関西大学 人間健康学部

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祭りとスポーツ

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 もうかれこれ30年以上前になる。当時大学生だった筆者

は、日本三大曳山祭の一つとして名高い埼玉県秩父神社の

「秩父の夜祭り」の調査に参加した。大勢の観客が見守る中、

若衆たちが身体をぶつけあいながら急な上り坂を何トンもあ

る山車を引っ張りあげる勇壮な祭りに、筆者は調査者である

ことも忘れ、高揚感と一体感に酔いしれた。しかし、30年

経った今でも筆者に強い印象を残しているのは、祭り当日の

熱狂ではなく、その準備に追われる会所で出会った同世代の

若者たちの姿だ。
 普段はどうみてもヤンキーの兄ちゃんで、年寄りの言うこ

となどてんで相手にしそうにない若者たちが、法被を着て町

の年長者たちの言葉に素直に従っていた。そうした若者たち

が見せた年長者への何気ない所作や、冷たい川に裸で飛び込

む勢い、綱を引くときの腰の決まり方。彼らには、同世代の

筆者には触れ得ないような共同体の感覚と、世代から世代へ

と何百年も受け継がれてきた「歴史的身体」が感じられた。
 昨今、地域の祭りが衰退する一方で、スポーツが祝祭空間

としての祭りの役割を担っていると言われる。スタジアムや

競技場(あるいはテレビ画面)で味わう高揚感や一体感とい

う点では、確かにそうだろう。だが、30年前に出会った若者

たちのことを思い起こす時、スポーツを通して私たちは、あ

のような共同体感覚や「歴史的身体」を育んでいるのだろう

かとふと疑問を覚えた。
 中学、高校と真摯にスポーツに取り組んできた学生たちに

接していると、彼らがスポーツを通して、大切な共同体感覚

や身体所作を身に付けてきていることを実感する。しかし一

方で、柔道をはじめとするスポーツ指導における暴力の問題

が大きな社会問題になっている。内田樹先生が指摘している

ように「処罰で脅すというのは、はっきりした到達目標とタ

イムリミットがある場合に限られる」とすれば、この問題の

根底には、スポーツの到達目標を短いスパンの勝利にしか設

定していないことにあると考えられる。スポーツの目的を、

目前の勝利の高揚感や一体感ではなく、もっと長いスパンで

必要な共同体の感覚や「歴史的身体」を育むことにおく。そ

うすれば、暴力によらない指導のあり方が生まれてくるだろ

うし、何より日本社会におけるスポーツの新たな役割がみえ

てくるのではないだろうか。