関西大学第一高等学校・第一中学校・幼稚園から関西大学会館、第3学舎にかけてのエリアには、
かつて「千里山花壇(千里山遊園)」と呼ばれる遊園地が存在していました。
現在の第一高等学校・第一中学校の正門は、遊園地の入口でした。

大正から昭和にかけての
一大レジャースポット

「千里山花壇」は、北大阪電気鉄道(現在の阪急千里線の前身)が整備し、1920(大正9)年にオープンしました。1923(大正12)年、新京阪鉄道に経営が移ってからは、ボート池や音楽堂、飛行塔、小動物園などが設けられ、一大レジャースポットとして人気を集めました。

【 「千里山花壇」のポスター 】

忍び寄る戦争の影

「千里山花壇」はその後も遊園地としての華やかさを増し、1938(昭和13)年には「千里山遊園」と改称します。しかし、戦時下の1943(昭和18)年には「千里山厚生園」と名を改め、1945(昭和20)年には軍需物資の貯蔵所となって遊園地は一時閉鎖されました。

【 人気の高かった飛行塔 】

今に残る遊園地のおもかげ

1946(昭和21)年に再開されましたが、1949(昭和24)年に「ひらかた遊園」の菊人形が復活したことなどから入園者が減少し、1950(昭和25)年に閉鎖されました。跡地はキリスト教系の女学校が取得しましたが、本学が譲り受け、幼稚園や中学校、高校などを設置して現在に至っています。

【 「花壇」の名が残る第一高校・第一中学校前の踏切 】