森田節斎(もりた・せっさい 1811-1868)

友人・関係者

J06-0001.jpg森田節斎『節斎遺稿』

勤皇派の儒学者、大和五条(奈良県)の医家に生まれる。東畡友人。京都で猪飼敬所および頼山陽に学び、さらに昌平黌に入って安井息軒らと知りあう。のち京都に塾を開いて尊王攘夷を唱え吉田松陰ら尊攘志士を輩出し、文名一時に揚がった。東畡は節斎の紹介で松蔭に会っている。著書に『節斎遺稿』2巻がある。節斎の妻は泊園書院で学んでいた小倉節子で、号は無弦。間を東畡がとりもった。節子は幼時に疱瘡を患い、容貌醜黒だったが、学問・詩才にめぐまれた賢女であった。南岳に「祭節斎森田先生文」(『七香斎文雋』所収)がある。

なお、節斎は慶応元年(1865)10月、吉野山の如意輪寺にある小楠公(楠木正行)の髻塚のために「楠左衛門尉髻塚碑」を撰文する。のち明治28年(1895)、断髪した南岳はみずからの髻をその旁に埋めている。