謎にせまる! 考古学研究室の前室長、米田先生に聞く
「歴代の天皇はなぜ明日香村に何度も宮都をおいたのか?」
研究
/米田 文孝 関西大学 名誉教授(関西大学飛鳥文化研究所・植田記念館名誉館長)
飛鳥時代の19の遺跡から構成される「飛鳥・藤原の宮都」が7月26日、ユネスコ世界文化遺産に登録された。「飛鳥美人」の壁画が有名な高松塚古墳の発掘調査や研究成果の還元などに、関西大学は学術的な立場から深く関わっている。そこで飛鳥京と藤原京について、考古学が専門の米田文孝名誉教授に伺った。
かつて歴代の天皇は各地に自分の住まいと政治の場を兼ねる宮殿を置き、宮都の場所も天皇の代替わりごとに遷宮していた。ところが飛鳥時代を迎えると、現在の明日香村の限られた範囲に集中して宮殿が置かれるようになる。飛鳥岡本宮、飛鳥板葺宮などいくつかの宮殿は、ほぼ同じ場所に造営されたことが発掘調査によってわかっている。なぜ、同じ場所なのだろうか。
「基本は一代の天皇につき一つの宮都が基本ですが、実際のところは政治的な理由や火災などにより、しばしば宮殿を変えていました。乙巳の変とその後の政治改革により、法律や制度が整うにつれて天皇が変わっても宮殿を変えないようになり、固定化されるようになったのですが、それは中国の影響を受けたと考えられています」と米田名誉教授は言う。遣隋使や遣唐使が行き来した時代であり、当時最先端を行っていた中国の都城のあり方を忠実に模倣したのだろうという。飛鳥時代には代替わりしても、宮都が現在の明日香村(飛鳥京)から移ることはなくなったのだ。そして時間を支配する水時計(漏刻)や大陸風の庭園(苑池)などの施設が宮殿周辺に増設されていった。
飛鳥時代の期間には諸説あるが、推古天皇が即位した592年からと考えると、710年の平城京遷都まで約120年。そのうち飛鳥(明日香村)に宮都があったのは100年ほど、残りは藤原京の時代になる。日本という国が形づくられた時代であり、約100年の間には、聖徳太子による十七条の憲法の制定や蘇我入鹿の暗殺など、政治的に大きな動きがあった。
「『続日本紀』では、文武天皇が701年の元日朝賀の儀式で『文物の儀、是に備われり』と、律令国家の基盤が完成したと国内外に宣言したことが書かれています。飛鳥時代には『第一の文明開化』といわれるほど急激な政治改革と新たな文化の導入が行われ、冊封体制の中で唐王朝とも外交関係が結べる独立国家が完成するにいたりました。そうした約100年間の日本の歴史が、現在の明日香村の狭い範囲に凝縮して展開していたことになります」。
飛鳥京の後、持統天皇が694年に遷都したのが藤原京だ。「豪族の住まいが天皇の宮殿の周辺に点在していた飛鳥京に対して、藤原京は中国の都城を参考にして、京域の中心に政治の中心と天皇の私的空間を兼ねる宮域を設け、序列に従ってその周りに各氏の住まいを配置しようと計画していたと考えられています」と米田名誉教授は語る。
礎石上の丹塗柱に瓦葺の大極殿や朝堂院などを中心に置くのは、これまでの宮都にない藤原京の特徴で、日本初の本格的な大陸(唐)風都城の出現だ。しかし、実はこの配置の元になった中国の情報が古かったという説がある。というのも、白村江の戦い(663年)で唐・新羅と対立した後からしばらく遣唐使が途絶えたため、新しい技術や政治制度などを取り入れることができず、古い情報を参考にせざるを得なかったと考える研究者もいるそうだ。
しかし、国家の威信をかけた藤原京は、710年の平城京遷都まで約16年間しか続かなかった。それはなぜか。米田名誉教授は、その理由の一つに立地の問題があるとし、「藤原京のある土地は東南側が高く、西北側が低いため、雨水や生活排水が中心にある宮殿に流れ込んできたのです」と話す。
そんな状況にあった藤原京は、とてもではないが快適に暮らせる環境ではなかったため、長く都を置こうと思えなかったのかもしれない。そのせいか、都城といえばイメージする碁盤の目状に整備された条坊を区画する直線的な道路や邸宅などの建物は、未完成で終わったものが多かったという。
「藤原京は、一辺約5.3km四方で計画されたとする説が有力です。大極殿や役所群、内裏などは完成していましたが、周辺整備はあまり進んでいなかったようです。都を彩る大官大寺や本薬師寺などの大寺院はつくられたものの、平城京遷都とともに移築されています。宮域の南に横たわる低い丘陵を掘削して、京域の中央を南北方向に貫く朱雀大路(幅約24m)を完成させています。しかし、他の条坊を区画する道路などは、計画したものの完成には至っていません。唐や朝鮮半島などに対する防衛に費用もかかるため、財政的にも都城づくりに集中できなかったのでしょう」。
こうしたことから、藤原京は未完の計画都市に終わったといわれている。ちなみに、702年から遣唐使が復活したため、平城京は最新の情報に基づいて造営されているという。
私たちが抱く都のイメージと実際とが異なるのは、飛鳥京も同様だ。今の明日香村は牧歌的な景観が広がるが、「実際の飛鳥京は木と石でできた無機質な都市空間でした」と語る。
「宮都の周りは板塀で囲まれ、内部には水路が張り巡らされ、建物の周囲や歩道は石畳。建物は白木に板葺、檜皮葺などで造られ、丹塗柱と白壁に彩られた重厚な瓦葺の寺院が建っている、そんな都市だったと推定されています。石畳なので、当時の靴では歩きにくかったと思いますよ。明日香村の水田風景は有名ですが、水田を少し深く掘れば飛鳥人が闊歩した飛鳥京の石畳が残っているのです」。
米田名誉教授は「今の景観と飛鳥京とは違うことを、ぜひ意識してみてほしい」とも語った。緑あふれる明日香村を散策するその足元には、古代の人たちが歩いた石畳がつながっているかもしれない。そんな心躍る想像ができるのは、明日香村ならではの体験だろう。