研究活動

【公募研究班】甘樫丘遺跡群の基礎的研究-発掘調査の成果を中心に-

研究代表者 井上 主税 文学部・教授
研究概要

 本研究は、飛鳥に所在する甘樫丘遺跡群を対象とし、発掘調査を通じて得られた資料のほか、『日本書紀』などの文献史料にみられる記録などをもとに、本遺跡の性格や歴史的な意義について考察することを目的とする。
 発掘調査を通じて、飛鳥時代に権勢をふるった蘇我氏一族に関する資料が確保されれば、この時代の研究においては非常に大きな意義をもつ。また、飛鳥地域では墳墓や寺院、宮殿を対象とした研究が中心であったが、これに邸宅という新たな研究の進展も期待される。
 なお本学と明日香村は、2020年9月に学術・文化交流の更なる深化を目指して、「学術・文化交流に関する覚書」を締結しており、本研究はこれに基づいて明日香村教育委員会との共同研究という形で推進する。

①研究代表者と研究分担者で研究方法の確認と、発掘調査の予定について協議し共有化を図る

②本学考古学研究室に所属する学部生、大学院生が発掘調査に参加する

③遺跡の発掘調査にあわせて、研究代表者と研究分担者で現地を複数回視察。検出した遺構や出土遺物についての意見交換を行い、遺跡の時期や性格について検討する

④2023年2月に、2か年の研究成果の取りまとめを行う。また本研究期間終了時点で、甘樫丘遺跡群の共同発掘調査は2か年分を残しているため、今後の研究推進について外部資金の獲得も視野に協議する

研究分担者

西本 昌弘  文学部・教授

長谷川 透  明日香村教育委員会・主任技師

研究期間 2021年度~2022年度(2年間)

研究成果概要

奈良県高市郡明日香村に所在する甘樫丘は、『日本書紀』によると、允恭天皇の時代に古代の神判法のひとつである盟神探湯神事が執り行われたとされる。そのほか、甘樫丘には蘇我蝦夷・入鹿が邸宅を構え、蝦夷の館は「上の宮門」、入鹿の館は「谷の宮門」と呼ばれ、飛鳥時代前半期における蘇我氏の一大拠点であった。
かつて、甘樫丘の東南部で発掘調査が行われ、7世紀代の大規模な整地層と焼土層、石垣、掘立柱建物跡が確認された。しかしながら、この発掘調査では核となる大型建物跡が見つからず、「宮門」に相応しい遺構は確認されなかった。また、甘樫丘東麓遺跡から北東に約500mにある小さな谷には小字「エベス谷」という地名が遺存し、「エミシ谷」から「エベス谷」への転訛も推察され、蘇我蝦夷の邸宅は「エベス谷」周辺とする説が浮上してきた。
2021~2022年度の発掘調査は、この「エベス谷」周辺で発掘調査を実施することで、甘樫丘の歴史的変遷と実態を明らかにし、飛鳥時代前半期の蘇我氏の動向を探るとともに飛鳥地域を一望できる甘樫丘を飛鳥時代史に位置付けることを目的としている。
2021年度は、東西に延びる谷の北側に取りつく2本の小支谷に調査区を設定した。調査区は東側の小支谷に3箇所(高所から1・2・3区)、西側の小支谷に1箇所(4区)設定した。調査総面積は163.25㎡である。
この調査では、2本の小支谷において、飛鳥時代後半を中心とする大規模な造成跡と土地利用を確認した。東側小支谷では、谷筋を大規模に埋め立てて平坦地を造り出した造成跡を確認した。具体的な遺構として、大型石列や石敷を確認し、一部柱穴も確認した。遺物は造成土内に大量の土器が一括で投棄された状況を確認し、その時期は7世紀後半から末を中心とする。また、西側小支谷では、谷を埋めた整地土の上面で古代の柱穴を多数確認した。トレンチ調査の為、柱穴の性格は不明であるが、未調査部分に遺構が展開することが十分想定される。この調査区では出土遺物が少なく、遺構の時期は特定できないが、古代の柱穴とみて差し支えない。
2022年度は、前年度に発掘した4区を拡張し、平面的な調査を実施した。調査区は、東西15m、南北14mの本調査区とその北側に東西3.5m、南北8.0mの拡張区を設定し、調査総面積は240㎡である。検出した遺構には、総柱建物、石列、柱穴、土坑、炉跡、焼成遺構、木棺墓、砂溝、素掘溝がある。遺物は、土師器、須恵器、黒色土器、瓦器片、陶磁器片、鉄釘、鉄滓、不明金属器が出土した。
総柱建物は南北3間、東西2間以上の規模で、柱掘形は大きいもので130㎝、柱間は掘形芯々で南北約180㎝、東西約210㎝であった。掘形底面には根石のために拳大から人頭大の石を敷石のように敷き詰め、柱掘形埋土には人頭大の石を根固めのために数個充填するなど手の込んだ造りとなっている。柱抜き取り穴から7世紀後半の土器が出土し、建物が飛鳥時代後半頃に造られたものとわかる。また、石列は、調査区の北と南で東西方向に2条確認した。総柱建物と同じく周辺の地形に合わせて延長するため、近接した時期に造られたものと考えられる。また、木棺墓は1基確認し、鉄釘と10世紀頃の黒色土器椀が出土した。
本調査により、甘樫丘に取りつく小さな谷において、飛鳥時代後半頃の造成跡と遺構の展開、古代における墓地空間としての利用を確認することができた。
研究期間全体の成果として、蘇我氏の邸宅と関連する遺構は確認できなかったが、蘇我本宗家が滅亡した乙巳の変後、飛鳥時代後半を中心とする大規模な造成跡と土地利用の状況が確認できた。なかでも、総柱建物は南北3間、東西2間以上の規模で、柱掘形は大きいもので130㎝を測り、大型の倉庫となる可能性が高い。
2023年度以降は、なにわ大阪研究センター公募研究班(「甘樫丘遺跡群の変遷と土地利用に関する研究-発掘調査の成果を中心に-」)として、引き続き発掘調査を実施して甘樫丘遺跡群に関連する研究を進める予定である。

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