校で学んだ生徒のソピアックさん(左)は
現在、母校に戻り教師となった。

新たな一歩に寄り添う支援

 ──藤原さんの考える「支援」の本質を教えてください。


 まず支援というのは、物資や資金を届ければそれでいいということではないと思っています。東日本大震災の時に日本赤十字社の方と福島へボランティア活動で通っていた際、現地の学生たちが「たくさんの人が助けてくれましたが、僕たちがこの町に戻って何ができるかを考えて、しっかりやっていかなければいけないと思っています」と力強く話してくれたことがあります。
 また、ハリケーンの被害に遭ったバングラデシュで支援物資の希望を聞き取りした際には、若い女性の「私たちは人に頼ってばかりではいけない」という言葉を発端に、「このままでは自分たちの村は元気にならない」「一生懸命に外国の方が助けてくれているのだから、自分たちも頑張らないと」といった声が周囲に広がっていきました。
 彼らの言葉を聞いて、新しい一歩を踏み出す力を湧き起こしてもらうことが支援で最も肝心なことだと気付かされました。そのためには、こちらからの一方通行の支援ではなく、共に歩むという気持ちが大切。もちろん物資や資金も大事ですが、それ以上に、相手の声に耳を傾け、寄り添い、心を通わせ、そっと背中を押せる姿勢が必要だと考えています。そして、こうしたかかわりをサステナブルに続けていくことで、本当の意味での支援の力が生まれるのだと思います。


 ──支援活動というと、「自分に何ができるのだろう」と足踏みしてしまいがちです。


 私が活動経験をお話しすると、「私は何をすればいいですか?」と聞かれることがよくあります。しかし、そこに正解はありません。私自身も、社会や日本、世界の中で何か役に立てればという思いから、自分にできることを地道に続けてきました。ですが、どのような立場で、今何ができるか、その可能性は無限ですし、一人ひとり異なります。だからこそ、どんなに小さなことでも、それぞれが自分の役割の中でできることに取り組めばよいのだと思います。

NPO 法人「Smile Please」に込めた思い

 ──藤原さんが発起人のNPO法人「Smile Please」について教えてください。


 私が初めてアフガニスタンへ行くきっかけとなったのは、ドキュメンタリー番組制作のチームでしたので、番組の完成とともにそのチームは解散となりましたが、現地で目にした状況を思うと、私はそれで終わりにすることはできませんでした。「支援活動を続けたい」という思いから、このNPOを立ち上げました。


 ──具体的にはどんな活動をされているのでしょうか?


 現在は、仕事ではないライフワークとして、国内外を問わずチャリティー講演会や写真展を開催しています。講演会での私の話から、皆さんが何かを思い巡らせたり、想像を膨らませたりするきっかけになればと願っています。そして、日本だけでなく世界では何が起きているのかを調べたり、「自分にできることは何だろう」と考えたりする─そんな小さなアクションにつながっていればうれしいです。また、会場のほかウェブサイトでも「Smile Please☆世界子ども基金」のチャリティーTシャツを販売しており、いただいた大切な寄付はすべて、現地の学校建設や運営のために活用させていただいています。

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経験と出会いから自分の視点を育てる

 ──支援活動から芸能活動までパワフルにご活躍されていますが、その原動力は何でしょうか?


 やはり、支援活動の中で出会う笑顔ですね。人前に出るエンターテインメントの世界にいると、「偽善か!」などという批判的な意見を耳にすることもあります。それでも、そんな言葉を気にせずいられるのは、自身が実際に現場を見て、体験してきたから。何を言われようと、誰かを少しでも笑顔にできるのであれば、幸せなこと。これまでの24年間の活動を振り返っても、こちら側が励まし、サポートに行っているはずなのに、子どもたちや現地の皆さんから逆に元気をもらう場面が何度もありました。自分の行動の99%が自己満足だったとしても、残りの1%でも誰かの役に立って、笑顔につながっているのだとしたら、最高のことだと心から思えます。
 開発途上国で積み重ねてきた多くの経験が、こうした揺るがない自分の芯をつくってくれています。ぶれることのないその思いが、私の原動力の一つになっているのだと思います。


 ──藤原さんが発起人のNPO法人「Smile Please」について教えてください。


 私が初めてアフガニスタンへ行くきっかけとなったのは、ドキュメンタリー番組制作のチームでしたので、番組の完成とともにそのチームは解散となりましたが、現地で目にした状況を思うと、私はそれで終わりにすることはできませんでした。「支援活動を続けたい」という思いから、このNPOを立ち上げました。



 ──最後に学生たちにメッセージをお願いします。


 学びの時間というのは知識を得るだけでなく、自身の考え方や価値観を育てる大切な時間だと思います。そんな学びには一つも無駄はありませんし、学生時代に出会う人や経験は、自身の軸を作る大きなきっかけになります。社会に出ると、重要な選択をしなければならないことがたくさんありますが、その時に大切なのは、これまでの生き方において現場で得た知識であり学びであり、どう考え、どう感じてきたかという自分の経験です。ぜひ一つひとつの出会いや経験に対して丁寧に向き合いながら、多くのことを吸収して自分なりの視点を育ててほしいと思います。
 目先のことだけでなく、世の中で起きていることにも視野を広げてほしいですね。きっとそれが自身の歩みを支え、誰かのための行動へとつながっていくはずです。皆さん一人ひとりの歩みが、豊かで実りあるものになることを心から願っています。

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3月28日開催のチャリティー講演会「Smile Please ~アフガニスタンで出会い、カンボジアで学んだ『教育と未来』」(校友会主催)で、
インドネシア・バリ島の児童養護施設での「国際健康福祉実習」に参加した人間健康学部の学生と交流
出典:関西大学ニューズレター『Reed』85号(2026年6月30日発行)


藤原 紀香 ─ ふじわら のりか
兵庫県出身。大学在学中に1992ミス日本グランプリを受賞。卒業後に上京し、俳優としての活動を開始。以降、映像・舞台を中心に数多くの作品で主演を務め、CM、司会、声優など幅広い分野で活躍。主な舞台出演作に、『キャバレー』、『マルグリット』、『南太平洋』、『熱海五郎一座』、『華の太夫道中』、『カルメン故郷に帰る』、『サザエさん』、『魔界転生』、『忠臣蔵』など。また人気作にも恵まれ、今夏は フランス戯曲の傑作サスペンスの舞台『罠(』7/4・5 森ノ宮ピロティホール)、そして北条司原作漫画『キャッツ♥アイ』の舞台化となる『メイジ・ザ・キャッツアイ』(11/14~23 大阪新歌舞伎座)が今秋に決定している。芸能活動のみならず社会貢献活動にも長年取り組み、自身のNPO法人「Smile Please☆世界子ども基金」の活動を通じてアフガニスタンやカンボジアなどの開発途上国で学校建設を行い、子どもたちへの教育支援を継続。2025年大阪・関西万博日本館名誉館長。2026年度関西大学客員教授。