関西大学の知的ルーツ「泊園書院」開設200周年
~大阪ナンバーワンの学問所に迫る~
研究
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/文学部 総合人文学科 吾妻 重二 教授(泊園記念会 会長)
2025年、関西大学の知的ルーツのひとつである泊園書院が開設200周年を迎え、10月24日(金)・25日(土)に、梅田キャンパスで記念シンポジウムが開催される。"大阪ナンバーワン"の学問所ともいわれる泊園書院の特徴や果たした役割、本学との関わりなどについて、泊園記念会会長も務める文学部の吾妻重二教授に話を聞いた。
泊園書院とは、江戸時代後期の文政8年(1825年)に藤澤東畡(ふじさわとうがい/1794年~1864年)が大阪に開いた漢学塾、いわゆる学問所だ。当時、ほとんどの学問所の教育は漢学が基本だった。学問をするというのは漢学を学ぶことでもあったといえる。吾妻教授によると、江戸期の大阪には藩校がなかった代わりに、私塾や寺子屋など民間の学問所が数多く設けられたという。
「『天下の台所』として発展した大阪は、モノや情報が集まる大都市で、学問や文化も栄えていました。享保9年(1724年)に開設された懐徳堂(かいとくどう)を先駆けにさまざまな学問所がつくられましたが、この懐徳堂は商人たちが資金を出し合ってつくった学問所です。商人たちの間にも学問を尊ぶ気風があり、大阪が勉強熱心な土地柄だったということが分かります」
そんな中で誕生した泊園書院は、藤澤東畡に続いて長男の南岳(なんがく/1842年~1920年)、孫の黄鵠(こうこく/1874年~1924年)と黄坡(こうは/1876年~1948年)という三世四代によって継承され、昭和23年(1948年)にその役目を終えるまで約120年の歴史を持つ。では、泊園書院は関西大学とどのような関わりがあったのだろうか。
「大正11年(1922年)の大学令によって関西大学が旧制大学として認可されたとき、大学進学のための予備教育を行う予科も設置されました。この予科の講師に、藤澤黄坡を招いたことがきっかけです。関西法律学校を前身とする本学において、黄坡が初の名誉教授となったことからも、本学にとって大きな存在であったことが伺えます。また、戦後には黄坡の義弟で、世界的にも有名な東洋学者である石濱純太郎を文学部教授に迎えられました。石濱は本学の文学博士第1号であり、名誉教授にもなっています」
そうした縁から、昭和23年(1948年)に黄坡が亡くなり、泊園書院が閉鎖された後、泊園書院の蔵書や所蔵していた書軸、書簡、印章など約17,000点にも及ぶ貴重な資料が関西大学に寄贈された。このことが契機となり、関西大学初の本格的な研究所として東西学術研究所を創設。「泊園書院が関西大学における東洋学の基礎をつくった」と吾妻教授は話す。
「現在、関西大学は中国学やアジア学の研究拠点としても広く知られていますが、もとを辿れば泊園書院に行き着きます。2007年に文部科学省グローバルCOEプログラムとして関西大学文化交渉学教育研究拠点が採択され、2011年に大学院東アジア文化研究科が設立されたのも、泊園書院から譲り受けた資料の存在が大きかったと思います。泊園書院で培われた漢学の伝統が、近代的な中国学・アジア学へと発展して関西大学に受け継がれているのです」
では、泊園書院での学びとはどのようなものだったのだろうか。
「学問所の中でも武士の子弟が通う藩校と異なり、泊園書院のような私塾は士農工商といった身分や性別に関係なく誰もが通えて、教育内容も比較的自由でした。私塾で教える内容は朱子学や陽明学、徂徠学(そらいがく)、博物学、蘭学など、さまざまな学派がありました。例えば先ほどお話しした懐徳堂は朱子学を、緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾は蘭学を教えており、泊園書院では荻生徂徠(おぎゅうそらい)が提唱した徂徠学を教えていました。漢学塾なので『論語』をはじめ儒教の経典はもちろんのこと、徂徠学では歴史や文学など幅広い文献をもとに教えるのが特徴でした。倫理道徳だけでなく、歴史や文学、政治、経済、議論、芸術といった、当時の時代に必要な教養全般を学ぶことができたのです」
幅広い分野を学ぶのは、個性と社会性を重視する徂徠学の特色でもあるという。そうした幅広い学びと、のびのびとした学風から泊園書院の人気は高まり、数多くの門人を抱えるようになった。吾妻教授らは、門人帳や日記、著名人の伝記などから泊園書院出身の人物を調べ、2022年に書籍『泊園書院の人びと——その七百二人』(清文堂)にまとめた。その中には泊園書院の門下生として、明治時代の外務大臣陸奥宗光、武田薬品工業創業者の武田長兵衛、伊藤忠商事・丸紅創業者の伊藤忠兵衛、浪速銀行頭取や大阪放送局理事長を務めた永田仁助、日本女子大学初の女性校長になった井上秀、NHK連続テレビ小説『あさが来た』のモデルになった大同生命創業者の広岡浅子の娘・広岡亀子、検事総長の春木義彰、朝日新聞社社長の上野精一、台北帝国大学初代総長の幣原坦らの名前が確認できる。
「門人たちは、泊園書院で基本的な教養を身につけた後、より専門的な学校に進むなどして自らの才能を磨いていきました。そして、政治家、官僚、実業家、教育者、研究者、ジャーナリスト、軍人、医師、僧侶、神官、画家、書家など、驚くほど多彩な分野で活躍したのです。泊園書院が輩出した人々が日本の近代化に大きな影響を与えたといってもいいでしょう。約120年の歴史の中で、門人の出身地は北海道から鹿児島まで1万人を超えたと推定されており、これが泊園書院が規模的にも質的にも"大阪ナンバーワン"といわれる所以です」
大阪と日本の発展を支えた泊園書院だが、明治20年(1887年)頃に近代的な学校制度が整ってからは、さすがに対抗できなくなったという。とはいえ、明治維新によって学問がすべて西洋式になったわけではないと吾妻教授は語る。
「明治になって日本の近代化を進めた人の多くは、漢学を教養として身に付けた人たちでした。資本主義の父と呼ばれた渋沢栄一も『論語と算盤』で漢学と近代的な経営は矛盾しないと述べています。明治10年(1877年)には東京に新たな漢学塾として二松学舎ができ、夏目漱石や犬養毅、平塚雷鳥らが学びました。いずれも近代化の発展を支えた漢学塾ということで、私は『東の二松、西の泊園』と呼んでいます。泊園書院は、日本の近代において漢学が果たした役割を思い出させてくれる重要な存在なのです」
そして、泊園書院の学びは関西大学に受け継がれる。「さまざまなことを幅広く学び、個性と社会性を重視する徂徠学は現代的であり、関西大学の『学の実化』という理念に通じるところがあると思います」と吾妻教授は言う。そしてここ10年ほどで近代の漢学研究が盛んになり、近代における漢学の重要性が再注目されているという。
2025年、泊園書院は開設200周年を迎えた。これを記念し、泊園記念会では10月24日(金)・25日(土)に関西大学梅田キャンパスで記念シンポジウム「泊園書院から関西大学のルーツをひもとく」を開催する。また10月20日(月)から11月15日(土)には関西大学千里山キャンパス総合図書館で記念特別展示を行い、泊園書院の歴史が分かる重要な資料や印章(篆刻)などを展示する予定。
「泊園書院が知的ルーツのひとつであることは関西大学の誇りです。学生や教職員だけではなく、関西大学に関わる方々に、泊園書院を知っていただく機会になればうれしいです。学業に真摯に取り組むとともに、どのように世の中に貢献するか、自分の個性や役割をどう発揮していくか。こうした泊園書院の学びのエッセンスは、本学の教育・研究の中に活かしていくべき精神だろうと考えています」