誰もが報われる 拠り所にしたい
~コロナ禍を経て感じた清水寺の存在意義~
関大人
清水寺僧侶 大西 英玄さん(社会学部 2001 年卒業)
本誌2度目の登壇となる大西英玄さん。10年前の当時、歴史的古寺の次世代を担う僧侶として、出自と向き合いながら、新しい取り組みに挑んでいた。現在は、執事として、また生まれ育った成就院の住職として、医療、福祉、教育、文化の分野まで活躍される大西さんは、これからの清水寺の有り様を示そうとしている。
1200余年にわたり、多くの参拝者を迎えてきた京都・音羽山の清水寺。かの寺の8人いる僧侶の一人である大西英玄さんは、10年前にも増して多忙だ。仏事、年中・月例の行事、貫主の法話行脚の随行に加え、ウェブサイトやSNSでの情報発信も中心になって手掛ける。また、世界宗教者平和会議の日本委員会の理事、社会福祉施設の副理事長といった各種団体の要職としても、精力的に活動している。宗教はもちろん、医療、福祉、教育、文化と多様な分野に活動の場を広げている。
大西さんは自身の一連の仕事を「渉外」とくくり、「すべてはお返し」と結ぶ。「清水寺は歴史的文化遺産であると同時に、現在進行形の宗教施設でもあります。後者に立てば、拝観料やお賽銭という皆様からの善意に対して、お返しをしなければなりません」。
「お返し」の精神は、企業やアーティストとのコラボレーション
にまで至る。
清水寺は長年にわたり、化粧品の大手ブランド、エスティローダー社と「乳がんキャンペーン」を共催。「乳がんのない世界」をめざす同社の社会活動に賛同し、毎年10月1日には寺を、活動の象徴であるピンク色のライトアップで染める。また、医薬品開発
を手掛けるシミック社とは、お薬手帳の専用ICカードを封入した「おくすり御守り」を共作した。アーティストでは、世界的なギタリストであるMIYAVIさんとの協働が記憶に新しい。世の平穏と世界平和の祈りを込めた奉納ライブの全世界配信が話題になった。その他、気鋭の若手の作品が集うアートフェアを定期的に開催するなど、清水寺を舞台に先進的な取り組みを続けている。
あまたあるコラボの打診に、大西さんたちは基本的に「ノー」とは言わない。「お話をいただく皆様の根本に共通してあるのが、『感謝の気持ちを伝えたい』ということですから」。だから、宗教施設としてできることを最大限行う。「寺をライトアップするだ
けでは、テーマパークと変わりませんので」と、当夜はずっと開門し、拝観料ももらわず、乳がんで亡くなった人々の追善供養の法要を行う。「せめてこの晩だけでも、乳がんの予防啓発に思いを寄せて足をお運びいただければ、と考えた次第です」。現在進行形の寺としての大義を常に考えている。
生まれは、清水寺の中にある成就院。祖父は、清水寺を本山として北法相宗(きたほっそうしゅう)を設立した名僧大西良慶さん。出自からすれば、僧侶になるべくしてなったと思える大西さんだが、若い頃は「特段、寺を継がなければならないという使命感はありませんでした」。
高校卒業と同時に京都を離れ、吹田市内で念願の一人暮らしを始めた。大学では、社会学部産業心理学専攻(現 心理学専攻)で広告心理学などを学び、スキーサークルに入り梅田のカラオケ店でアルバイトするなど、ごく普通のキャンパスライフを過ごした。卒
業後は「そのまま寺に帰ることに漠然とした違和感を覚えて」、アメリカへ留学。異国の地で過ごすうちに、ある葛藤が生まれたという。「生産性のない自分に、いささか嫌気がさしました」。同級生が社会の一員として働き出している中、留学先でアルバイト生活
する日々や、僧職という仕事を将来の生業にする可能性を漠然と感じている自分に疑問を持つようになった。
悶々とする日々の中、知己の人に掛けられた言葉が響いた。「寺の和尚を終生勤めることは、一人の人間の生き方として意義がある」。社会の外側にいるように感じていた心が晴れた。「当時の私は、私的な感情を超えた"後押し"を求めていたような気がします」。帰国後、高野山での加行を経て、大西さんは清水寺に帰ってきた。
しかし、その後が順風だったわけでは決してない。快活で活動的な大西さんの姿ばかりが多くのメディアに取り上げられていたが、その裏では常に葛藤を抱えてきた。「僧侶になりたての頃は、自分の状況や仕事を周りの方々にうまく説明できないジレンマがありました」。学生時代の友人とは、あまりに異なる世界に身を置く自分。「何か恵まれているように思われるのも本意ではないし、変に誤解されることを恐れていました」。
時を重ねるにつれ、悩みは周囲の期待と自力の差に及ぶようになった。「清水寺の僧侶に寄せられる希求に対して、拙い自分に何ができるのだろう。果たすべき責任とは何なのだろう」と、逡巡した
生きていると誰もが抱える悩みや葛藤、苦難。大西さんはどのように対処してきたのか。一つの境地を垣間見たエピソードがある。2015年の春先、アメリカ総領事館から清水寺に連絡がきた。聞けば、当時のアメリカ大統領夫人、ミシェル・オバマ氏が寺を訪問したいという。「英語が話せるということで、私が案内役を仰せつかりました。領事館職員、SP、日本の警察官などが寺に大挙し、連日連夜、案内のリハーサルをするんですね。まあ、大変でした(苦笑)」。多くのマスコミとSPの殺気立つ目を感じながら、 当日を無事に終えた。
それからしばらくしたある日のこと。「知人からグリーンカードを取得するために推薦状に一筆書いてほしいと頼まれたんです」。グリーンカードとは、アメリカ合衆国における外国人永住権の証明書のこと。申請担当の弁護士に「ファーストレディの案内役を務めた僧侶の推薦があれば大丈夫と言われたそうです(笑)。拙筆ながら、お役に立てるならと書かせていただきました」。その後、難なく受理されたと聞き、寺での大役の労が、時を経て異なる形で結実したと感じたのだ。「その時、その場面ではすぐに意義を見出せなくても構わないのではないか」。
確かに苦難や苦労は、いつか報われると思えれば、我慢できるかもしれない。ただ「いつか」を夢見て、耐え忍ぶことができる人間がどれだけいるだろうか。「私自身、自分の汗水が報われることを期待して仕事をしているわけではありません。努力は誰かに伝わるとも考えていません。ただ、絶望をしないだけなのです」。苦しい時に絶望せず、向き合う人にも絶望しない。そうすることで、大西さんは心の平穏を保っているという。私は自分を過大評価しません(笑)。一日を無事に過ごす、それだけを考えています」。
そんな大西さんにとって、「地に足がついた」と、感じる出来事があった。新型コロナウイルスの感染拡大だ。コロナ禍、清水寺にも参拝者が全く来ない日があったという。「それでも、私たちは門を閉めませんでした。それが、現在進行形の宗教施設、皆様
のお心の拠り所としての在り方だと考えたからです。一大事においてこそ、清水寺は力を発揮しなければならない、お返しをしなければならない」。清水寺の存在意義を再認識すると同時に、自らが僧侶として生きる意味も見出した。
この「お返し」の思いは、大西さんが今後一層、取り組んでいきたいことの根本をなす。「苦しい中でも寺に足を運んでくださった方たちに、何らかのお返しができる清水寺でありたいと思っています」。人々の心の拠り所である清水寺で、大西さんの現在進行形は続いていく。