関西大学 人間健康学部

お知らせNews

「みるスポーツ」の楽しみ方

  • ■日時

 1905年、早稲田大学野球部は日本の野球チームとして史上初のアメリカ遠征を敢行した。

 当時の『報知新聞』に、早稲田野球部員M・Oなる人物の「野球遠征記」が掲載されている。遠征記によると、同年4月13日午前9時にホノルルに上陸した選手たちは、船上での運動不足解消のために午後1時からさっそく練習をはじめた。

 まもなく、現地ホノルルのプナホウスクールと米国軍艦オハイオ号の水兵チームの試合があると聞きつけ、午後3時前には練習を切りあげて観戦へと向かった。ここで早稲田の選手たちは、いわゆる「本場」野球のすごみをはじめて目撃した。

 M・O氏によれば、「いづれも骨格凛々しき好選手、打力大いに振」う試合で、とりわけプナホウ側が「心地よきホームランもあり又ブラント、ヒットは頗る巧妙を極め成功せざるは殆ど稀なり」という内容で試合を優位にすすめ、11対5のスコアで快勝した。

 試合後、思いがけない出来事が起きた。勝利に意気あがるプナホウが、突然対戦を要求してきたのである。早稲田側は疲労を理由に対戦を断るが、せめて練習を披露してほしいと迫られた。再び断るのは「勇なきに似たり」ということで、結局、その日二度目の練習を行うことになった。

 『日本スポーツ文化史』によると、この練習中にあるエピソードがうまれている。

 早稲田は、アメリカ遠征に旅立つ前に、胸にWASEDAの文字が映える真新しいユニフォームを新調し、あわせて靴も用意しようとしたが、当時の選手は足袋を履いていたので野球用の靴がどんなものかわからなかった。

 本を調べると「スパイク」という釘が靴の裏に打ってあるらしい。靴屋や運動具店を探しまわって、なんとか三十本ほどの輸入ものの釘を見つだすことに成功。喜んだ部員たちは、一人に二本ずつ配り、左右の靴裏にそれぞれ一本の釘をうちつけて「スパイク靴」を完成させた。

 いざ、ハワイでその一本釘の「スパイク靴」を履いてみると、感触がおかしい。もたもたしていると、オハイオ号の選手が声をかけてきた。

 そこで靴を脱いで、裏返して見せたところ、水兵たちは大笑い。身を捩じらせて笑った。

 その後早稲田はアメリカ本土に渡って大学やセミプロチームを相手に7勝19敗と苦戦した。だが、彼らがこの遠征で日本に持ち帰ったものは多岐にわたり、主なものだけでも、投球でのワインドアップと配球のチェンジ・オブ・ペース、二塁上のコンビネーション、スクイズ、スライディングなどのテクニック、道具では、グローブ(当時は内外野ともミットを使用)、そして、スパイクだった。

 イチローがメジャーリーグ史上に残る記録をつぎつぎと更新する現在に至るまで、歴史的にどれほどの日米野球交流の積み重ねがあったのだろうか。「みるスポーツ」を楽しむには、そんな視点も有効だろう。