幕末の慶応4年(明治元年、1868)1月、鳥羽・伏見の戦で幕府側についた高松藩は官軍に発砲し朝敵となる。これを憂えた南岳は官軍の参謀大山格之助に高松藩討伐延期を陳情するとともに、急ぎ高松に帰る。そして死を決して力説し、城中での激論の結果、藩の方針を勤皇へと転換させ、藩滅亡の危機を救った。藩主頼聡(よりとし)はその功績を称えて南岳の号を賜わった。