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河内國平と関西大学 教育後援会会報編集部

現代の刀匠として最高位の一人、といわれるのが関西大学法学部出身の河内國平さんです。河内守國助から数えて15代目。絵に描いたような貧乏暮らしも経験しながら、500年ぶりに「幻の地紋」を復原した稀代の「技」と、それを可能にした情報収集力、ユニークな人柄と今も変わらない母校への熱い思いを紹介します。

大阪から車で2時間余り。奈良は吉野の里山に鍛刀伝習所を構えて44年。「県指定無形文化財保持者、日本美術刀剣保存協会〝新作刀展無鑑査〟、2014年に刀剣界の最高賞である正宗賞を受賞」という輝かしい経歴ながら、齢70をこえた今もハチマキ姿で1000度を超える地鉄を打ちます。
河内さんは学生時代から恩師に恵まれました。それも「超」のつく一流人ばかりです。上宮高校から二浪して関大法学部に進みました。「刀鍛冶では生活できない」という母親の強い反対で、サラリーマンの道を選んだのです。しかし血は争えません。刀剣の話題を通じて文学部の考古学の泰斗、末永雅雄博士とめぐり合いました。「日本上代の武器」などの大著もある博士の考古学にかける情熱と日本刀をめぐる博識に、河内さんは強くひかれました。いつのまにか河内さんは六法全書を放り出し、博士の研究室に入り浸り、砥石で土器磨きを教わっていました。

末永博士から足袋と下着

在学中にほれ込んだもう一人の師は信州の刀匠で人間国宝、宮入昭平氏でした。氏の著書を通じて知り、卒業と同時に弟子入りします。旅立ちの日、末永博士は千里山キャンパスの正門まで河内さんを見送り、「お前が修業を終えて帰ってくるまで生きていたい」と言って送り出しました。この超一流の学者はその後も、修業中の河内さんに足袋や下着などを送り、宮入氏をして「お前ほど幸せな男はいない」と言わせました。5年後、河内さんは独立し、奈良県東吉野村の現在地に鍛刀場を設けます。
3人目の師も人間国宝の隅谷正峯氏です。日本刀には5つの流派があり、そのうちの2つに、正宗に代表される「相州伝」と、一文字に代表される「備前伝」があります。河内さんが宮入氏から学んだのは「相州伝」、しかし40才のころから河内さんは壁を感じ始め、それを破るために、「備前伝」の隅谷氏に入門したのです。時に42才。吉野の仕事場を閉め、石川県へ妻と子ども4人を引き連れての、人生を賭けた入門でした。

息子4人の寝床は押入れ

6畳一間に親子6人、夫は無収入。妻はナショナルの販売店で働きました。小学校6年を頭に4人の息子は、押入れの上下2段にわかれて眠り、全員早朝に新聞配達をしました。当時幼稚園に通っていた4男の晋平さんはこう振り返ります。「自分の背より高い雪の壁を見ながら配達しました。将棋盤を買ってもらえないのでベニヤにマジックで線を引いて、ダンボールを切り抜いた駒を作ったら、ちょっとした風で〝歩〟が飛ぶのには参りました。勉強机はもちろんミカン箱で」。それでも河内さんはいいます。「あのころは楽しかったなあ」。ひょうきんな人柄で、どんな境遇でもしなやかに身を処し、周囲の人々から何かを吸収する生き方が、後の「奇跡の復元」につながります。

500年ぶりの「乱れ映り」

2年後、河内さんは出展作品で文化庁長官賞を受賞し、東吉野の鍛刀場に戻り、日本刀づくりに邁進します。その集大成が2014年の正宗賞受賞です。刀剣界の最高の賞といわれますが、太刀・刀の部門では「該当なし」で長く空席が続きました。この部門で正宗賞が出されたのは実に18年ぶりです(短刀の部門ではこの4年前に一人受賞しています)。刀の特殊な地紋を500年ぶりに復元したのが高く評価されたのです。
それは鎌倉時代から戦国時代までの名刀に見られ、その後姿を消した「乱れ映り」という特殊な地紋です。日本刀は戦国時代までの「武器」から、天下泰平の江戸時代には「美術品」としての要素も加わり、製法も変化したことなどから「乱れ映り」はいつのまにか姿を消しました。

類い稀な情報力

では一体、500年の時空を超えて河内さんはなぜ復元できたのでしょうか。それには氏の無意識の、それでいて類い稀な情報収集力が不可欠でした。どんな人からも何かを学ぶ。たとえば東京藝術大学の非常勤講師を務めたころ、校庭に転がっているガラクタにつまずいたら、後ろから女子学生が「センセー、私の作品です」。そんな学生からもたくさん学んだといいます。「コードなんかを売ってる電気屋さんか」と思った御仁が、日本の「香道」の第一人者だったので驚いた、というような挿話は山ほどあります。
そういう人脈の中から、「堺の包丁職人がたまにつくる日本刀に、例の乱れ映りがまれに出るらしい」という情報が飛び込んできました。早速その職人に会いに出かけ、さりげないやりとりの中で河内さんは貴重なヒントをいくつかつかみました。当の職人もそのことに気づいていたかどうか判然としない、微妙なやりとりだったようです。
こうして「刀鍛冶」一筋に歩んできた河内さんですが、母校との縁も深いものがあります。関西大学校友会の副会長、田中義昭さん(昭和43年・文学部卒)は20年近く前、知人を通じて河内さんを知りました。文化庁長官賞を受けて約10年。そんなすごい同窓生が奈良の山奥で鍛刀に励んでいると知った田中さんは、妻とマイカーで片道3時間の吉野の鍛刀場へ向かいました。火花の散る現場で弟子6人と一糸乱れぬ仕事を続ける河内さんの姿に、田中さんは感じるものがありました。

太刀 銘(表)河内守國助國平製之【無界】刻印 (裏)平成二十八年春映日 寺内俊太郎氏蔵 刀剣撮像:中村 慧

娘に懐剣

関西大学校友会副会長 田中義昭氏

その1年後。田中さんは長女の結婚を機に「娘のために懐剣を打ってほしい」と頼みます。歴史上、武家の娘が結婚するときに、嫁入り道具に懐剣を持たせた慣わしがあり、田中さんはこれを思い出したのです。河内さんの真摯な鍛刀作業を知った長女は、田中さんに「その刀鍛冶の方にはぜひ結婚式に出席していただけませんか」と頼みました。京都・下賀茂神社での結婚式はもともと身内だけでこじんまりと済ませるつもりだったのです。田中さんはこれ以外にも家宝として太刀をひと振り河内さんにつくってもらいました。校友会会長の寺内俊太郎さんも、本業の冶金業のノウハウを生かして河内さんを長年バックアップしています。今年5月には河内さんの乱れ映りが表さた太刀「薄雲」を、橿原神宮の神武天皇2600年大祭に合わせて奉納しています。本学法科大学院の大仲土和教授も後述の「研究会」の顧問に就任し、河内さんを応援しています。
河内さんのネットワークは現役の学生らにも及んでいます。昨年、河内さんが中心となって、「関西大学日本刀研究会」を創設されました。学生らが中心となって日本の伝統的な刀剣について研究を深めようという狙いで、この種の学生サークルは現在、日本の大学では唯一です。
今年も3月25日、千里山キャンパスで文学部の米田文孝教授も参加して開かれ、学生ら約10人が参加しました。若い男性は一人だけで、「刀剣女子」ブームのせいか、大半は女子学生でした。6月25日の関大博物館実習実践研修会でも約30人の参加者の半数は女性でした。

イチローのバット

関大日本刀研究会

いずれも冒頭で河内さんは「陳列ケースの刀剣を眺めるだけなく、ぜひ自分の手にとってその重みを実感してください」と話しかけます。氏によると宮本武蔵の太刀は1キロ余、大リーグのイチロー選手のバットと同じくらいという説明は、非常に具体的でわかりやすいものでした。
この研究会や研修会で氏は「僕は鍛冶屋やから」という台詞を何回も使い、実務家の立場を強調します。その一方で「日本の刀剣学はまだ確立されていない」と言い、「これからは地鉄(じがね)の研究をしたい」ともいいます。刀匠の修業と研究はまだまだ続きます。

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