関西大学 人間健康学部

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花を見るということ

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 桜の季節。花見の季節である。

 人はなぜ桜の木の下で「花見」と称して宴会をするのか、長年の疑問だった。「花なんか全然見ていないじゃないか!」と1人心の中でつっこみを入れていた。

 先日、ふと桜の林の中に立ち入り、しばらく何本もある桜の木々の下を歩き回っていた時に、急にその長年の疑問が解消された。

 桜は見るものではなく「感じる」ものだということに思い至ったのである。「感じる」と書いたが「感じる」という意識すら必要がない。桜の木の下に入った瞬間に、その場のエネルギーが他の場所のそれとは全く違うことに気づく。桜の木の下で宴会している人たちは、桜の木が発しているエネルギーの力を本能的に知っているわけである。本能はすごい。そして正しい。昔から人がやってきたことにはやはり意味があるのである。

 調べてみると「サクラ」の「サ」は穀神=田の神を意味し、「クラ」はその座を意味する。神様の座る場所という意味。そして「花見」はもともと「花狩り」と呼ばれ、花の霊力を身にまとうのが本来の意味だそうである。ただしそれは、人間が勝手に花から力をもらうといった一方的なものではなく、人が花を楽しませ歓ばせるという双方向的なものだったらしい。山から神様が下りてきて、桜の花に座る。その神様を楽しませ歓ばせるために人々は宴を開き、舞い、踊る。芸能のはじまりである。天岩戸の話もそう。閉じこもってしまった天照大神を呼び出すために、岩戸の前で宴を催す。桜の場合、それは穀神だから、宴は豊穣の祈りになる。花見が芸能につながり、祈りにつながる。桜の木の下の宴会は、単なる飲み会ではなかったわけである。

 桜の木は、この時期に花を咲かせるために1年間力を蓄えている。花は植物の性器である。保健体育でおしべとめしべの比喩で語られるが、植物の性器がまさに生殖のために力を使う、それが花を咲かせることの意味である。だから花にはとてつもないエネルギーが宿っている。生物は「遺伝子の乗り物」という表現があるように、子孫を残すために存在していると言っても過言ではない。つまり、生殖ということが動物でも植物でも最も重要なものになるわけである。植物の場合は、それが花である。「1年間力を蓄えている」と書いたが、花を咲かせるためだけに存在していると言ってもいい。あれだけ大きな桜の木が1年の他の時期すべてを使って力を蓄えた、その結晶が花なわけである。

 フラワーエッセンスという植物と使った療法がある。とてつもなく大きなエネルギーを持った花の力を借りて、人間の病を癒す方法である。なぜ、花が病を癒すのか、先ほどの話をふまえれば、理解することができる。木がそれだけのために1年間蓄えた力の現れが花なのである。お花見をすることによって日本人が得ていた花の霊力を、イギリス人のエドワード・バッチ博士はフラワーエッセンスとして開発した。フラワーエッセンスは、薬として飲む人もいるが、「花狩り」としての花見を考えた時には、ただ薬として一方的に服用するのではなく、花を楽しませ歓ばせる工夫が必要なのだと思う。それが何なのか、今はまだわからないが、「双方向的なかかわり」ということが鍵になるような気がしている。

 花とどう関わるのか。ただ見るだけではダメ。「見る」という行為はどうしても一方的になるし、静的である。かと言って宴会もやはり違う気がする。自分たちだけで楽しんだのでは歓待に、祈りにならない。

 だから「感じる」。桜の花から受け取ったものを一度自らの身を通して震わせ、そして放出する。花の神様を楽しませ歓ばせるための宴での舞いや踊りは、神様への一方的な捧げものではない。神様から受け取ったものを、一度我が身を通してお返しする双方向的なものである。だから「感じる」ことは舞い、踊ることになり、舞い、踊ることは「感じる」ことになる。静的な「見る」に対して動的な「感じる」。

 宴会もいいのだろうが、もう少し違った花とのかかわり方もあるような気がする。花のための宴、花を歓ばせるための花見、あるいは花とともに歓ぶこととはどのようにしたら可能か。考えてみるとおもしろい。