KANDAI HEADLINES ~ 関西大学の「今」

世界最高齢で太平洋横断に成功。"生涯チャレンジャー"として生きる

関大人

夢を夢のままに終わらせず、目標として挑む

/海洋冒険家・ヨットマン 堀江謙一さん(関西大学第一高等学校 1957年卒業)



 2022年6月4日、ヨットでの単独無寄港の太平洋横断に挑戦していた海洋冒険家・堀江謙一さんが、ゴール地点の紀伊水道に到着した。1962年に、最年少でヨットによる太平洋横断を成し遂げてから、60年。"太平洋ひとりぼっち"航海のときのゴールだったサンフランシスコを出発してから69日後のこと。今度は世界最高齢83歳での偉業だった。
 これまで世界一周3回など、数々の冒険的な航海を成し遂げてきた堀江さんが、ヨットに出会ったのは関西大学第一高等学校在学中のこと。今回の太平洋横断、関大一高ヨット部の思い出、ヨットの魅力、湧き上がり続ける挑戦心などについて、今航海のパートナー SUNTORYマーメイドⅢ号が停泊する、新西宮ヨットハーバーでお話を伺った。

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挑戦心がマグマのようにふつふつと

─世界最高齢83歳での単独無寄港の太平洋横断達成、おめでとうございます。
 ありがとうございます。昔はね、私の記録はいつも最年少だったけれど、今は最年長になってしまいました。

─今回の航海中、年齢を感じることはありましたか。
特に感じることはなかったです。これは、強がりかもしれません。

─今回の航海プランを思い付いたのはいつ頃ですか。
ずっと前から考えてはいました。前回の航海が、2008年のウエーブパワーボートでのハワイ-紀伊水道横断でした。当時、69歳でしたから、もういいか、もう後はないかという気持ちもあったんです。家族も嫌がるし、振り切って行くのも気になりました。だけど、10年も経つと、せっかく元気なのに、何もしないでいるのがもったいない。チャレンジャーとして航海に出たいという気持ちがマグマのようにふつふつと高まってきたんです。

─また家族に止められることはなかったですか。
なかったですね。逆に期待されていた気がします。この14年間、会う人会う人に「次はどこ?」と聞かれましたから。

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2022年3月26日、スタート地点のサンフランシスコ・ゴールデンゲートブリッジ付近で風を捉えた「SUNTORYマーメイドⅢ号」
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2022年6月5日に新西宮ヨットハーバーで行われた帰港セレモニーにて笑顔で帽子をふる堀江さん

計画も一人で。準備はヨット建造から

─実現に向け具体的に動き出したのはいつからですか。

 大ざっぱに言うと、3年ぐらい前でしょうか。まずヨットの構想から始まり、設計、そして建造という過程がありますので、大体そのぐらいは必要です。今回のSUNTORYマーメイドⅢ号は最初の太平洋横断のヨットとほぼ同じ大きさです。

─航海のプランを固めるまでに、誰かに相談されるのでしょうか。

 個別の事柄については意見を求めるかもしれませんが、基本的な計画は相談することはありません。

─航海は準備も大変ですね。

 特にソーラーボートの時などは、大変でした。こうしたいと思っても、協力していただく会社の技術者の方に納得してもらわないとスタートできないですから。その点、今回のヨットはいわゆる普通のヨットですから、難しいところはありませんでした。

─では、今回の準備作業はスムーズに進みましたか。
 基本的には順調だったんですが、コロナもありましたし、年齢が80代ということで、協賛会社としても、私の健康状態が心配だったようです。今まで、健康診断書の提出を求められたことがないのに、今回、初めて言われました。健康診断書とPCR検査の陰性証明、それともう一つ、スポーツジムに行って体力測定するというのがありました。私はジムへ行ったことがなかったんです。ジョギングとか体づくりも一切したことがありません。

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太平洋ひとりぼっちから60年。順風満帆の航海

─航海中の太平洋上の日々の楽しみは何ですか。

 私にとっての楽しみはヨットを進めることです。陸上や水泳の選手が結果を出すことが最大の喜びであるのと同じです。きれいな星空を見るのが楽しみでしょうとか、いろいろ言われますけれど。必死でやっているときは、星がきれいであるとかは二の次です。

─航海中は忙しいのですか。
 大して忙しくありませんが、何でも自分でやらないといけない。食事も自分で用意しないといけない。毎日、これをしてあれをしてという段取りみたいなものはありました。
 もちろん風の具合を見ながら、帆の操作はしなければいけません。たとえ夜中でも帆の調整が必要な状況になれば寝ていられない。すぐに作業に取り掛かれたらいいですが、暗い中では危険だから、夜明けまでじっと待つということもあります。
 毎日、衛星電話で日本との交信もありました。眠たい時でも、決まった時間にかかってくる電話には出なければいけない。待機電力がもったいないから、衛星電話は普段、電源を切っていて、約束の時間の10分前ぐらいに電源を入れるようにしていました。ところが、電話がかかってきても、着信音が小さくて、よく取り損ねるんですよ。波の音に紛れてしまうこともありました。せっかく電話をかけてもらったのに、こちらがうつらうつらしてミスすることもあったりして、衛星電話を待つのも結構神経を使うんです。
 今回の航海では衛星通信を活用したトラッキングシステムがあって、こちらがわざわざ発信をしなくても、現在地、進行方向、スピードが分かるようになっていました。あれは、気が楽で、便利でした。家族や関係者にとっても、余計な心配などしなくてもいいので良かったと思います。

─想定外のアクシデントは起こらなかったのですか。
 全然なかったです。思った以上に風がよく吹いてくれました。特に前半はもっとムラがあると思っていましたが、風が切れずに、ちょっと強過ぎるくらいよく吹いてくれたと思います。もう少しだけ穏やかな風の方が良かったかな。まあ、ぜいたくは言ったらいけませんね。

─1962年の最初の太平洋横断から60年。風もお祝いしてくれていたのかもしれません。
 そうですね。むしろ出来過ぎです。今回が特別な気がします。

─航海中、寂しいと思うことはありませんでしたか。
 隣に誰もいないのは寂しいことなんですが、一人で挑戦すると自分で決めたんだから、寂しいとか、そんな問題ではないと、私は思っています。

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(写真左上から)
1. 衛星電話。左側:イリジウムGO(国際SMS用と通話の予備)右側:イリジウム(通話用)
2. アマチュア無線機
3. アマチュア無線家が交信する度に交換するQSLカード(交信証明書)。カードは堀江さんのお手製
4. キャビン内のマストサポートの柱に取り付けたGPS(写真中央・上部)。船内には食糧などを大量 に積み込み、荷崩れ防止のため固定をする
5. 間食用のクッキー類

世界初にこだわって、冒険を創造する

─若いヨットマンの冒険をサポートしたいとか考えることはありませんか。
 思わないわけではないですが、そういう人は現れませんね。同じように航海を考えている人はむしろ、私のことをライバル視しています。私が書いた本を参考にされているかもしれないですけど。「堀江さんよりも自分の方が先に考えていたよ」と言う人も結構いました。皆さん、突っ張っているんですよ。

─世界初や前人未到であることを意識しますか。

 もちろん意識します。別にそうでなくても構いませんが、できれば、やはりね。世界初は最高だと思っています。

─今はもう世界初のテーマを見つけるのは、難しいのでは。
 難しいといえば難しいですね。今年はマゼランの世界一周の航海から500年ですが、世界地図を広げて、過去の航路を塗りつぶしていくと、太平洋も大西洋ももう新たに挑戦する場所が無いわけです。だけど、科学の進歩があります。ソーラーボートとか、逆に昔ならできなかったことができるようになりました。だから、世界初はもうできないということではなく、企画を考える想像力の問題だと思っています。
─冒険もクリエイティブに創造するものですね。
 そうですね。テーマを創り出していくことになります。

─マゼランの本を今回の航海の間に読んでいたそうですね。マゼランとご自分を重ねるところがありますか。
 マゼランは南アメリカ大陸のマゼラン海峡を発見して、大西洋から太平洋に出て、フィリピンまで太平洋を横断した。これは人類史上最大の大航海だった思います。1974年の私の西回りの世界一周では、やはり南米のホーン岬を越え大阪湾まで帰ってくるという似たようなルートをとりました。マゼランは太平洋に出てからフィリピンまで109日かかっているんです。私の場合、約120日かかりました。だから、マゼランの船も同じようなスピードだったのかなと想像しています。

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(写真左)1962年8月12日「マーメイド号」で世界初となる単独無寄港で太平洋を横断し、アメリカ・サンフランシスコに到着した堀江さん。当時のサンフランシスコ市長に名誉市民として受け入れられ、1カ月間のアメリカ滞在を認められた(写真=UPI)
(写真右)1962年頃の堀江さん

関大一高でヨットの素晴らしさを知った

─これだけ打ち込めるヨットや海の楽しさを、いつ気付いたのでしょうか。
 一高ヨット部に入った瞬間、素晴らしいと思ったんですよ。初めて乗ったヨットが素晴らしかった。一高のヨット部に入っていなかったら、私の人生は始まっていなかったわけです。ヨットを目指して一高に入ったわけでもありません。たまたまヨット部があって、そこに入部した。それはまったくの偶然ですが、本当に良かったです。

─『太平洋ひとりぼっち』を読むと、ヨット部での日々は厳しく、あまり楽しそうに書かれていなかったように思いますが。
 1日目だけは楽しかったんです。楽しいというよりも、たいした風もないのに、向かい風でも進んでいくヨットが素晴らしいと思ったんです。ヨットを走らせるのに、人間の力はいらない。動力源は風ですから。他のスポーツは、みんな人間が動力源です。マラソンを走ったら、翌日は走れないけど、ヨットは到着した翌日でも、世界一周に行けると私は考えています。私の筋力、運動神経は並です。特に優れている部分はありません。だから、ヨットは私たちのような特に体力があるわけではない者に向いています。誰でもできると思いますよ。

─関大一高のヨット部と、関大のヨット部は交流があったと聞きます。大学ヨット部の先輩から何を得られましたか。
 私たちの時代は高校と大学で合同練習をやっていましたので、非常に密接な関係でした。当時、先輩方から指導を受けたことは、私の航海につながっていると思います。何といっても、太平洋の航海で一番しんどいときよりも、ヨット部の練習のほうが遥かにしんどかったですから。

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関大一高時代のヨット部の仲間と。ヨット部のボートハウスの近くで。 後列右から4人目が堀江さん(写真提供:堀江さん)
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(写真左)西宮沖、ディンギーを走らせる。ヨット部の練習はハードを極めた
(写真右)ヨットに打ち込んだ関大一高時代。部長を務め、国体にも出場した。前列右から3人目が堀江さん(卒業アルバムより)

理想の貿易風、絶体絶命の北極海。自然に従え

─お話からすると、はじめは海というより、ヨットに魅力を感じられていたんですね。
 今は両方に感じています。ヨットで世界中の海を訪ねるとだんだん海が好きになりました。

─世界の海でどこの海がお好きですか。
 私にとっては、基本的に貿易風帯がいいですね。貿易風帯は、赤道を中心に南北25度の間です。この50度ぐらいの緯度の幅に吹く貿易風は、ヨットにとっては理想的な最上級の風です。今回の航海で南寄りのコースを選んだのはそういう理由もありました。やっぱり病みつきになるほど良い風です。
 貿易風は太古から吹いていたはずですが、人類が知るのはルネッサンスの頃です。大航海時代が始まる頃まで、みんな知らなかったわけですよ。つい最近の話ですね。

─今回の航海は順調だったということですが、過去には、「もう、これまでか」と思うような状況から立て直してやり遂げたことがあったのですか。
 北極海で氷に挟まれて出られないことがありました。小さな氷なら大丈夫ですが、大きな氷はヨットの力ではとてもこじ開けることができなくて、脱出できるかどうか分からなかったことがあったんです。氷というのは浮いているわけですよね。だから、毎日氷はちょっとずつ移動している。それで、あきらめずに、隙間が開くのを待っていたら、開いて、脱出できました。隙間が開くチャンスがないなら、あきらめるしかないけれど、チャンスがあるなら、それを逃したくはなかった。粘り勝ちですよ。天がほほ笑んだ時に、そのチャンスを逃さない。ヨットの基本はすべてを自然に合わせていくこと。自然にこちらの意思は通じないですからね。とにかく100%合わせていくことです。

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夢を夢とせず、挑戦は100歳まで。

─新しい冒険をもうお考えですか。また、挑戦はいくつまで続けようと思っていますか。
 今はまだ言えませんが、次の冒険は考えています。チャレンジャーとしては、できれば100歳までと思っていますが、実際のところ100歳になった時に心臓が動いているかどうか、保証はないですから。

─最後に読者にメッセージをお願いします。

 今回の航海が終わった時に、私が記者会見で申し上げたのは、ちょっときざな言い方なんですけれど、「今回の私の航海は夢を夢として終わらせずに、夢を目標として挑戦した」ということでした。挑戦して、挫折するかもしれない。けれど、挑戦することによって、いろいろと今まで見えなかった世界、次の挑戦が見えてくるということもあります。皆さんも夢を夢に終わらせず、それに向かって挑戦してください。

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関西大学体育会ヨット部児玉沙耶佳さんから花束を受け取る
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出典:関西大学ニューズレター『Reed』70号(9月30日発行)
堀江 謙一 ─ ほりえ けんいち
1938年大阪市生まれ。1957年関西大学第一高等学校卒業。1962年単独無寄港太平洋横断に成功。その航海記『太平洋ひとりぼっち』がベストセラーになり、石原裕次郎主演で映画化される。以降、太平洋横断、世界一周など、数々の冒険的な航海を実行する。1962年サンフランシスコ市から「名誉市民の鍵」を受ける。1997年エクアドル共和国政府がガラパゴス諸島バルトラ島の岬を堀江謙一船長岬と命名。2011年内閣総理大臣賞など国内外から多くの顕彰を受ける。主な著書に『太平洋ひとりぼっち』(初版は文藝春秋新社刊)、『海を歩いて渡りたい』(TBSブリタニカ刊)、『太陽に賭ける』(ベネッセ刊)、など多数。