かつての泊園書院

01-03a.jpg泊園書院(もと分院、のち本院。南区竹屋町9番地、現中央区島之内1丁目)

泊園書院は文政8年(1825)、大阪に来た東畡によって淡路町御霊筋西(淡路町5丁目)に開かれた。維新後の明治6年(1873)、南岳により船場唐物町に再興、明治9年には淡路町1丁目に移った。その後、南区南綿屋町に移転し、明治40年、東区東平野町5丁目(のちの3丁目)に移った。

明治44年(1911)には、さらに南区竹屋町9番地に分院を開き、大正9年(1920)、南岳の死去と黄鵠の引退によりこの分院が黄坡の主宰する本院となった。本学の以文館横に移置された藤澤桓夫による「泊園書院址」碑は、もともとここにあったものである。現在、書院の建物は戦災などにより残っていない。

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01-03d.jpg泊園書院(もと本院。東区東平野町5丁目、現中央区東平2丁目)

明治40年(1907)6月、書院は南区南綿屋町から東区東平野町5丁目(のちの天王寺区東平野町3丁目)に移った。大正9年(1920)、南岳が死去して黄鵠が引退するまで、ここが本院であった。


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泊園書院本院の跡地(現中央区東平2丁目)