西暦 | 年号 | 泊園書院 関係記事 |
【江戸時代】 | ||
1794 | 寬政6年 | 東畡、讃岐香川郡安原村(現高松市塩江町中村地区)の農家に生まれる。 |
1802 | 享和2年 | 東畡9歳、讃岐横堰(よこい)村の中山城山に師事する。 |
1816 | 文化13年 | 東畡、長崎に遊学。時に23歳。町奉行高島茂起の家に寄宿し、茂起の子秋帆の教育を託されるとともに、唐音(中国語)を学ぶ。 |
1817 | 文化14年 | 中井履軒没。東畡、備前(岡山)の閑谷学校を訪れ、同校教授の武元北林に教えを受ける。 |
1824 | 文政7年 | 東畡、春田横塘を頼って大坂に遊ぶ。 |
1825 | 文政8年 | 東畡、大坂の淡路町御霊筋西(淡路町5丁目)に私塾「泊園塾」を開く。時に32歳。 |
1829 | 文政12年 | 東畡、先春吟社を結成する。 |
1834 | 天保5年 | 東畡、舎利寺(現生野区舎利寺町)にある菅甘谷の墓石に墓碑文を刻み、これを祭る。 |
1837 | 天保8年 | 中山城山、讃岐で死去。享年75。 |
1838 | 天保9年 | 泊園塾、瓦町2丁目に移る。東西より従学する者多し。 |
1840 | 天保11年 | 長崎の町年寄高島秋帆から、輸入された清・銭梅渓編『海外新書』が届けられる。その中に刷り上ったばかりの荻生徂徠『弁道』『弁名』の二著すなわち「清板二弁」あり。 |
1842 | 天保13年 | 東畡の長子恒(通称恒太郎、号は南岳)、讚岐大川郡引田(ひけた)村の母阿部貞の実家で生まれる。この時、東畡49歳。 |
1847 | 弘化4年 | 東畡、平野含翠堂に出講する。以後、死去するまで17年にわたって出講する。 |
1851 | 嘉永4年 | 東畡、大坂城加番役の豊岡藩(現兵庫県豊岡市)藩主京極高厚に招聘され、大坂城内で『論語』を講じる。 |
1852 | 嘉永5年 | 高松藩、東畡を士分に列し、儒官として俸禄を与える。ただし、そのまま大坂在住を認める。 東畡、一時帰藩し、藩主頼胤および家老以下数十名の藩臣に『書経』堯典を講じる。 |
1853 | 嘉永6年 | 吉田松陰、森田節斎の紹介で東畡に面会する。 |
1860 | 安政7年 | 東畡の妻・南岳の母貞、卒す。享年60。 |
1861 | 文久元年 | 南岳、水野豊を娶る(豊は慶応2年〔1866〕2月に24歳で死去)。 |
1863 | 文久3年 | 大坂城代松平伊豆守(松平信古)、大坂城に入った将軍家茂の命により「御城入(オシロイリ)儒者」を選び、東畡を並河寒泉・中井桐園・後藤松陰・広瀬旭荘とともに指名する。また東畡、尼崎藩主松平遠見守忠興の賓師となり、『書経』を講じる。 |
東畡、高松藩主松平頼聡に従って京都に上り、再上洛した将軍家茂に二条城で謁見。家茂、東畡を幕府の儒臣に任ぜんとするが、固辞して大坂にもどる。 | ||
1864 | 元治元年 | 12月、東畡、瓦町2丁目で卒す。享年71。生玉の齢延寺に葬られる。 |
1865 | 慶応元年 | 南岳24歳、家督を継ぎ高松藩の儒官となる。 |
1868 | 慶応4年 (明治元年) |
鳥羽・伏見の戦い。幕府側についた高松藩、官軍に発砲し朝敵となる。南岳、高松に帰り、決を死して力説、藩の方針を勤皇へと転換させる。藩主頼聡、その功績を賞して南岳の号を賜う。大坂の泊園書院、ここにいったん閉じられる。 |
【明治時代】 | ||
1869 | 明治2年 | 南岳、藩政に参与し、藩校「講道館」の督学となる。大阪の懐徳堂、閉校される。 |
1870 | 明治3年 | 南岳、藩主頼聡の命により高松の私宅(東香川郡中ノ村天神前)に泊園塾を開く。 |
1872 | 明治5年 | 南岳、東京に出るが、明治新政府の方針と合わず、任用を固辞する。 |
1873 | 明治6年 | 南岳、大阪にもどり、船場唐物町八百屋町南へ入る西側(唐物町2丁目)に泊園書院を再興する。時に32歳。書院はついで南本町板屋橋東南角(南本町1丁目)に移り、まもなく浪花橋北詰西、鍋島の浜にある津軽屋敷内へと移る。 南岳、この頃、牧野仙を娶る。仙は高松藩の儒者牧野黙庵の子。 |
1874 | 明治7年 | 南岳の長男、元造(号は黄鵠)、生まれる。 |
1876 | 明治9年 | 南岳の次男、章次郎(号は黄坡)生まれる。書院、大阪淡路町1丁目東北角に移転。この頃、入門者激増する。 |
1878 | 明治11年 | 南岳の三男、驎之助(号は黄海、のち黄圃)生まれ、ただちに三崎厚斎の養子となる。また近隣の家を借りて外塾(書院分舎)とする。 |
1880 | 明治13年 | 愛珠幼稚園、東区北浜(現中央区)に開園する。園名の「愛珠」は南岳の命名による。 |
1881 | 明治14年 | 南岳の妻、仙卒す、享年39。生玉の齢延寺に葬る。 |
1886 | 明治19年 | 左氏球山、近藤南洲ら、大阪市内で漢詩文の会「逍遥游社」を結成、南岳も参加する。 |
1887 | 明治20年 | 南岳、大成教会を興し、個人雑誌『弘道新説』を以後毎月刊行する。 |
1888 | 明治21年 | 南岳、泊園書院で初めて釈奠を行なう。 |
石濱純太郎、父・豊蔵、母・カヤの長男として生まれる。 | ||
1889 | 明治22年 | 16歳の黄鵠、上京して神田の名門校、共立学校に入学、南岳門人の大城戸宗重の家に寄宿する。この年「泊園同窓会規則」定められ、第1回同窓会開催される。 |
1892 | 明治25年 | 黄坡、岡山の閑谷学校に入学、以後2年ほど通学する。 |
1893 | 明治26年 | 南岳、東京帝国大学総長の浜尾新に文教政策改革につき書簡を送る。 9月、南岳、友人の島田篁村から東京帝国大学漢学科講座教授に招聘されるが、政府の教育方針との違いからこれを固辞する。 年末、文部大臣井上毅に「上梧陰井上公書」を送る。この年、黄鵠、東京から大阪にもどる。 |
1894 | 明治27年 | 南岳、西村茂樹の日本弘道会の大阪支会会長となる。以後、『教育博議』を毎月刊行する。 |
1895 | 明治28年 | 南岳、東京に島田篁村を訪問し、篁村の案内で帝大総長の浜尾新を訪ね、浜尾宅で岡倉天心に出会う。 |
東京の高等師範学校に国語漢文専修科が開設され、黄坡、その第一期生として入学する。 | ||
この年 南岳、それまで結っていた髷を切って断髪し、髻を吉野山の如意輪寺に埋める。 | ||
1896 | 明治29年 | 黄坡、高等師範学校を卒業。 |
1897 | 明治30年 | 石濱純太郎、泊園書院に入学する。当時10歳。黄坡、東京から大阪にもどる。 |
1899 | 明治32年 | 黄坡、埼玉県浦和師範学校教諭となる。 |
1900 | 明治33年 | 南岳、三男で医者の三崎驎之助のいる九州小倉を訪ね、驎之助上司の森鷗外と会う。 |
1901 | 明治34年 | 石濱純太郎、大阪府立市岡中学校に入学、同校の第一期生となる。同期に小出楢重(のち画家)、田宮猛雄(のち東大医学部教授)、信時潔(のち作曲家)がいた。 |
黄鵠、清国に留学、南京の東文学堂で中国語を学ぶ。 | ||
1902 | 明治35年 | 南岳、讃岐安原村に帰郷し、東畡の「頌徳碑」除幕式に出席する。黄坡、大阪府立天王寺中学校教諭となる。南岳の還暦祝賀会、中之島の森吉楼で盛大に開催される。 |
南岳、61歳で引退し、黄鵠、代わって書院の院主となる。 | ||
石濱純太郎の姉カツ、黄坡に嫁す。 | ||
1903 | 明治36年 | 南岳、土師神社(現藤井寺市道明寺天満宮)で初めて釈奠を挙行する。参列者多数。この時、書院で奉祀されていた孔子像も土師神社に移される。 |
1904 | 明治37年 | 黄坡の長男桓夫、生まれる。 |
黄坡、大阪第四師団に加わり、翌年まで日露戦争に従軍、陸軍歩兵少尉として中国遼東半島に出征する。まもなく沙河会戦の激戦に参加し、日露戦争後、功五級金鵄勳章を授けられる。 | ||
1906 | 明治39年 | 石濱純太郎、市立市岡中学を卒業する。書院、南区南綿屋町46番地に移る。 |
1907 | 明治40年 | 黄坡、国漢教師として岸和田中学につとめる。 |
書院、東区東平野町5丁目189番地(のちの3丁目3番地、現中央区東平2丁目)に移る。 | ||
1908 | 明治41年 | 黄鵠、第10回衆議院総選挙で衆議院議員に当選する。石濱純太郎、東京帝国大学文科大学文学科に入学、日本漢文学の岡田正之について学ぶ。 |
1910 | 明治43年 | 石濱純太郎の父豊蔵、死去。享年50。石濱、家督を相続して丸石製薬合名会社社員となる。 |
1911 | 明治44年 | 黄鵠、南北朝正閏問題に関する質問書を衆議院に提出する。ついで小松原英太郎文部大臣、桂太郎首相と会見、2月16日、衆議院本会議(第27議会)において演説し、南北正閏問題に関する質問書を撤回するとともに、その場で衆議院議員を辞職する。 |
南区竹屋町9番地(現中央区島之内1丁目)に書院の分院を置く。黄坡、岸和田中学を退職し、これを主宰する。 | ||
石濱純太郎、東京帝国大学文科大学文学科支那文学科を卒業。卒業論文題目は「欧陽脩攻究」(漢文)。 | ||
懐徳堂記念会、西村天囚らの呼びかけにより発足、南岳は名誉会員、黄鵠は特別会員、黄坡は普通会員となる。南岳、その記念講演会で講演する。 | ||
1912 | 明治45年 | 石濱純太郎、大城戸宗重の次女恭子と結婚。大城戸宗重は泊園の塾生で南岳門人。黄坡、泊園書院で通俗漢文講習会を始める。 |
通天閣、大阪新世界の娯楽遊園地「ルナパーク」に建設される。「通天閣」の命名は南岳による。 | ||
【大正時代】 | ||
1913 | 大正2年 | 東畡先生五十年祭を生玉の齢延寺で挙行する。 |
1915 | 大正4年 | 東畡、従四位に追贈される。南岳は正五位に叙せられる。 |
石濱純太郎、西村天囚の誘いにより大阪の文会「景社」に入り、武内義雄らと相知る。 | ||
1916 | 大正5年 | 石濱純太郎、京都の文会「麗澤社」と景社の第1回連合会で内藤湖南、狩野直喜、青木正児、神田喜一郎、小島祐馬、那波利貞、本田成之らと初めて会う。以後、湖南に師事する。 |
この年、懐徳堂再建される。 | ||
1920 | 大正9年 | 南岳、従四位に叙せられる。2月2日、南岳、東平野町の泊園書院で死去。享年79。生玉の齢延寺に葬られる。 |
5月、石濱純太郎、黄坡ととともに東亜学芸の研究を目的とする「泊園書院学会」を設立する。11月、大阪府市教育会、中央公会堂で南岳の追悼講演会を盛大に開催、西村天囚と内藤湖南が追悼講演を行なう。 | ||
南岳の没後、黄鵠は引退し、書院経営は黄坡が引き継ぐ。これにより竹屋町の分院が泊園書院本院となる。 | ||
1921 | 大正10年 | 『泊園書院学会々報』第1冊刊行される。 |
1922 | 大正11年 | 書院経営を退いた黄鵠、鶴橋町鶴之橋南の水天草廬に転居する。 |
石濱純太郎、大阪外国語学校蒙古語部に選科委託生として入学し、モンゴル語を学ぶ。 | ||
関西大学予科(旧制)が開設され、黄坡その講師となる。 | ||
1923 | 大正12年 | 石濱純太郎、泊園書院に漢学の講師として出講する。また、ニコライ・ネフスキーと大阪東洋学会を作り、西夏語の研究を始める。 |
1924 | 大正13年 | 関西大学、福島に専門部文学科を設ける。黄坡、その講師として同学科の中心的存在となる。 |
石濱純太郎、内藤湖南に随伴し、東洋語書籍調査のため神戸からヨーロッパへ出港する。 | ||
9月20日、黄鵠死去。享年51。生玉の齢延寺に葬られる。 | ||
1925 | 大正14年 | 石濱純太郎、ヨーロッパから帰国する。 |
1926 | 大正15年 | 石濱純太郎、関西大学専門部講師となる。 |
【昭和時代】 | ||
1927 | 昭和2年 | 石濱純太郎、東洋学研究を趣旨とする「静安学社」を発起する。 |
石濱純太郎と黄坡、新聞『泊園』第1号を刊行。以後、毎月1回発行し、健筆をふるう。 | ||
1929 | 昭和4年 | 黄坡、関西大学専門部文学科教授となる。石濱純太郎、関西大学法文学部文学科講師となる。 |
1934 | 昭和9年 | 学術団体「泊園会」第1回定時総会を開催。出席者105名の多数にのぼる。6月、内藤湖南死去。 |
この年、黄坡、「関西吟詩同好会」を作って会長となり、「会歌」を作る。 | ||
1935 | 昭和10年 | 石濱純太郎、龍谷大学史学科東洋史学主任代理となる。 |
1936 | 昭和11年 | 黄坡の華甲祝賀会、東区備後町の綿業会館で盛大に催される。 |
1937 | 昭和12年 | 中山城山先生百年祭を高津神社で挙行し、あわせて城山の著書を展観する。石濱純太郎、京都帝国大学文学部講師となる。 |
1938 | 昭和13年 | 黄坡、関西大学教授を定年退職(満60歳)。のち昭和23年まで非常勤講師をつとめる。 |
1942 | 昭和17年 | 石濱純太郎、大阪言語学会を創立する。 |
1945 | 昭和20年 | 3月13日夜、大阪大空襲。書院からくも戦災を免れる。6月7日、書院、空襲により焼失。ただし蔵書は書院内の土蔵に保護収納されていて無事。まもなく藤井寺市道明寺天満宮宝物殿に移され、敗戦後の混乱期にも事なきを得た。8月15日、終戦。 |
1948 | 昭和23年 | 黄坡、関西大学初めての名誉教授となる。12月13日、黄坡死去、享年73。齢延寺に葬られる。黄坡の死去により泊園書院は幕を閉じる。 |
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1949 | 昭和24年 | 関西大学文学部に史学科を開設、石濱純太郎その教授となる。関西大学天六学舎で「黄坡藤澤章次郎先生追悼学術講演会」開かれる。 |
1951 | 昭和26年 | 3月、泊園書院の一万七千点余の蔵書・収蔵品、藤沢桓夫により関西大学に一括寄贈され、「泊園文庫」として収蔵される。4月、泊園文庫の蔵書をもとに文学部に東洋文学科が開設される。専任教員は石濱純太郎(史学科と兼任)、高橋盛孝、壷井義正の3名。同月14日、関西大学東西学術研究所が泊園文庫の整理等を目的に設立され、石濱純太郎、その所長代行兼第一部長に就任。 |
1954 | 昭和29年 | 関西大学文学部史学科に日本史修士課程が開設され、石濱純太郎、史学科に移籍する。 |
石濱純太郎、大阪府から「なにわ賞」を受ける。 | ||
1956 | 昭和31年 | 石濱純太郎、東西学術研究所所長となる(昭和40年3月まで)。 |
1957 | 昭和32年 | 石濱純太郎、関西大学より文学博士の学位を受ける。関西大学における最初の文学博士号授与。 |
1958 | 昭和33年 | 壺井義正編『関西大学泊園文庫蔵書書目』および『石濱先生古稀記念東洋学論叢』刊行される。石濱純太郎、関西大学を定年退職し、名誉教授となる。 |
1960 | 昭和35年 | 大阪市教育委員会、「泊園書院跡」の碑を淡路町1丁目に建てる。 |
1961 | 昭和36年 | 泊園記念会が設立され、第1回泊園記念講座を中之島の朝日新聞大阪本社講堂で開催。記念会の初代会長は石濱純太郎。以後、記念講座を毎年1回開く。 |
1962 | 昭和37年 | 泊園記念会の雑誌『泊園』創刊号刊行。 |
1963 | 昭和38年 | 香川県塩江町で東畡百年祭記念碑除幕式が行なわれる。東畡顕彰会、「庭闈春色新 藤澤甫」の記念碑を塩江中学校校庭に建てる。 |
1967 | 昭和42年 | 関西大学文学部の東洋文学科、中国文学科と改称。 |
1968 | 昭和43年 | 2月11日 石濱純太郎死去、享年79。大阪市北区東寺町宝珠院の石濱家墓所に葬られる。 |
1970 | 昭和45年 | 石濱純太郎の蔵書四万二千余冊、「石濱文庫」として大阪外国語大学(現大阪大学)に寄贈される。 |
1974 | 昭和49年 | 石濱純太郎七回忌。淡路島洲本市寺町の遍照院に供養碑が建てられる。西夏語で「日出づ」「日没す」の四字を刻む。 |
1976 | 昭和51年 | 12月27日、黄坡の妻カツ(石濱純太郎の姉)、卒す。享年90。 |
1986 | 昭和61年 | 大庭脩、『江戸時代における中国文化受容の研究』により第76回日本学士院賞を受賞する。 |
【平成時代】 | ||
1989 | 平成元年 | 6月12日、藤澤桓夫死去。齢延寺に葬られる。その蔵書三千点余、まもなく大阪府立中之島図書館に「藤沢文庫」として寄贈される。 |
1990 | 平成2年 | 関西大学で「泊園記念会設立30周年・泊園記念講座開設第30回記念行事」が開かれ、講演と展示会が催される。 |
2001 | 平成13年 | 東西学術研究所創立50周年シンポジウム「東と西の文化交流」を関西大学尚文館で開催。あわせて「大坂の学問 泊園文庫・内藤文庫・増田文庫」の展示が総合図書館で開かれる。 |
2005 | 平成17年 | 東西学術研究所の附置研究所「アジア文化交流研究センター」(CSAC)が文部科学省の学術フロンティア推進拠点「学術フロンティア」に採択される(平成21年度まで)。 |
2007 | 平成19年 | 関西大学の「東アジア文化交渉学の教育研究拠点形成」プログラムが文部科学省グローバルCOEに採択、「文化交渉学教育研究拠点」(ICIS)を設立する。 |
2010 | 平成22年 | 8月、旧竹屋町(島之内1丁目)の「泊園書院址」碑、見出される。題字は藤澤桓夫。10月23日、泊園記念会創立50周年記念国際シンポジウム「東アジアの伝統教育と泊園書院」を関西大学以文館で開催。あわせて特別記念展示「藤澤東畡・南岳・黄鵠・黄坡と石濱純太郎の学統」が催される。展示会場は総合図書館展示室および正門横アートギャラリー。 |
2011 | 平成23年 | 10月、吾妻重二編著『泊園記念会創立50周年記念論文集』刊行される。またWEB泊園書院公開される。 |
2013 | 平成25年 | 10月、藤澤章子氏より書軸54点などが寄贈され、「藤澤文庫」として収蔵。 11月、高松市歴史資料館で「藤澤東畡展~没後百五十年記念~」開かれる。 |
2015 | 平成27年 | 3月、藤澤桓夫の没後25年・生誕110年を記念し住吉区上住吉の旧居跡地に「藤澤桓夫邸「西華山房」跡」の顕彰碑建てられる。 |
2016 | 平成28年 | 関西大学創立130周年記念事業により8月19日、東畡の「頌徳碑」を高松市塩江町旧安原小学校内に移設しその除幕式を行う。また「藤澤東畡先生 生誕の地」の石標を東畡の生家跡に建てる。 10月30日、関西大学創立130周年記念泊園書院シンポジウム「泊園書院と漢学・大阪・近代日本の水脈」を関西大学第1学舎1号館で開催する。 10月、地元の藤澤会により旧安原小学校内に「藤澤東畡・南岳先生資料室」が開室する。 |
2017 | 平成29年 | 8月、吾妻重二編著『泊園書院と漢学・大阪・近代日本の水脈―関西大学創立130周年記念泊園書院シンポジウム論文集―』刊行される。 |
2018 | 平成30年 | 10月26日・27日、「東西学術研究と文化交渉――石濵純太郎没後50年記念国際シンポジウム」を関西大学以文館で開催。あわせて記念展示「石濵純太郎とその学問・人脈」展が総合図書館展示室で催される。 |
【令和時期】 | ||
2019 | 令和元年 | 11月、吾妻重二編著『東西学術研究と文化交渉――石濱純太郎没後50年記念国際シンポジウム論文集』刊行される。 |