「三世四代」の院主と石濱純太郎

藤澤東畡(1794-1864)

01-02a.jpg 『東区史』第5巻・人物編,大阪市東区役所,1939年

寬政6年(1794)、四国高松藩(現高松市塩江町中村地区)に生まれる。名は甫(はじめ)、字は元発。中山城山に師事して荻生徂徠の古文辞学を修めるとともに、長崎に留学して中国語を学ぶ。文政8年(1825)、32歳の時、大阪淡路町御霊筋西(淡路町5丁目)に「泊園塾」(のちの泊園書院)を開いた。

その後、東畡は大阪を代表する碩学として活躍し、高松藩から士分に列せられるとともに、豊岡藩主・京極高厚、尼崎藩主・松平頼胤の賓師として招かれ儒学を講じた。平野含翠堂にも毎年出講した。幕末には勤皇の志士の慕うところとなり、泊園は大阪最大の私塾として栄えた。受講の門人は三千余名にのぼる。公刊された著作に『泊園家言』、『東畡先生文集』、『東畡先生詩存』などがあり、多くの自筆稿本も伝わる。

藤澤南岳(1842-1920)


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東畡の長子。天保13年(1842)生まれ。名は恒(つね)、通称は恒太郎、字は君成。号は南岳のほか七香斎、香翁、醒狂子、九々山人など。慶応元年(1865)、24歳で家督を継ぎ高松藩の儒官となる。慶応4年(1868)、藩論を佐幕から勤皇へと劇的に転換させ、藩滅亡の危機を救う。その功により藩主から南岳の号を賜わった。その後、明治新政府からの出仕要請を断り、明治6年(1873)、32歳の時、泊園書院を大阪船場に再興する。のち、淡路町1丁目に書院を移す。

南岳は当代随一の学匠として名声高く、全国から学生が雲集し、泊園書院の黄金期を作った。謦咳に接した門人は五千人といわれ、交友の範囲も学界や教育界のみならず、政界や実業界に広がり、大阪を代表する文化人として活躍した。逍遥遊(しょうようゆう)社における漢詩文の集いや、孔子を祭る釈奠(せきてん)も始めている。著述はきわめて多く、公刊された主な著作として『自警蒙求』、『増補蘇批孟子』、『校訂史記評林』、『修身新語』、『評釈韓非子全書』、『論語彙纂』、『万国通議』、『七香斎文雋』、『七香斎詩抄』がある。このほか、未公刊の自筆稿本は膨大な量にのぼる。

藤澤黄鵠(1874-1924)


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南岳の長子。明治7年(1874)生まれ。名は元造(げんぞう)、字は士亨。幼少の時から父南岳の薫陶を受け、さらに東京に出て名門の共立学校に学ぶ。その後、清国南京に2年間留学して中国語を学ぶなど研鑽を積んだ。帰国して南岳引退後の書院経営を引き継ぎ、明治41年(1908)年、35歳で衆議院議員に当選。同44年(1911)、日本南北朝の正統に関する「南北朝正閏問題」をめぐって桂太郎内閣に質問状を提出して世論を沸騰させ、議員を辞職した。その事件のことは石川啄木の短歌にも詠まれている。

のち大阪にもどり、自宅で子弟の教育を行うかたわら、大阪府立高等医学校(のちの大阪大学医学部)嘱託教授の任についた。漢詩においてもすぐれた才能を示した。編著に『亡友詩存』、『菁莪餘録』、『洗酲餘録』、『我が観たる孔子』などがある。

藤澤黄坡(1876-1948)


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南岳の次子。明治九年(1876)生まれ。名は章次郎、字は士明。岡山の閑谷学校で学んだあと、東京高等師範学校・国語漢文専修科の第1期生を卒業。帰阪して岸和田中学に国漢学を講じ、明治44年(1911)年から南区竹屋町9番地(現中央区島之内1丁目)の泊園書院分院を主宰する。南岳が亡くなり黄鵠が引退した後はここが書院の本院となった。また、義弟の石濱純太郎と協力しながら大正・昭和時代、書院の経営と発展につくした。

関西大学に長くつとめ、昭和4年(1929)年に専門部文学科教授、同23年(1948)に関西大学最初の名誉教授となった。漢詩文に巧みで、碑文や顕彰碑を多く撰している。詩吟にも熱心であった。著作に『論語彙纂通解』、『中庸家説』、『三惜書屋初稿』、『三惜書屋詩稿』などがある。小説家として活躍した藤澤桓夫はその長子である。

石濱純太郎(1888-1968)


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大阪淡路町の裕福な製薬会社に生まれる。字は士精、号は大壺。黄坡の義弟。10歳で泊園書院に入り、南岳について学ぶ。のち東京帝国大学文科大学支那文学科を卒業、黄坡とともに書院の維持・発展につくした。また内藤湖南に師事し、京都大学の実証的学問を継承して業績をあげる。とりわけ語学に天才的な才能を示し、中、英、独、仏語のほか、ロシア語や蒙古語、満洲語、サンスクリットを理解した。ロシアのニコライ・ネフスキーと親交を深め、西夏語研究の先駆者となったことはつとに有名である。大阪文化の研究にも貢献している。

石濱は昭和24年(1949)年、関西大学文学部史学科教授となり、泊園文庫の寄贈、東西学術研究所の創設、文学部東洋文学科の開設など本学における東洋学の発展に大きな役割を果たした。関西大学最初の文学博士号取得者。主な著作に『支那学論攷』、『東洋学の話』、『富永仲基』、『浪華儒林伝』などがある。その四万二千余冊にのぼる蔵書は「石濱文庫」として大阪外国語大学(現大阪大学)に寄贈された。