なにわ大阪と本山彦一 ―大正期大阪への貢献と本山考古室―
研究代表者 | 米田 文孝 文学部・教授 |
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研究概要 | 本研究では3つの領域の研究成果を総括して、「なにわ大阪と本山彦一 ―大正期大阪への貢献と本山考古室―」を明らかにする。
実施内容は以下のとおりである。
第2領域 「本山彦一の社会事業と富民協会農業博物館、本山考古室」
第3領域
「本山彦一の大正期近畿地方先史時代遺跡調査」
大阪に根ざした関西大学から行うこの研究によって、その一端を明らかにして、本山彦一の人物像を新しく描き直すとともに、本山を通してその舞台である大正期大阪にも視点を広げることを期待する。 |
研究分担者 | 米田 文孝 文学部・教授 小倉 宗 文学部・准教授 井上 主税 文学部・准教授 山口 卓也 関西大学博物館・学芸員 佐々木 泰造 元毎日新聞専門編集委員 徳田 誠志 宮内庁書陵部陵墓調査官 |
研究期間 | 2018年度~2019年度(2年間) |
研究成果概要
関西大学博物館の考古学資料「本山コレクション」は、本山彦一(1853-1932)によって大正から昭和初期に蒐集された。本山は、明治36(1903)年に大阪毎日新聞社第5代社長に就任、昭和7(1932)年に死去するまで務め、大阪で有力な言論人として新聞社を経営する傍ら、広く殖産興業や農業振興、皇陵巡拝運動、慈善活動などを主催した啓蒙的財界人であった。大正年間から昭和初期には旧制大学昇格を目指す関西大学の評議員も務めた。この頃の本山は、大正から昭和初期の新聞社の経営者として言論界、経済界から、さらに皇室崇拝という側面から、さまざまに研究、評価されてきた。しかし、個別の業績や成果は、それぞれの分野で取り上げられてはきたが、総合的にそれらが有機的に結びつけての研究は十分ではなく、今も、芯となる本山彦一本人の姿自体が明らかとなったとはいえないのが現状である。
私たちは、なにわ大阪、関西大学と博物館の蔵する本山コレクションという視点から見た本山彦一という人物像を、多角的総合的に視野を広げて理解したいと考え、当時の大阪の経済的、社会的状況をふまえ、本山の行った社会事業、殖産興業農業振興、本山の設置した富民協会と農業博物館、さまざまな学術振興、農業博物館に設けられた本山考古室、関西大学博物館に引き継がれた「本山コレクション」を調査した。文化財学、考古学、博物館史、建築史、大学史からの研究を行ない、大きく3つの領域「大正期大阪と本山彦一、大阪毎日新聞、関西大学」「本山彦一の社会事業と富民協会農業博物館、本山考古室」「本山彦一の大正期近畿地方先史時代遺跡調査」から、いままで断片的に評価されてきた本山彦一像を眺めて、新たな人物像に再構築して示すことを目指した。
調査研究の成果として、研究成果報告書に収録された報告によって、本山彦一が精力的な活動を行った慈善活動や学術研究支援、自ら財団法人富民協会を設立しておこなう農業振興や産業博物館「農業博物館」の設立にいたる活動が解明できたことがあげられる。また、本山の思想的背景として、近代的な合理主義が、福沢諭吉の慶應義塾で学んだこと、義塾出身者との交流の維持から育まれたものであろうことが示唆されたこと、特に農業博物館という構想には、九鬼隆一帝國博物館総長との長きにわたる「伏流」が影響を与えた可能性があることは、本山彦一の人物像の重要な発見となった。
富民協会農業博物館
農業博物館雄展示
羽衣本山邸・農業博物館遠景