• 関西大学千里山キャンパスは、新たな学部の設置や教育研究環境の整備により、年々その姿を変えています。数十年ぶりに来学した卒業生の方々からは、学生だったころの面影が残っていないと戸惑いの声も上がります。
    歴史的景観回顧モニュメントには、モニュメントの建つその場所から見ることができた過去の情景を写した写真と解説文を載せています。モニュメントを見て、むかしの関西大学に想いを巡らせてください。そして、目の前に広がる現在の景観を見て、関西大学の発展を感じていただきたいと思います。

    関西大学の歴史については年史編纂室のホームページもご覧ください。 年史編纂室

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関西大学正門

第2学舎エリア

【当時】

大学正門が今の位置に移ったのは、1952(昭和27)年のことでした。それまで正門は、現在の以文館の下をくぐり抜けている坂道の手前にありました。大学前通りを緩やかに上ってきた正面に移された正門には、切石で組まれた門標と守衛所が設けられました。「關西大學」の文字は、中国唐代の書家、顔真卿が書いた碑文から集字されました。
1996(平成8)年、新関西大学会館とモニュメントゲートが完成したことでこの付近は一新され、キャンパスのアクセスが向上するとともに、新たなシンボルゾーンを形成することとなりました。

【現在】

なだらかに上っていく坂道の勾配に大きな変化はありませんが、新関西大学会館の北棟と南棟、その間をつなぐモニュメントゲートができたことで正門付近の景観は大きく変わりました。「關西大學」の門標も、字体はそのままですが、一回り大きくなりました。また、かつては門標の反対側の位置、すなわち正門向かって右側の所に守衛室がありましたが、現在は円錐型の建物(南棟)1階のインフォメーションロビーの中へ移っています。通行を遮断する門扉が完全になくなり、開放的になったのも現在の正門の特徴です。

グラウンドと大学図書館を望む景観

第1学舎エリア

【当時】

現在、総合図書館や尚文館(大学院学舎)が建つ場所には、階段状の観覧席と400メートルトラックを有するグラウンドがありました(1926(大正15)年竣工)。その北側の高台には、1928(昭和3)年に大学図書館(現・簡文館)が建設され、1955(昭和30)年には建築家・村野藤吾の設計による円形の閲覧室が増築されました。グラウンドや図書館を望むこの景観は、長く関西大学のシンボルとなっていました。

【現在】

かつての大学図書館(現・簡文館)南側に扇形に広がっていた階段状の観覧席は、2000(平成12)年に完成した尚文館(大学院学舎)建築工事の際に撤去され、尚文館と、そのエントランスへと続くアクセス道に姿を変えました。法文坂を上っていくと、右手にグラウンド、正面右手奥に大学図書館が見えていた以前の景観は、総合図書館から芝生の広場、そして尚文館へと続く風景に変わっています。

大学ホールがあった景観

第1学舎エリア

【当時】

昭和25年(1950)に大学院修士課程が設置された際、将来の専攻科増設や博士課程への発展に備えて大学ホールが建設され、1952(昭和27)年に竣工しました。学長室や理事長室などを備えた大学ホール、15室の研究室を持つ研究室棟、円形講堂と呼ばれた階段教室の3つが連接していました。のちに研究室棟は大学院生の研究拠点となりましたが、その役割は2000(平成12)年竣工の尚文館に引き継がれました。

【現在】

大学ホールがあった場所には現在、法科大学院などが入る以文館が建っています。この写真で言うと、画面中央あたりに大学ホールは存在していました。以文館は2003(平成15)年に南側半分が完成し、その後、2006(平成18)年に北側部分が増築され、現在は、ひとつながりの建物の両側に八角形のドームをつけた形になっています。大学ホールは北側部分の増築工事の際に撤去されました。

大学ホールのガラスの庇

【当時】

村野藤吾が設計した大学ホールの北側玄関にはガラスの庇(ひさし)が設けられていました。屋根面はガラス、支柱やフレームはなだらかな曲線の鉄棒で構成されており、ヨーロッパのアールヌーボーを彷彿させるデザインになっています。

【現在】

以文館北側の増築工事に伴って解体された大学ホールですが、建物の記憶をつなぐという目的でガラスの庇(ひさし)は保存され、現在、「なにわ大阪研究センター」となっている簡文館増築棟の玄関として利用されています。

鳩の彫刻

【当時】

蔦で覆われた大学ホールの外壁2階の北東角には、あたかも本物の鳩がたたずんでいるかのような彫刻が村野藤吾の手ほどきにより作られ、取りつけられていました。

【現在】

大学ホール解体時、ガラスの庇(ひさし)とともに鳩の彫刻も保存され、簡文館増築棟内のエントランス壁面に、解説板付きで設置されています。

大学本館や第1学舎1号館があった景観

第1学舎エリア

【当時】

第1学舎1号館と「あすかの庭」が広がる付近には、かつて同じ呼称の第1学舎1号館、さらにそれ以前は大学本館と呼ばれた建物が建っていました。大学本館は、住友合資会社の総事務所を1927(昭和2)年に譲り受けて移築したものです。1948(昭和23)年、新制大学へ転換した本学は、施設の拡充を進め、大学本館を取り壊して1955(昭和30)年に新しく第1学舎1号館を建設しました。それから53年後の2008(平成20)年、名称を引き継いだ現在の建物が竣工しました。

【現在】

第1学舎1号館の周辺は、2008(平成20)年に大きく変わりました。1955(昭和30)年に建設された1号館の前面は、現在のあすかの庭の人工芝と、ブロックが敷かれた地面の境界あたりに存在していました。2008(平成20)年の新築にあたり、1号館を北側へ大きく移動させ、学舎の前にあすかの庭を設けたため、開放的な空間が広がりました。学舎へ入るのに芝生のエリアを歩いていくというのも、これまでにないアプローチの仕方となっています。

グラウンドとクラブハウスのあった景観

第1学舎エリア

【当時】

1926(大正15)年、総理事兼学長であった山岡順太郎の理解と尽力により、東洋一とうたわれたグラウンドが完成しました。そのグラウンドからは、正面の高台に建つクラブハウスを見上げることができました。クラブハウスはグラウンドと同時期に完成し、2階ベランダのアーチデザインが目を引く上品な建物で、のちに以文館と命名されました。2003(平成15)年、クラブハウスの跡地に建った建物は、以文館の名称とクラブハウスのテラスにあった印象的なアーチデザインを引き継ぎました。

【現在】

1926(大正15)年の完成当時、東洋一とうたわれた400mトラックと階段状の観覧席を有したグラウンドは現在、南側半分に総合図書館、北側に尚文館(大学院棟)が建ち、その間は芝生の広場になっています。また、グラウンドから見上げることができたクラブハウスの跡地には、法科大学院などの学舎である以文館が建っています。以文館の下を潜り抜けているクランク状の通路の上には、クラブハウスのテラスにあったアーチのデザインを引き継いだテラスが設けられており、建物の記憶をつないでいます。

学生生活を支えた誠之館1号館を望む景観

第4学舎エリア

【当時】

誠之館1号館は、1962(昭和37)年に竣工し、食堂や書籍店、購買店などが設置され、学生たちの日常生活を支えました。その後、学生数の増加と設備の狭隘化、老朽化により、1981(昭和56)年には大幅な拡張工事が行われました。しかし、2006(平成18)年に総合学生会館「凛風館」が完成したことで、誠之館1号館はその役割を終え、姿を消しました。

【現在】

食堂や書籍店、購買店などが入り、学生の日常生活を支えた誠之館1号館が建っていた場所は現在、悠久の庭に姿を変えています。ここでは、人工芝に腰を下ろし、友だちと談笑する光景が日常的に見られます。建物から広場へと姿は変えましたが、この空間が学生生活の思い出に残る瞬間を、それぞれの人の心に刻み込んでいるのは今も変わりません。

第2学舎2号館の景観

第2学舎エリア

【当時】

新制大学転換後の施設拡充計画の一環として建設された第2学舎2号館は、経済学部と商学部の学舎として1957(昭和32)年に竣工しました。本館と研究室からなり、本館には扇形の講堂や大教室が設けられ、北側の開放廊下は明るいテラス風の設計となっていました。本館西側の研究室は6階建てで、当時の千里山キャンパスでは最も高層の建物でした。その後、2004(平成16)年にBIGホール100が完成し、2009(平成21)年に現在の第2学舎2号館に建て替えられたことで、この付近の景観は一新されました。

【現在】

かつての第2学舎2号館は、明るいテラス風の開放廊下を有し、竣工当時は一般新聞で「高級アパートのよう」と報じられました。しかし、老朽化に伴い、2009(平成21)年にすべて建て替えられました。その5年前の2004(平成16)年には2号館の一部であったC304教室部分が取り壊され、その跡地にシアター系大ホール「BIGホール100」を有する4号館が建設されました。現在の2号館は、先に完成した4号館と並ぶように建てられたため、旧2号館の階段や杉などの植栽があったところまで前へ出た形になっています。

予科校舎であった第2学舎1号館の景観

第2学舎エリア

【当時】

現在、第2学舎1号館が建っている所には、昭和23年(1948)の新制大学転換まで予科校舎と呼ばれた建物がありました。800人収容の大講堂や階段教室を備えた白色タイル張りの建物で、1936(昭和11)年に竣工しました。予科校舎は戦後、第2学舎1号館と呼び名を変え、経済学部と商学部の学び舎として使用されましたが、1994(平成6)年に建て替えられ、現在の学舎がその名称を引き継ぎました。

【現在】

1936(昭和11)年に竣工した予科校舎の前には芝生の広場があり、学生たちの憩いの空間となっていました。しかし、長い年月の間にクスノキをはじめとする木々が大きく枝を広げ、地面に直接腰を下ろすことはできなくなりました。1994(平成6)年、現在の第2学舎1号館の完成に伴い、学舎周辺が整備され、東屋風の休憩施設がいくつか設けられ、新たな安らぎのスペースになっています。

野外音楽堂や50メートル競泳用プールがあった景観

第3学舎エリア

【当時】

1964(昭和39)年、かつての千里山遊園野外音楽堂の観客席の一部をスタンドに利用した50メートル9コースの競泳用公認プールが完成しました。このプールは、関西大学創立80周年記念事業の一つとして教育後援会が建設し、大学へ寄贈したもので、以後、正課体育の授業と水泳部の練習に活用されました。

【現在】

50メートル競泳用屋外プールの観覧席の一番上の位置は、関西大学会館などが建っているレベルでしたので、プールは見下ろす位置にありました。1989(平成元)年、プールの跡地に3階建ての100周年記念会館が建設され、1階部分に25mの室内温水プールが設けられたことで、1年を通じて水泳のトレーニングができるようになりました。

関西大学第一高等学校・第一中学校 正門

第3学舎エリア

【当時】

第一高等学校と第一中学校の正門は、かつて大遊園地であった千里山遊園の入口にあたります。戦後、関西大学は遊園地跡地を購入し、1953(昭和28)年に第一高等学校が、1957(昭和32)年には第一中学校が天六学舎から移転してきました。1958(昭和33)年、正門奥の植栽の中に母子像が設置され、行き交う生徒たちをやさしく見守りました。

【現在】

かつての関西大学第一高等学校と第一中学校の正門は、自然石を利用した門の中に門標が埋め込まれた形のものでした。1999(平成11)年、体育館兼講堂である秀麗館の建築に伴い、正門周辺も大きく改修されました。切石造の新しい門をはじめ、西広場と呼ぶにふさわしい左右に大きく広がった植え込みなど、正門付近は開放的な空間になりました。