現在の専門領域は「言語哲学」です。主な担当科目は、学部では「言語コミュケーション論」、大学院では「意味論」です。これまで、西洋哲学史のテクストの分析を中心に、「真理論」「個体論」「存在論」「意味論」などのテーマを扱ってきました。言語分析哲学の発祥地ともいえる英国ケンブリッジ大学トリニティコレッジでの研究を通して啓発されたのは、20世紀の言語分析哲学で主題となっている「意味」や「指示」の問題が、じつは西洋哲学の伝統的な「神の存在論的証明」の問題と深くつながっているということでした。
神の存在論的論証とは、11世紀イギリスの神学・哲学者アンセルムスや17世紀フランスの数学・哲学者デカルトによる、「神=完全な存在者」という概念から神の現実存在を演繹的に導出できるという主張のことです。18世紀ドイツの哲学者カントは、デカルトのこの考え方を批判して、「存在はレアルな述語ではない」と主張しました。現代の言語分析哲学の流れを作った哲学・数学者フレーゲやラッセルの「存在は述語ではない」という重要な主張は、このカントの考え方を継承しています。要するに、意味や指示といった言語の問題の背景に形而上学的背景があるというわけなのです。
もう一つ、私が最近関心を持っているのは、「カテゴリー」の問題です。カテゴリーとは、われわれを取り巻く自然的あるいは人工的事物を分類し把握するために、心が参照する認知的概念のことです。古代ギリシャの哲学者アリストテレス以来、カテゴリーの意味内容は一義的に定義可能とされてきました。たとえば、「三角形」の意味内容は「三つの直線で囲まれた、内角の和が二直角の図形」というようにです。しかし、すべてのカテゴリーがこのように定義可能とは限りません。たとえば、「野菜」と「果物」は厳密に境界線を引くことはできません。カテゴリーは、一義的な定義内容によってではなく、プロトタイプ(典型)を中心として構造化されている、というのが現代の認知意味論の基本的考え方です。この考え方を深化させるため、data-based researchによって諸々のカテゴリー語の日英比較を行っています。
「外国語学」を学ぶということは、単に1つ(または2つ以上)の外国語が使えるようになるということではありません。その程度のことなら、わざわざ大学に行かなくても、いくらでも他に方法が見つけられます。現に、大学に行かなくても、日本人はみな日本語を不自由なく使えるのですから。大学で外国語学を学ぶ意味は、ある言語の学習を通じて、その言語を使う人間の思考様式、心理的構造、その背景にある思想や文化などについて深く理解することにあります。つまり、言語(=見えるもの)の分析を通して、その背後にある思考や文化(=見えないもの)を解明することだと思います。