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飛鳥史学文学講座 魅力満載の特別講演 教育後援会会報編集部

昨年6月、500回を迎えた関西大学飛鳥文化研究所と明日香村教育委員会主催の「飛鳥史学文学講座」はその後も順調です。通常の講座に加え、作家、玉岡かおるさんや宮内庁陵墓調査官、徳田誠志さん、さらに学校法人関西大学専務理事である矢野秀利名誉教授がそれぞれ年末から今年2月にかけ特別講演しました。3人のテーマは、玉岡さんは女性天皇、徳田さんは陵墓調査、矢野名誉教授は古代の税制。幅のあるテーマ設定がこの講座の特徴で、43年前から続く講座の参加者が全国から延べ10万を超えたのもうなづけます。

◆ 天平の女帝の魅力

玉岡さんの近著

昨年12月9日の通算506回目の講演で最初に登壇したのは玉岡さんです。 近著『天平の女帝孝謙称徳』(新潮社・刊)で反響を呼んだ女性天皇。「奇しくも現代、皇位継承者の数が限られ先細りとなる現実に直面しており、皇室典範の見つめなおしが議論される機会も増えました。こういうときこそ歴史に学べばいい知恵も浮かぼうというものです。古代には何人もの女性天皇が立ったのに、なぜ孝謙称徳以後は出なかったのか。成功と失敗のなかからヒントを探りましょう」と話し始めました。
玉岡さんが歴史を文学に取り込むのは、歴史上の事実関係で「そうかもしれへんけど証拠がないんや」という場合に、文学の力を借りて歴史を切り取りたいからだ、といいます。
この作品で描いたのは、奈良時代、二度も皇位についた女性の孝謙称徳帝。取材で奈良の西大寺を訪ねたときに8つの巨大な石を見たのがきっかけだそうです。それは聖武天皇の娘である女帝が築こうとした七重の塔の礎石だったのです。「東大寺を造った父帝を超えようとしたその意思の強さに打たれました」と話しました。そして帝の業績などを調べるうちに「奈良時代のキャリアウーマンで、21歳で女性初の皇太子となり、仏教や政治上の高度な教育を受け、民のために尽くしました」と紹介し、従来の孝謙称徳帝の業績などを再評価したかったようです。
女性初の皇太子になったのは「天皇になるための勉強をするため」で、皇太子時代に教養を積み上げたといいます。天皇に即位してからは、遣唐使を派遣したり大仏の開眼供養などを行う一方、仲麻呂らの内乱を鎮圧し道鏡を引き立てたりしました。玉岡さんはこうした業績や政治上の駆け引きにまで言及。女帝孝謙称徳の人間性やその魅力を語りました。

女帝の人間性や駆け引きを語る玉岡さん

◆ 膨大な石のナゾ

ついで登壇したのは宮内庁の徳田さんです。開口一番「6カ月ぶりにここに帰ってきました」と聴衆に話しかけました。徳田さんは昨年6月にも講演したことがあり、それを念頭に置いた発言でした。昨年10月23日から12月上旬まで、約2カ月にわたり宮内庁などが仁徳天皇陵を調査し、この日はその結果を報告するためのものです。
仁徳天皇陵は大阪府堺市にある日本最大の前方後円墳。今年夏にも予定されている世界文化遺産登録を目指す百舌鳥・古市古墳群のひとつで、墳丘は3重の周濠と2重の堤に囲まれています。
まず調査の目的について「この天皇陵は築造されて1600年経過しました。経年変化で一部が崩れたりしており、今のうちに調査をして保全のための対策が必要です」と説明しました。
10月からの調査では、トレンチ(遺構の所在を確認するために行う試掘調査用の溝)3本を掘削し、第1堤を確認しました。この堤では第2濠ので地表から20〜40㎝下に土中に埴輪列が確認されました。しかし第1濠では埴輪列は見つかっていない、と報告。

講演する徳田さん

こうした事項から考えられることは、①築造当初から埴輪列は存在していない②濠内の波浪の侵食などにより堤が崩れた際に、埴輪列も失われた③並べられた埴輪の間隔が広く、今回設定した調査区の範囲では、埴輪列が確認できていない──だが、今回の調査だけでは確定できないと判断した、と言います。
さらに今回の調査で第1堤の埴輪の個数は約7500本に達することや、この堤で発見された石敷遺溝で使用された石の量は全体で6.5万㎡と推定される膨大な量で、どこから調達したのかなどは今後の課題といいます。
そして考古学以外に都市工学や環境学など様々な分野から、仁徳陵の保全はもちろん、街づくりとの関係なども研究が必要と強調しました。

仁徳天皇陵(飛鳥史学文学講座レジュメより)

◆ 古代の重税感

2月10日に講演したのは、矢野名誉教授です。テーマは「古代日本の租税制度をさぐる」です。
矢野先生によると、古代の税制が明確に示されたのは大化の改新です。この時に本格的な行政組織や官僚組織が整備され、法律のもとで税の徴収が始まりました。この時の税制の方針は①戸籍・計帳をつくり、土地に人をはりつける「班田収授の法」を実施②約50戸を1里として里長を一人おき、賦役を課したり税の徴収③田1町ごとに絹などの布を課したり、代わりに塩や海産物を徴収④このほか様々な物品や馬、刀剣などの税も規定──などです。
こうして日本で初めて中央がコントロールする税制がつくられ、「民が国への納税者になった」と先生はまとめました。さらに具体的にどの程度の税率だったのかに言及。①すべての口分田に田租が賦課され、税率は収穫の約3%。この収入は地方行政費に充当②男子だけにかかる人頭税があり、年齢による差があった。一定期間、都で労働に従事③このほか年間60日などの労役④兵役もあり、年間10日ほど軍団で訓練を受けるほか、防人などとして赴任──と説明しました。結構な重税感があったことがうかがえます。
矢野先生は、武士団の発生で古代政治は終焉に向かい、江戸時代を経て中央集権体制や全国統一の租税制度の確立は明治にまで持ち越されたことなどを説明しました。

講演する矢野名誉教授

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