関西大学飛鳥文化研究所と奈良県明日香村との共催で1975(昭和50)年から開催している「飛鳥史学文学講座」が、今年度も4月より始まりました。故網干善教名誉教授らによる高松塚古墳の世紀の発見を記念して創設された本講座は、今年で52年目を迎え、今や日本で有数の歴史文化講座となっています。今回は、開講式および特別講を含めた、第1講から第3講までの様子をお伝えいたします。
4/12(日) 開講式
節目の年に、響き合う明日香村と関西大学
伝統ある歴史文化講座が今年も始動
4月12日(日)、奈良県明日香村の中央公民館において、「2026(令和8)年度 飛鳥史学文学講座」の開講式が執り行われました。講座を担当する教員や来賓が一堂に会し、芝井敬司理事長、高橋智幸学長、明日香村村長の森川裕一氏がそれぞれ挨拶を述べました。
芝井理事長は、今年が関西大学創立140周年の節目にあたることに触れるとともに、本講座が開講52年目を迎え、さらなる発展を遂げていくことへの期待を語りました。
続いて、高橋学長は、質の高い教育と社会貢献の実現には研究活動の充実が不可欠であると述べ、専門家が研究成果を発信する本講座が、心豊かに暮らせる社会の実現に向けて大きな意義をもつことを強調しました。
最後に、明日香村村長の森川氏は、明日香村を中心とする「飛鳥・藤原の宮都」が2026年夏の世界遺産登録を目指していることに言及し、美しい飛鳥の地を今後も関西大学と手を取り合って守り続けていく決意を熱く語り、開講式を締めくくりました。


4/12(日) 第1講
韓国の世界遺産と「飛鳥・藤原の宮都」 関西大学文学部教授・博物館長 井上主税
東アジアの交流史から読み解く「飛鳥・藤原の宮都」の普遍的価値
世界遺産登録を目指す「飛鳥・藤原の宮都」ですが、当時の日本(倭)は中国や朝鮮半島の国々から大きな影響を受けていました。本講義では隣国・韓国の世界遺産「慶州歴史遺跡地区」(2000年登録)と「百済歴史遺跡地区」(2015年登録)を取り上げ、飛鳥・藤原との共通点や相違点を検討しました。
百済は、漢城(ソウル)から熊津(公州)、泗沘(扶余)へと都を遷しながら倭と深く交流し、仏教や建築技術を伝えました。公州の宋山里古墳群には武寧王陵などの塼築墳があり、そのなかには、画風こそまったく異なるものの高松塚古墳に見られる四神図と類似した壁画をもつものもあります。一方、新羅の都の慶州では、月池に見られる中国風庭園と、独自の発展を遂げた飛鳥京跡苑池との違いが際立ちます。
古墳の変遷や寺院の伽藍配置などにおいても、日本は大陸・半島の文化を受容しつつ、八角形墳など固有の形式を生み出しました。東アジア的な視野のなかで、飛鳥・藤原の独自性と普遍的価値が浮かび上がってくる、そんな視点の獲得につながる講義でした。
5/10(日) 第2講
古代人の「ふるさと」飛鳥 関西大学文学部教授 乾善彦
万葉集から読み解く、古代人の「ふるさと」観
飛鳥史学文学講座第2講では、関西大学文学部の乾善彦教授が、「ふるさと」という言葉をテーマに、古代人が飛鳥という土地にどのような思いを抱いていたのかを、万葉集などの古代の歌を通してわかりやすく解説しました。
現在の私たちにとって「ふるさと」は、生まれ育った懐かしい場所を意味します。しかし古代人にとって飛鳥は、単なる故郷ではなく、「かつての都」として記憶される特別な土地でした。都が移った後も、人々は飛鳥の風景に、特別な思いを重ねていたのです。
講義では、大伴坂上郎女を中心に取り上げながら、飛鳥の山や川、春霞や月明かりなど、歌に詠まれた風景表現を紹介しました。そこには、単なる懐かしさだけではなく、時代の移り変わりの中で変化していく都への思いや、かつての都への特別な思いが込められていました。
また乾先生は、現在も残る飛鳥の風景に触れながら、「風景を見ること」そのものが古代人にとって特別な意味を持っていたことも紹介。千年以上前の歌を通して、古代人の感性や心の風景に触れられる講義となりました。
6/14(日) 特別講 10:00~
天武・持統陵の近世、その在地化 関西大学前非常勤講師 今尾文昭
「武烈陵」説から読み解く、地域と山陵の関係
明日香村野口にある野口王墓古墳は、天武天皇と持統天皇を合葬した「檜隈大内陵」です。『続日本紀』にもその名が見え、古くから天武・持統陵として認識されていました。文暦2(1235)年に起きた盗掘事件は『阿不幾乃山陵記』や藤原定家の『明月記』にも記され、朝廷関係者の間で関心を集めたといいます。
ところが、元禄10(1697)年の天皇陵調査では、野口村の庄屋らが「檜隈大内陵は武烈天皇陵」と報告しています。その背景に、古墳の東約150メートルに鎮座する小泊瀬稚雀神社の存在があるのでは、と今尾氏は指摘します。神社修復のために古墳の立木が利用されており、祭神が武烈天皇であったことから「武烈陵」説が生まれたのでは、というのです。
幕府は元禄の調査で野口王墓古墳を天武・持統陵と定めましたが、地域ではその後も武烈陵と信じられ続けました。本居宣長の『菅笠日記』(明和9(1772)年)にも、その間違った認識について記されています。史実や公的見解だけでは覆らない、地域の記憶の力を改めて実感させられる内容でした。
6/14(日) 第3講
宮都が語る文明のかたち ─飛鳥・藤原京と世界遺産登録の意味─ 作家・関西大学客員教授 玉岡かおる
世界遺産登録は通過点─明日香の新たな挑戦
「飛鳥・藤原の宮都」の世界遺産登録が決定的とされるなかで開かれた講座では、藤原京がなぜ世界遺産にふさわしいのかが多角的に説明されました。世界遺産は「人類にとって重要かどうか」が問われる制度。その観点から藤原京は、天皇を中心とする中央集権国家の最古の首都として歴史的意義を持つこと、儀礼や祭祀、官僚制度など日本文化や国家運営の原型が形づくられた場所でもあることが語られました。
さらに、隋・唐の制度を取り入れながら独自の都市計画を実現し、渡来人の知識や技術を活かして仏教文化の受容と日本化を進めた点も大きなポイントに。こうした価値に加え、発掘成果が適切に保存・蓄積されてきたことが世界遺産登録につながりました。
一方で、講座では世界遺産登録は新たなスタートであることも強調されました。玉岡氏が参加者に明日香の将来像を問いかけた際には、「今のままであってほしい」と考える人も非常に多い結果に。歴史的景観の保全と新たな発展をどのように両立させるか、明日香の未来について考えさせられる講座となりました。



