1. TOP >
  2. 会報『葦』のご紹介 >
  3. 2015年秋冬号 No.162 >
  4. 関大野球部「100年の軌跡」と「79年目の奇跡」

関大野球部「100年の軌跡」と「79年目の奇跡」
教育後援会 会報編集部

関西大学には多くのクラブ活動が展開されています。2016年に創立130年を迎えるだけあって、多くのクラブやサークルに多様な伝統が塗り重ねられています。次にご紹介するストーリーはそんななかのひとつです。
創部100周年を迎えた関西大学野球部。その歴史に埋もれた戦前のハワイ遠征時のサインボール3個が2015年10月、79年の時空と太平洋6400キロを超え、本学に「奇跡のホーム・イン」をしました。この長い長いセンチメンタルジャーニーに縫いこまれた、日本とハワイ間のドラマと、学生たちの青春をのぞいてみましょう。
この奇跡は今年1月、ハワイの日本語新聞やラジオで流れた奇妙な「尋ね人」広告に端を発します。差出人はハワイ大学コミュニテイ・カレッジ名誉総長のジョイス津野田幸子さん(77)、探し相手は「こいで さぶろう様」でした。
関大野球部は1936年、ハワイに遠征しましたが、この時のエースだった西村幸生投手の長女が幸子さんです。西村投手は関大卒業後、大阪タイガース(現阪神)に入団、巨人キラーとして活躍しタイガースの優勝に貢献しましたが、太平洋戦争で戦死しました。津野田さんは若くして戦死した父親の足跡をたどるため、つぎのような広告を出したのです。

関大に「ホームイン」した
3個のサインボール
遠征メンバーの主将を務めた
西村幸生投手(写真左)
尋ね人
こいでさぶろう 様

2002年当時ニューヨークにあるPopulatyon Councilで黄熱病研究で有名な日本の野口英世博士の研究をなさっていたハワイ出身日系二世のこいでさぶろう(小出三郎)様の消息を御存知の方を探しております。
こいで様はPopulatyon Councilの仕事を通じて日本の関西大学とも交流があり、それ以前の幼少期の1936年には関西大学野球部がハワイで親善試合を行った際にバットボーイを務められ、関西大学野球部員18名が署名したサインブックを受け取っておられます。
こいで様との連絡がとれれば、当時のハワイに於ける野球事情を御伺いすると共に、是非とも関西大学野球部員が署名したサインブックを拝見させて頂きたいと存じます。と申しますのは私の実父西村幸生は当時関西大学野球部の投手兼主将を務めており、ハワイ遠征チームの一員としてサインブックに署名していることを関西大学事務局から知らされました。
父は関西大学から戦前の阪神タイガースのエースピッチャーに転じ、1944年応召、1945年4月、36歳の若さで戦場の露と消えました。役所からの死亡通知以外の遺品や遺骨もなく、出来ればこいで様にお会いして学生野球のエースとしてハワイでも活躍した父の往年の姿や、サインブックに署名された父の肉筆を是非拝見させて頂きたいと存じます。
お手数をかけますがご連絡いただければ幸甚に存じます。視聴者の皆様方のご理解とご協力の程、何卒宜しくお願い申し上げます。

ここで多少脱線します。
現代日本では尋ね人広告は、まずお目にかかれません。携帯電話やパソコンでいとも簡単にしかも短時間で、特定の人間を探すことが出来ます。しかし固定電話すら少なかった昭和30年代までは、新聞に載せる短い広告で、連絡をとりにくい家族や知人を探したり、関係者に意思を伝えました。たとえばこんな風に。

  • 「花子 解決した。安心してすぐ帰れ」
  • 「太郎 委細承知。何も心配するな」

これだけでは赤の他人にはさっぱり事情はわかりません。しかしわずかな文字情報なのに、妙に切迫した感じがリアルで、読む人は案外多かったのです。もちろん現代のハワイで津野田さんはネット上でも「こいでさぶろう様」を探したことでしょう。しかしノスタルジックでアナログな尋ね人広告が、ハワイではまだ「現役」であるという点に、今回の物語の別の興味深さがのぞきます。

話を戻します。

日本の私大野球部のハワイ遠征は、1905年の早稲田大学チームが最初で、ついで1908年の慶応大学チーム、これに法政、立教などが続きました。関西では関大チームが1933年と1936年の2回、ハワイで親善試合を行いました。1933年は関西6大学3連覇などした絶頂期で、遠征はそのごほうびだったようです。関大チームは2回目の遠征時に、世話になったバットボーイの少年に、お礼のサインボール3個とチーム18人のサイン帳を贈ります。津野田さんが探したかったのは、このバットボーイだったのです。

実は、このサイン帳のコピーだけは、尋ね人広告が出る13年前に関大に届いていました。しかし何人かを経由していたため差出人は特定できず宙に浮いたままでした。津野田さんがこのサイン帳の存在を知ったのは、2015年1月の関西大学野球部創部100周年記念式典に招かれた時です。「父はフイリピンで戦死したとされているが、遺骨も返されず、せめてハワイ遠征までした戦前の父たちの様子を知る人を探したい。このサイン帳を手繰れば、ハワイでの様子を知った人にたどり着くのでは」。そう考えた幸子さんは、少ない手がかりを元に前記の広告を作り、ハワイのメデイアに流したのでした。そして1ヶ月。「そのバットボーイは私だ」とニューヨークから名乗り出たのが、サミュエル・コイデ博士(93)でした。ハワイで生まれ育った野球少年で、長じて医師となり黄熱病研究などで優れた業績を残し、現在はニューヨークで活動しています。津野田さんの電話に博士はこう話しました。
「サインブックとサインボールは、ハワイの実家にいる私の弟が大切に保管していた。西村幸生投手は素晴らしいピッチャーだった。みんな彼の投球を見たがっていた。貴女のお父上たちのサインボールは、ホノルルのKoide家に79年間ホームステイしていたのですよ」
その後、長年大切に保管していた西村らのサイン入りボール3個を幸子さんに届けました。それが縁で幸子さんは博士から関大野球チームの活躍などを聞くことが出来ました。

関大チームが試合をした真珠湾近くの球場を訪ねたジョイス津野田幸子夫妻と妹のクリム洋子さん(写真左)

その活躍ぶりを当時の新聞などから再現しましょう。

1936年6月18日、秩父丸でホノルルに入港した18人は野球部長やマネージャーとともに宿泊先の山城ホテルまで自動車パレードしました。翌日から早速ホノルルスタジアムで練習を開始。その様子を当時の有力日系紙は次のようにレポートしています。
「純白のユニフオーム、胸にKWANSAIを黒く横に浮かせ、ベルトの黒いのも目を惹く、キャップも白、庇が濃青で頭文字のKがオレンジ色だ。ソックスは赤、黄、青の三色入り。芝生は苦手だと口々にいひながら、選手一同グラウンドを半周したのち…(中略)このチームは確かに打てる。練習を見ていてもヒット性の球をポンポン打っている」
ハワイの真っ青な空の下、緑豊かな芝のグラウンドで白と黒のユニフオームにカラフルなソックスで躍動する選手たちの姿が目に浮かびます。この遠征は約2ヶ月にわたり、精力的に試合をこなしました。ホノルルで6試合、オアフ島で9試合、ハワイ島とマウイ島で7試合の計22試合。戦績は20勝2敗です。とりわけ西村投手は投打に活躍しました。全登板23イニング中22奪三振、わずか2与四球の快投だったといいます。おまけに打率4割3分8厘とチーム2位の高打率でした。
連日地元の英字紙や邦字紙が報道しました。なぜなら当時の主要な産業、サトウキビ農園で働く多くの移民たちの間で、野球は大変な人気スポーツだったからです。精糖会社の社長が午後4時からの親善試合にあわせて、労働者の仕事を午後3時に終わるよう便宜を図ったり、観戦に向かう労働者たちを会社のトラックで運んだりしたそうです。

ハワイへ向かう秩父丸船上での記念写真
関大チームの遠征を伝える地元紙

ここで再び脱線します。

この物語の中心は野球ですが、登場するのは青春真っ只中の学生です。ロマンスも芽生えました。それに触れないわけにはいきますまい。その主役も実は西村投手です。津野田さんの話を元に再現します。
関大に進学後、彼は野球に情熱を傾ける一方で、勉学にも力を入れました。とりわけ英語に関心をもち、英会話も堪能でした。1933年の1回目の遠征でハワイ行きの船に乗り込んだ西村投手は、ちょうど日本からハワイに帰る途中の日系2世の末子さんと出会います。彼女は日本語が不自由でしたが、彼の英語力が十分に二人の隙間をカバーしました。
「それはそれは楽しい7日間の船旅でした」と後日末子さんは娘の津野田さんに語っていたそうです。
しかし2回目のハワイ遠征で乗り込んだ秩父丸船中。西村投手は「あの人はもう結婚しているだろうな」と、はたで見るのも気の毒なくらいしょげ返っていました。戦前のことです。携帯もパソコンもありません。通信手段に乏しい上に、若い二人が太平洋を越えて自由にその思いをやり取りできる時代の空気ではありませんでした。3年のブランクの間に、美人の末子さんが結婚したと西村投手が考えたのも無理ではありません。ところがホノルル港に到着直前の秩父丸に一通の電報が飛び込んできたのです。

  • 「ウエルカム ユキオ
          アウヒマツ スエコ」

西村投手の喜びようは想像に難くありません。実は1回目の遠征で関大チームが注目を浴びたため、2回目の遠征を前にハワイの邦字紙が「関大チーム近くハワイへ」と予告記事を掲載し、これを末子さんが読んで、すぐに自分の想いを電報の16文字に込めたのです。ハワイ到着後、西村投手はすぐにプロポーズし婚約しました。
翌年卒業した西村投手は阪神タイガースに入団。末子さんと結婚し、この年15勝3敗、防御率1.4で阪神の初の年度優勝に貢献しました。翌38年、阪神は2連覇し、この年、西村夫妻に長女の津野田さんが誕生しました。

西村投手の戦死と日本の敗戦。一家は一時移住した満州から引き揚げ、末子さんの実家のあるハワイに移住します。津野田さんはハワイ大学で長く教鞭をとりましたが、現在は千葉の大学でも英語教育に従事し、日本とハワイを往復する生活です。

関大野球部の創部100周年を記念した展覧会が10月から2016年3月末までの間、千里山キャンパスの簡文館で開かれています。津野田さんは展覧会当初、記念のサインボール3個を展示会に持ち込み、楠見晴重学長とも歓談しました。その折、津野田さんは6歳だったとき、戦地に赴く父親を見送った際の情景を語っています。
私は「お父ちゃん、バイ、バイ!」と大声で叫びました。父親は振り返りませんでしたが、右手の拳を高々と上げて応えてくれました。野球のプレイ・ボールという言葉には、正々堂々と最善を尽くして戦え、という意味がこめられています。右手を高くあげたのはそういうメッセージを父が込めたのだと思います。
プレイ・ボール─。創立から130年たっても衰えることのない関西大学のチャレンジ精神を、野球部の展覧会でも感じ取れます。

3つのサインボールを楠見学長に託す
津野田さん

会報『葦』のご紹介