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第23回マイノリティ・セミナー

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第23回マイノリティ・セミナー
「デクソンヌ法制定の政治的背景
 -フランス社会党SFIOの動向をめぐって」

                      
 「一にして不可分の共和国」を謳い、フランス語を国民言語とみなすフランスでは、地域主義運動を利用したナチスの影響下にあった一時期を除いて、伝統的に地域言語は抑圧されてきた。1980年代のミッテラン政権に至って、多文化主義の影響のもとでようやく、地域言語を、ある程度、尊重する政策がとられるようになるのだが、実はその根拠となった法律は、第二次世界大戦直後に提案され、1951年に制定されたデクソンヌ法であった。この研究会では、言語政策という観点からフランスの政治を分析されてきた福留邦浩氏を迎え、デクソンヌ法制定の政治過程について報告していただいた。要旨は以下の通り。

【要旨】
 フランスは、伝統的に、ブルトン語やカタルーニャ語、オクシタン語などの地域言語を含む多言語社会である。しかし、中央政府は、行政言語をフランス語と定め、フランス語を国民統合の重要な装置とみなして、地域言語を抑圧する政策をとってきた。とりわけ1880年代の第三共和制下において、フランス語による義務教育制度が確立されると、地域言語は衰退してゆく。ヴィシー政権下では、当局によって、地域言語を公教育において教授することが認められたことがある(カルコピノ通達)が、これは、地域主義の育成によってフランス共和国の弱体化を図ったナチスの影響のもとでとられた政策である。

ところが、第二次世界大戦直後、共産党の議員団が中心となって、地域言語を保存するために必要な政策の実施が、政府に要求された。そのための法案は、結局共産党ではなく、社会党の議員であったモーリス・デクソンヌによって作成され、1951年に可決された。この法律は、法案作成者の名前をとってデクソンヌ法と呼ばれている。

 デクソンヌ法は、限られた地域言語に関して、わずかに週に1時限、正課外の科目として教授することを、「要望がある場合に」許可することを定めているにすぎず、地域言語を保存・促進する立場から見れば極めて不十分なものにとどまる。さらに、この法律は、施行のための細則が定められず、1980年まで、顧みられないままに放置されていた。いったいなぜ、1951年のフランスにおいて、限られた内容とはいえ、地域言語教育を公的に承認する法律が制定され、しかも、ながく実施されないままの状態に置かれたのだろうか。

それを理解する鍵は、当時の議会の情勢にある。当時のフランス議会においては、共産党は第1党もしくはそれに匹敵する勢力を有していたにもかかわらず、政権外に置かれていた。地域言語保存要求を前面に出す共産党とは異なり、当時の社会党は、公教育においてはフランス語のみを認めるという政策をとっており、地域言語に対して批判的であった。しかし、中道諸政党との連立によって政権を担当していた社会党としては、右派政党への対抗や、有力政党としての共産党への配慮から、共産党が中心となって推進してきた地域言語保存要求を無視できない状況にあった。そのような状況の中で、社会党は、共産党の影響力をそぐためにも、あえて、地域言語保存のための法案の作成を引き受けたものと考えられる。にもかかわらず、社会党自身は地域言語に対して冷淡であったため、法案成立後にその施行細則を定める努力が払われなかったのであろう。この法律が再び注目されるのは、多文化主義を推進したミッテラン政権を待たねばならなかった。

 質疑において、なぜ当時の共産党が地域言語を保存する政策をとるように要求したのか、共産主義勢力と地域主義の関係はどのようなものであったか、なぜ1980年代になって、デクソンヌ法の実施が行われたのか、などの問いが提起され、戦間期から戦後にかけてのフランスの国際関係や国内情勢を参照しつつ、活発な討議が行われた。

主幹 西 平等(関西大学法学部准教授)

 


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