関西大学 人間健康学部

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これ勉強したら、何かいいことがあるんかなぁ?

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期末試験を終え、高校から帰る途中で、友人Kが言った。

「なんで英語なんて勉強せなあかんのやろ?わたし日本人

やし、海外旅行する気もないし、英語なんか勉強しても、

時間と労力の無駄やん!」

 彼女の気持ちは痛いほどわかった。わたしも当時は苦手

な地理のせいで四苦八苦していたからだ。

 ただ、「勉強しても無駄」という彼女の意見には賛同し

かねた。何かが違うと思ったからだ。しかし、何が違うの

かをうまく説明できないわたしには、ただ、曖昧に笑って

聞くことしかできなかった。

 

「これ勉強してもさあ、何かいいことがあるんかなあ?」

教員になって、学生の何気ない呟きを耳にするたびに、

友人Kを思い出す。

この呟きには2つのメッセージが込められていると思う。

1つ目のメッセージは、「わたしは、この科目の内容を理解

できなくて苦痛なので、できれば勉強することをやめたいで

す」という率直な感情の吐露。

2つ目のメッセージは、「投資する労力(勉強に要する時間

や、忍耐や苦痛など)に見合うだけの報酬が保証されなけれ

ば、活動したくありません」という意思の表明。

 

 しかし、学ぶという行為は、プロセスだと思う。自動販売

機にコインをいれてジュースを買うのとは、わけが違うと思

うのだ。そして、学びのプロセスの向こう側には、誰も知る

ことのできない自分がいる。

 乳児は、これから学ぶものが将来どんな役に立つかを考え

て学ぶわけではない。わけもわからず、与えられる沢山の情

報をひたすら受け続け、いつしか言葉を身につける。果たし

て、言葉を覚える前の乳児に、言葉を学ぶことの価値が正確

に判断できるだろうか。答えは否である。

 

 「世の中には、自分が知らないものや、自分の理解が及ば

ないものが沢山あるのだ」という事実に直面するだけで、

すでに1つの学びが始まっている。

 すべての情報に価値があるとは思わない。しかし、小学生

の自分に、10年後の今が想像できなかったように、いま取り

組んでいる学びの向こうには、知り得ない自分がいるのだ。

 もしあの時、そんなことを友人Kに伝えたら、彼女はどんな

返事をくれただろうか。