三崎驎之助(みさき・りんのすけ 1878-1935)

門人>医師

J63-0001.jpg南岳の三人の子。左から黄坡,三崎麟之助(黄圃),黄鵠。
(明治42年8月撮影)

軍医。南岳の三男。字は士駿、号は黄海、のち黄圃。生まれてすぐ大阪老松町の医師・三崎厚斎の養子となる。

大阪医学校卒業後、歩兵第8聯隊附。九州小倉勤務時代、森鷗外の部下だったことがあり、南岳は驎之助を訪ねがてら鷗外に会っている。明治37年(1904)、日露戦争に従軍し、満州地方を転戦する。戦後、軍功により勲五等双光旭日章および功五級金鵄勲章を受ける。陸軍省医務局附、陸軍軍医学校附、遼陽衛戍病院長(満州)を歴任。陸軍一等軍医正に至る。泊園書院の熱心な後援者でもあった。墓は生玉・齢延寺にあり、東畡・南岳・黄鵠の墓のすぐ前に営まれている。