コラム

第14回 2013/12/24

大阪城とオーストリア

大阪城天守閣研究主幹/センター研究員
北川 央

写真1

 ガラシャが最期を遂げた細川屋敷の台所の井戸
と伝えられる大阪市中央区森ノ宮中央2丁目の越
中井。脇に立つ石碑には「散りぬべき 時知りてこ
そ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」というガラ
シャの辞世和歌が刻まれる。

 慶長3年(1598)8月18日に豊臣秀吉が亡くなり、秀吉から遺児秀頼の傅役を命ぜられた前田利家までも翌年閏3月3日に亡くなってしまうと、豊臣政権内部の対立が一気に表面化し、慶長5年9月15日に美濃国関ヶ原で徳川家康率いる東軍と石田三成ら西軍が激突する。この関ヶ原合戦に先立つ同年7月17日には、東軍に与した細川忠興の正室ガラシャ(玉子)が、石田三成に人質とされるのを拒み、大坂城下玉造の細川屋敷で非業の死を遂げている。

 熱心なキリスト教徒であったガラシャは、キリスト教では自殺が許されないため、家老の小笠原少斎に喉を突かせ、最期を遂げたのであるが、極東の異教徒の国でキリスト教に深い理解を示したガラシャの生涯は、イエズス会宣教師たちの報告によってヨーロッパに伝えられ、その実話に基づき、1698年には神聖ローマ帝国(ハプスブルク帝国)の首都ウィーンで、「タンゴ・グラーチア(丹後のガラシャ)~勇敢なる貴婦人~」というオペラが制作・上演された。当時人気のシュタウトが作曲したこのオペラは、ハプスブルク家の女性たちの間で大いに人気を博したと伝えられる。オペラの楽譜は1990年にウィーン国立図書館のハプスブルク家資料の中から発見されている。

写真2

 大阪城天守閣所蔵の色々威
二枚胴具足。これと瓜二つの
具足がインスブルックのアン
ブラス城に所蔵される。

 また、インスブルックのアンブラス城には大阪城天守閣が所蔵する色々威二枚胴具足とほとんど同じ具足が所蔵される。「日本の皇帝」からハプスブルク皇帝に贈られたもので、同種の具足は大阪城天守閣とアンブラス城所蔵のものも含めて現在14領確認されている。江戸時代には、名古屋城小天守2階に16領が保管され、豊臣秀吉近習16騎の具足と伝えられていた(「金城温古録」)。名古屋城に伝わったのは、徳川家康の遺産分配でこれらの具足が尾張徳川家のものとされたからであるが、アンブラス城所蔵の一領については、名古屋城で保管される以前にハプスブルク皇帝に贈られたものである。秀吉にも家康にもゆかりがある具足だけに、ハプスブルク皇帝への贈り主である「日本の皇帝」についても秀吉と家康の二説がある。

 グラーツのエッゲンベルグ城で「豊臣期大坂図屏風」が発見されたことから、大阪城とオーストリアの関係がにわかにクローズ・アップされたが、「豊臣期大坂図屏風」だけでなく、ガラシャのオペラといい、アンブラス城の具足といい、大阪城とオーストリアとは何かと縁が深いようである。

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