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第9回マイノリティセミナー

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第九回マイノリティ・セミナー

「暴力の記憶にむきあう―政治・宗教・法のあいだ」

日 時)2010年3月6日(土)
14:00~18:00  
場所)関西大学児島惟謙館1階第1会議室

報告1)石田慎一郎 (首都大学東京都市教養学部准教授)
メノナイトの平和事業とコミュニティの修復―ケニアの事例から
報告2)池田昭光(東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程)
レバノン内戦の記憶と重層的なアイデンティティ―予備的な検討
コメンテータ)森正美(京都文教大学人間学部准教授)
久保秀雄(京都産業大学法学部助教)
総括コメント)孝忠延夫(関西大学政策創造学部教授・ マイノリティ研究センター長)
司会)角田猛之(関西大学法学部教授・ アジア法文化研究班主幹)

 

第9回マイノリティ・セミナーは、法学研究所との共催で、3月6日におこなわれた。今回は、二名の人類学者を報告者として迎え、「暴力の記憶にむきあう——政治・宗教・法のあいだ」をテーマに議論がおこなわれた。

ひとりめの報告者である石田慎一郎氏は、「メノナイトの平和事業とコミュニティの修復——ケニアの事例から」と題し、民間組織による、草の根の平和構築活動について論じた。ケニアでは、植民地時代の暴力をめぐる訴訟が、近年になっても解決をみていない。独立闘争を担ったマウマウ団のメンバーが、英国政府を相手に起こした訴訟にも、そのことは表れている。ケニア政府としては、真実委員会を設置することで、人権侵害の問題解決をはかろうとした。しかし、これは1963年の独立以後になされた政治犯罪を対象としており、植民地時代の暴力は対象外とされた。その沈黙には政治的な思惑が働いているが、いずれにせよ、国家は制度上、暴力の記憶に向きあっていない。そこへ登場したのが北米を活動拠点とするメノナイト中央委員会のケニア事務所が設立した「アフリパッド」である。同組織は、博物館を拠点に、ローカルな文化伝統にもとづいた追悼行事や植樹活動、ケニア人の学生たちに対する啓蒙活動をおこなっている。石田報告は、アフリパッドの活動に布教の側面がないことに着目し、この活動が、訴訟のような法的枠組みを利用した行為ではなく、儀礼的行為や対話といったパフォーマティブな行為を通じた、記憶や表象をめぐる闘争であると指摘した。

もうひとりの報告者である池田昭光氏は、「レバノン内戦の記憶と重層的なアイデンティティ——予備的な検討」として、1975年から90年にかけておこなわれたレバノン内戦をめぐる記憶の語りとそこに表れるアイデンティティについて論じた。内戦当時の記憶は、「宗派対立」的な枠組みで語られる。他方、自他の宗教・宗派の違いが抑制されたり、コミュニティとしてのアイデンティティのほうがより強調される現象もみられる。池田報告は、特定の要素でもって自らのアイデンティティとはせず、様々な要素のあいだを揺れうごくレバノン人のありかたに着目し、「宗派対立」的な事態は、こうした重層的なアイデンティティが存在するなかで、宗教・宗派の違いだけが選択的に強調される事態であると示した。さらに、さまざまな宗派集団の集合体としてレバノンを表象する語り口は、学術やメディア等において一般的ではあるが、その語り口自体が、宗教・宗派的要素だけをことさらに強調する「宗派対立」的な論理と同じものではないかと指摘した。

両名の報告をうけ、孝忠延夫、森正美、久保秀雄の三氏によりコメントが述べられ、さらにフロアも含む参加者全員での質疑応答の時間が設けられた。報告の内容を拡張し深化させる多様な論点が提出されたが、全体に通底するものとして、(1)国家への視点と(2)表象の本質化への視点があったと思われる。(1)記憶の形成や共有には物語の要素がともなうが、物語の共有に際し、国家はどのような役割を果たしているのだろうか。スミソニアン原爆展、水俣東京展、ホロコーストをめぐる議論などではこのような点が問題となった。この、欧米諸国や日本においても問題となった出来事と、石田・池田報告とは、響きあうものをもちながらも、全体をつないで議論する枠組みを欠いている。そうした枠組みのひとつとして国家の視点が提案された。(2)表象の本質化の論点は、同様な指摘を、学術的な作法から日常の細かな所作まで含んだ、より広い「制度」的な視野で検討しようと指摘するものであった。学問的な視点から構築主義的な理論や視点を評価することはいくらでも可能である。だが、メディアや一般社会において民族や宗教をめぐる本質的な表象や語り口がなくならないことをどのように考えるか。構築主義と本質主義の対立を経た後の時代に、研究対象を客観的に眺めるのではなく、自らもその一部であるような社会を、「自らもその一部」の視点を失わないようにして考えるにはどのようにすればよいのか。細かな事実や学問的立場の違いが括弧に入れられ、いったん振りだしに戻されるような、貴重な指摘であると感じた。


左から石田慎一郎氏、森正美氏、池田昭光氏、久保秀雄氏

人類学的研究は、ミクロな次元に焦点を合わせたものだが、しかしそれはより一般的な議論の場に貢献する可能性を持ちうる。あるいは、持ちうるためにはどのように議論を発展させるべきか。本セミナー/研究会の学際的なありかたは、そのような場の所在を示し、共有をうながしている。各自のディシプリンや立場の違いは当然存在するが、その違いに対して、ともかく人類学的に対応する。自らが相対化されることの積極的な意義がここにあると感じた次第である。


孝忠延夫氏(左)と角田猛之氏(右)

池田昭光(東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程)

 

 

 

 

 


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