「AIをつかった機械翻訳が発達しているから、翻訳を勉強しても無駄になりませんか?」こんな質問を学生さんから受けることがあります。オンラインで無料でつかえるAI機械翻訳の性能が最近ぐっと上がっていることは、皆さんご存じでしょう。外国語や翻訳の学習意欲が萎えるのも無理はありません。
でも、答えは「ノー」です。最近の機械翻訳は「流ちょうな」訳ができるようになりました。しかし、その流ちょうさのうらに「意味の間違い」が潜んでいることがあるのです。でも、それに気づくことができるのは、人間の翻訳者だけ。それも、機械以上の外国語能力を身につけたうえでテクストの文脈や文化的背景を感じ取り思索できる優れた翻訳者だけです。
「看護師」という単語をドイツ語に訳すとき、女性看護師のKrankenschwesterなのか、男性看護師のKrankenpflegerなのか、機械には分かりません。テクストの外にある状況を考慮できないからです。また名詞に性がない英語でも、次に来る文でその看護師をHeで受けるのかSheで受けるのか、やはり文脈が分からないと訳せません。
私の翻訳ゼミの学生に目指してほしいのは、機械に負けない翻訳者になること。そのために必要なのは、まず高い外国語能力と母国語能力を獲得すること。そのうえで、翻訳の基礎もきちんと学ぶこと。授業では翻訳のためのテクストの分析方法や、「効果的な翻訳とは何か」という概念も探求します。また、産業界でよく使われる翻訳支援ソフトも体験して、プロの翻訳プロセスも理解できるようになります。
私は翻訳テクノロジーが翻訳者に与える社会的・心理的影響について研究しています。翻訳者の仕事は、原文を一から訳す従来型の仕事から、機械が訳したテクストを修正・編集する新しい形態の仕事(ポストエディット)に変わりつつあります。これによって、翻訳者の労働意欲や社会的地位はどう変わるのか。翻訳の未来では機械と人間の共存がどんな形をとっていくのか。まだまだ分からないことはたくさんあります。しかし、ひとつ分かっているのは、これからの時代、機械翻訳程度の語学力ではプロの翻訳者として通用しないということ。厳しい言い方になりますが、機械翻訳がおかす間違いに気づけない翻訳者は、淘汰されていくでしょう。やはり基本となるのは語学力。そして翻訳という営みに対する理解。デジタル社会でいきいきと活躍できる翻訳者になるためには、人間翻訳の強みと機械翻訳の限界をきちんと理解したうえで翻訳を学んでいく必要があるのです。
私が研究している「翻訳学」は欧州発祥の比較的新しい学問です。日本では外国語学習や文学研究の一部に翻訳の勉強が入っていることが多いですが、翻訳そのものを研究対象とするのが「翻訳学」です。小説の翻訳、映画の翻訳、仕事で使える翻訳。どんなジャンルでも構いません。翻訳が好きな学生さんには、ぜひ翻訳の世界を探求して、デジタル時代に活躍できる翻訳者を目指してほしいと思います。