col4.jpg

1891(明治24)年5月11日、来日中のロシア皇太子ニコライ(後の皇帝ニコライ2世)が、滋賀県大津で、護衛の巡査津田三蔵に斬りつけられ、負傷するという事件が起こった。

当時の刑法(旧刑法)には、外国王族に対する罪について特別の規定はなかったが、ロシアとの外交関係が悪化することを恐れた政府は、この事件に、日本の皇族に対する罪(大逆罪)を類推適用して、津田を死刑にする方針を決定し、司法部に圧迫と干渉を加えた。しかし、事件を審理した大審院は、同年5月27日、大逆罪ではなく普通謀殺未遂罪を適用し、津田を無期徒刑に処する判決を下したのである。

大津事件で、大審院が、政府の圧迫に抗して、法の厳正な解釈と適用を貫くことができたのは、大審院長であった児島惟謙が政府の干渉にねばり強く抵抗したからであるといわれる。児島は、法の尊厳と裁判の独立を堅持することが国家の自主性を確保する道であるという意見を政府に示し、事件の審理を担当した大審院判事たちに対しては、「裁判官の独立」に関連して後に批判されることになるのだが、政府の圧迫に屈することのないよう説得を行ったのであった。

ところで、大津事件の発生に先立つこと5年の 1886(明治19)年、関西大学の前身である関西法律学校が大阪の地に誕生していた。この法律学校の創設を企てたのは、井上操や堀田正忠など、当時大阪に勤務していた現職の司法官たちと、自由民権運動の活動家としての経歴をもつ吉田一士であったが、当時大阪控訴院長で、井上らの上司であった児島惟謙も「名誉校員」となり、開校の実現に尽力したのであった。

大津事件は、「司法権の独立」とは何かを今も我々に問いかけ続ける、日本近代史上の重大事件である。

関西大学の創立者の一人、児島惟謙は、この事件の中心にいたのである。