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充実の飛鳥史学文学講座 教育後援会 会報編集部

関西大学飛鳥文化研究所と奈良県明日香村との共催で1975(昭和50)年から開催している「飛鳥史学文学講座」。故網干善教名誉教授らによる高松塚古墳の世紀の発見を記念して創設され、今や日本で有数の歴史文化講座となった本講座について、今回は2023(令和5)年度の特別講を含む第9講から第12講までの様子をお伝えいたします。

2023/12/10(日)
第9講 飛鳥の陵墓と古墳時代の終焉 ─「古墳」の終わりと「日本」の始まり─
関西大学客員教授 徳田誠志

「日本国」誕生 陵墓に見る歴史的トピック

第29代欽明天皇の陵(みささぎ)と言われる「檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)」はさまざまな特徴があることで知られています。例えば、それまで「百舌鳥・古市」「磯長(しなが)」につくられていた陵が、初めて「飛鳥」の地につくられたという地域性。また、墳丘の主軸が東西に正確に一致しており、北・西・東側がコの字状に造成されて、かつ南側が開かれているなどといったつくりの精密さ。さらに「最後の前方後円墳」と見られることも特徴といえます。
それらの特徴が生まれた理由にも諸説がありますが、方角の正確さは「天子南面」「風水思想」の導入であり、儀礼の場としての陵に「新たな造墓思想」が融合した結果だと考えられます。それは「倭の国」の最後、「日本国」が誕生する先駆けとなる、まさに時代の転換期のトピックと推理できることを解説しました。
ほかにも、天照大神の子の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)から三代に渡る陵がすべて鹿児島にある理由や、前方後円墳から用途不明の土製品が出土する意味など、講座では陵墓の不思議を多様な視点からレクチャー。そして、これから陵墓をどのように考えて保全し探究すればよいのかといった提言を行い、講座を締めくくりました。

2024/1/14(日)
第10講 [キトラ古墳壁画発見40周年] 飛鳥の壁画古墳とその造営意義
明日香村教育委員会文化財課 課長補佐・関西大学文学部非常勤講師 西光慎治

現存する東アジア最古の天文図が語ること

明日香村阿部山のキトラ古墳は、高松塚古墳に次いで2例目となる大陸風壁画が発掘されたことで知られています。キトラ古墳は小さな円墳で、朱雀や玄武といった四神が壁画に描かれた点などで高松塚古墳と共通していますが、決定的に異なる箇所があります。ひとつは壁画の質が高松塚古墳よりも明らかに高いこと。そして、天井に天文図が描かれていることです。
天文図の観測場所は北緯34度あたりということがわかっています。昔の長安や洛陽あたりの天文図が伝わったのでしょう。現存する天文図では東アジア最古のもの。古来、天の意志は空に現れ、星などにおかしな動きがあると地上にも何かが起きると考えられていました。為政者は時間を測り、星の動きを観測し、それをひとつの拠り所として地上を治めてきたのです。
これらの特徴を見ると、キトラ古墳はきわめて重要な墳墓だったと考えられます。では、埋葬されたのは誰なのか? 天武天皇の皇子や側近の高官と見られますが、いずれにせよ為政者としてかなり身分の高い人物であったことは間違いありません。講座では、このような歴史のロマンを豊富な資料とともに紐解きました。

2/11(日) 10:00~
特別講 飛鳥・藤原の世界遺産登録 ─国づくりの息吹を今、飛鳥で感じる─
明日香村村長・関西大学客員教授 森川裕一

世界文化遺産登録に向けての現状と課題とは

奈良県と明日香村が世界文化遺産登録をめざす「飛鳥・藤原」は、東の夷「倭」から、律令国家「日本」に生まれ変わる時代において、政治および文化における中心的な地域でした。飛鳥史学文学講座 特別講では、明日香村村長であり、本学客員教授も務める森川裕一氏が、世界文化遺産登録の現状と課題について解説しました。
飛鳥時代の西暦592〜710年にかけては、中国大陸で隋唐が興る東アジアの大変革の時代でした。遣隋使を派遣したことをきっかけに、日本は律令国家としての歩みを急速に進めます。これは今日の日本の枠組みにもつながっており、仏教や官僚制度などの基本思想、戸籍制度や納税制度などのインフラ整備などは飛鳥京から始まったと言えます。続く藤原京では「日本」「天皇」といった呼称や富本銭による貨幣経済が採用されるようになり、その後の日本の礎となっています。
これらの史実と解釈が、「飛鳥・藤原」の世界文化遺産登録をめざす上での基本的な考え方です。もちろん、明日香村の取り組みだけで世界文化遺産登録が実現するわけではないので、日本政府や国際社会と協調しながら課題解決に向けて何が必要なのかを解説しました。

2/11(日)
第11講 変貌する秦河勝 ─天王寺楽人と猿楽師の祖神─
天王寺楽所雅亮会理事長・一般社団法人雅楽協会代表理事・関西大学客員教授(当時) 小野真龍

正史には記述の乏しい人物がなぜ神格化されたのか

聖徳太子の側近、財務官僚、武人、能楽の祖など、様々な伝説を持つ秦河勝は、実際にはどのような人物であったのでしょうか。飛鳥史学文学講座 第11講では、小野妹子の末裔として浄土真宗本願寺派願泉寺住職を務め、雅楽演奏者でもある小野真龍氏が、謎多き秦河勝の人物像について解説しました。
秦河勝は大荒大明神として神格化され、坂越市の大避神社や、一節では広隆寺の大酒神社にも祀られているにも関わらず、史書における生前の記述は少なく、謎の多い人物として知られています。日本書紀にある記述は3箇所のみで、聖徳太子の仏像を譲り受けて蜂岡寺を造営したこと、新羅に使者の導者としていわば外交官のような案内人を務めたこと、そして、民衆を惑わす邪教の教祖であった大生部多を討伐したことが記されています。
後に聖徳太子の神格化や日本書紀の記述などから、秦河勝も荒ぶる将官や超常の神のように描かれるようになりました。また、正史や主要文献には秦河勝が芸能に深く関わった記載は見当たりませんが、今日では能楽の祖、天王寺楽人の祖神として祀られるようになっています。そこにはどのような経緯があったのかを解説しました。

3/3(日)
第12講 奈良県の頭屋(とうや) 行事 ─家に祀る神─
関西大学文学部教授 黒田一充

頭屋からみる神事と人々の暮らしについて

頭屋とは、神社や講などで神事の主催や準備を担当する当番のことを指します。天理市大和神社の例祭(通称ちゃんちゃん祭り)では、氏子である9地区が頭屋を務めますが、地区ごとに祀り方が異なります。祭神の神霊を頭屋宅に迎えて翌日に神社へ運ぶ地域や頭屋宅の床の間に1年間祀る地域など、その差異に伝承の面白さが見えてきました。
また、天理市の遠田・為川・蔵堂3つの村で壺を祀る「数献當講(スコントウコウ)」についても解説。これは3つの村の境界で出土した壺型の土器を池の水の守り神として祀るようになった民俗儀礼です。蔵堂の頭屋の引き継ぎ文書には、儀礼の詳細はもちろん、水田に引く水利争いを解決するために行われた池の造成で蔵堂村と遠田村の間で土地交換がなされたこと、同等の土地を交換できなかった遠田村は不足分を年貢米に換算して毎年「米一斗二升一合八夕」を支払い、蔵堂村はその米を銀に換え「数献當講」の儀礼に使っていたことなどが明らかになりました。水田の水の確保が人々にとっていかに大切だったか、当時の人々の信仰心にも思いを馳せ、講座を締めくくりました。

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