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教育後援会 会報編集部
全国初 関大の「飛鳥史学文学講座」 500回達成
考古学から理工系まで幅広い研究成果を網羅全国から延べ10万人のファンが参加

今年6月10日、関西大学飛鳥文化研究所と明日香村教育委員会主催の「飛鳥史学文学講座─やまと・あすか・まほろば塾─」が500回を迎え、宮内庁陵墓調査官、徳田誠志さん(関西大学文学部卒)による講座が行われました。43年前から始まったこの講座は、関西大学教育後援会が中心となって全国の考古学ファンらが集まる長期講座で、参加者は全国から延べ10万人を超え、同種の講座でこれほど大規模に長く続いている例はありません。本稿ではその講座の魅力やこれまでの経緯、ユニークな発表例などを振り返ります。

通算500講記念式典で挨拶する森本常任顧問

講座のレジュメはガリ版刷りによる手づくりでスタート

講座創設のきっかけとなったのは、1972(昭和47)年3月から始まった高松塚古墳の発掘調査でした。日本の文化財発掘史上、初めて極彩色の壁画が発見されたのです。1300年ぶりに鮮やかな白虎、青龍など四神と女子群像が浮かび上がり、トップニュースとして国内はもちろん、世界に発信されました。
発掘を指揮したのは奈良県立橿原考古学研究所所長の末永雅雄・関西大学名誉教授で、現場での発掘は網干善教・関西大学名誉教授(発掘当時、文学部助教授、翌年から教授)らが担当しました。その成果は国内で空前の考古学ブームを巻き起こしました。
その成果を生かして社会に貢献できたらと、当時の森本靖一郎・教育後援会幹事長(後の本学理事長、現教育後援会常任顧問)は網干教授や横田健一・文学部教授らと相談し、史学・文学・古代法制のほか理工系の研究分野まで広げた連続講座をつくろうと発案しました。この発想の背景には「開かれた大学」という考え方があり、学生だけではなく、広く市民の皆さんに貢献したい、という思いがありました。
講座は1975(昭和50)年からスタート。何もかも手づくりで、網干教授が謄写版(ガリ版)の原紙をきって講座のレジュメや案内状をつくり、それを森本幹事長が萬古(バンコ)謄写版で手刷りするという作業が続きました。
スタート後「飛鳥史学文学講座振興会」も結成されました。地元の三輪で老舗の製麺会社を経営する池田利次郎さんをはじめ、御崎芳太郎さん、加藤和子さん、飯島民行さんらがメンバーで、講座をバックアップ。池田さんはバスを提供して、近鉄の最寄り駅から会場の明日香村中央公民館まで聴講者を送迎しました。
節目の500回目の講座では、1975(昭和50)年の初年度から現在までずっと年間申込を続けている中野益男さんと福島敏雄さんに表彰状が贈られました。この日の参加者は160人。最も遠方からやってきたのは長崎県松浦市の澤井謙一さん(1973年・法卒)です。
澤井さんは長く松浦市役所で公務員として働き、数年前に退職しました。Uターン就職した澤井さんは、たまたま講座開始の1年後に創元社から出版された講義録『講座 飛鳥を考えるⅠ』を知りました。横田教授や網干教授のレジュメを読むうちに、仕事の合間をみて講座に出席するようになったといいます。関西大学とは700㎞離れた故郷で暮らす澤井さんですが、飛鳥講座に出席するときが「母校のにおい」をかぐ貴重な機会なのかもしれません。

500回記念講座陵墓調査の30年─仁徳天皇陵はどこまでわかったか─

仁徳天皇陵については宮内庁がこれまで保全のために様ざまな調査・研究を行ってきました。その中で徳田さんは「お濠の謎」「墳丘の謎」「出土品の謎」の3点について以下のように説明しました。

宮内庁陵墓調査官 徳田誠志さん

「お濠の謎」について

・仁徳陵は日本最大の前方後円墳。その長さは従来、486mとされてきた。しかし昨年度までの航空レーザー計測や濠内での音響測深、水際や墳丘側面での移動体計測のデータを精査。その結果、水面を基準にすると486mだが、濠底で測ると525mになることがわかった。

「墳丘の謎」について

・各種のデータから作成した仁徳陵の立体図を見ると、同じ堺市にあるニサンザイ古墳などと比べ、後円部などでかなりの崩落跡がわかる。その後円部には墳頂に近い部分にテラス状の細い平坦な面があり、崩落を防ぐ工夫かもしれない。
・一方、前方部の正面だけは崩落がなく、立体図には水平線が数本入っている。この線を現地の地形に照らし合わせると、丸い石を積んだ石列がある。石の間には埴輪の破片などがあり、石列は築造時ではなく、後世のものと考えられている。前方部では1872(明治5)年に土砂の崩落で石室などが発見された。現在、その痕跡は見られず、宮内庁が管理し始めた1887(明治20)年の前に修復された可能性が高い。

「出土品の謎」について

・米国のボストン美術館に、仁徳陵からの出土品と伝えられる大刀の柄頭や青銅の獣帯鏡など5点が所蔵されている。韓国の武寧陵から出土した同種の獣帯鏡は6世紀初めのものと見られているが、仁徳陵築造は5世紀中頃と考えられ時期がずれていることなどから、ボストン美術館の5点が仁徳陵の出土品である可能性は低い。

上空からの仁徳天皇陵(飛鳥史学文学講座レジュメより)

講座の魅力は豊かな研究成果─考古学から金属学、建築学まで

飛鳥での講座は、スタートした昭和50年代の爆発的な考古学ブームの波にのった格好ですが、講座内容の豊かさも見逃せません。だからこそ年間4000人(昭和50年代)もの市民が日本全国から参加したのです。当時、幹事長として講座を主宰した森本靖一郎常任顧問によると、考古学という分野に限らず、「飛鳥」という切り口で興味深そうな素材を探し出し、ありとあらゆる分野の教員に登場してもらった、といいます。その一部を紹介します。

江戸時代の日中秘話 ─享保年間に象がなぜ来たか─

(1981(昭和56)年11月、文学部・大庭脩教授)
1728(享保13)年6月、長崎に入港した唐船に象が2頭乗せられていました。2頭は歩いて700㎞離れた江戸に向かいます。将軍徳川吉宗の注文だったからですが、道中、様々な騒動を巻き起こします。大きな川を渡る象のために舟をつなぎ合わせた橋をつくれという指示が幕府から出されて地元の人たちが困った、というエピソードも残っています。大庭教授は「この時代の背景にはいろいろな興味ある問題が見え隠れする」と指摘しました。例えば、徳川吉宗はテレビでは「暴れん坊将軍」として登場しましたが、これが彼の実像なのか、虚像なのか。あるいは、江戸時代の日中関係は「鎖国」という観念を修正しなければならないほど密接であったのに、なぜ歴史の常識から消え去ったのか。こうした歴史の裏側を鋭く指摘するのが、教授の真骨頂だったようです。

東大寺大仏のなぞ

(1986(昭和61)年1月、工学部・亀井清教授)
教授は冒頭「私は宗教家でも歴史学者でもなく金属材料屋です」と自己紹介し、聴講者が興味を持つようなエピソードを次々にちらつかせながら、大仏さんの歴史に迫ります。
今の大仏は5代目ですが、初代の大仏さんは49歳のときに大病を患い、自分の重みに耐えかねて腰の辺りに裂け目ができ、頭が右斜め下に18㎝ほど傾きました。体重250tの大仏さんのなぜ頭が傾いたのか。そこで教授は意外な数字をはじき出します。それが「螺髪(らほつ)」です。仏さんの髪の部分で、カールしてねじれたような突起物のことです。教授の計算によると、この螺髪だけの重さが推定なんと5tだったといいます。「頭に5tもの被り物があれば、なるほど大仏さんも傾きはるわ」と聴講者は納得するわけです。金属学の教授だからこそ解説できた講座で、歴史学者ならこうは言えません。

黄金分割の美しさ ─ギリシャ芸術美の東漸と大和古寺等のたたずまい─

(1986(昭和61)年7月、工学部・山田幸一教授)
教授は開口一番、強烈な指摘で聴講者の心をつかみました。たとえばこんな具合です。「皆さん、ヴィーナス、パルテノン神殿のようなギリシャ芸術の均整美には定評がありますが、日本にも同じ美しさがあります。四天王寺の伽藍配置や北斎の版画にまで共通する〝黄金分割〟がそれです」。市民にはとっつきにくい「黄金比」という概念を持ち出し、ユークリッド幾何学の等式などを紹介しながら、日本の美に迫っていきます。飛鳥の講座で数式を持ち出し、まるで数学の講座のような話を転がしながら、日本古代の美を解説したのは山田教授だけです。
山田教授は土壁を塗る左官という仕事を、日本で初めて体系化し学問として成立させたユニークな学者として知られ、桂離宮の昭和の大修理など、超一級の文化財修理を次々に指導しました。京都の老舗の左官業を継ぐ立場だった人間が学問の世界に入ったという異色の経歴と、文化財修理の現場を指導した者の強みを、遺憾なく発揮した講座でした。

山田教授がレジュメで示した等式

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