エジプトの文化財

エジプトの経済危機が文化財に重圧をかける2016年9月2日

「エジプトは経済危機のため古代の埋蔵品の研究はおろか、博物館を維持する余裕さえない」と、考古大臣が述べた。

ギザのピラミッドからルクソールの王家の谷まで、多くの有名な史跡を持ち、エジプト経済の頼みの綱である観光業は、ホスニ・ムバラク氏を失脚させた2011年の革命以降強い打撃を受け、外国人観光客の減少に苦しんでいる。
 「私たちは1月25日の革命以後に閉館した20館以上の博物館を所有しているが、それらを運営するための財源がない」と、ハーレド・エル・エナニー氏はロイター通信社のインタビューに答えた。

考古省は自給自足で運営し、国家予算からの財源を受け取る予定はなかった。2010年考古省の収入は年間10億3000万エジプトポンド(1億4640万USドル)であったが、2015年の収入は2億7500万ポンドに下落した。
 「収入は月に2000万ポンドをわずかに超えるだけである。私は給料だけで月に8000万ポンド支払わなければならない。」
 エナニー氏は、「観光業の復興がない限り、博物館や史跡の紹介や開館時間の延長といった新しいプロジェクトにはいずれも望ましい効果がないだろう」と述べた。 紀元前24世紀の中頃、9代目にして第五王朝最後の王、ウナスのために建設されたピラミッド複合体の再開館についても同様のことが言えるであろう。
 「それでもやはりエジプトは、2017年に大エジプト博物館、すなわち大望を持って計画された、世界一大きな考古学博物館となる古代エジプト文化財博物館の部分的な開館を計画している」とエナニー氏は開館の予定日を一年後まで繰り上げて述べた。 これは単なる可能性である、なぜなら数年前には、日本による24億8000万USドルの借款が必要であったからだ。

経済難は発掘の試みにも影響を与えており、2011年以降、急激に減少している、とエナニー氏は述べた。他にも、他国から密輸された、あるいは以前の植民地時代の国々の支配者に獲得されたエジプトの文化財の返還を主張する国際法学者が不足 しているという問題も省内で起こっている。また、密輸に対抗するため、文化財を集約したデータベースを作る必要性や、2000年以降盗まれてきた文化財に対する努力の問題もある。

3月のエナニー氏就任前、前任者はイギリスのエジプト学者ニコラス・リーヴス氏の、ツタンカーメンの墓の後ろに存在する可能性がある女王ネフェルティティの失われた墓があると信じられている仮説調査を支持していた。 エナニー氏はこの件については冷静な立場を示している。
 ネフェルティティは紀元前14世紀に亡くなり、ツタンカーメンの継母であるとされている。彼女の墓の確認は、今世紀最も注目すべきエジプト考古学上の発見である。 先の11月に現地で終了したレーダースキャン分析はツタンカーメン王の墓にある2つの壁の後ろに2つの空間が存在することを明らかにした。
 前考古大臣のマムドゥーハ・エルダマティー氏は11月に「90%の確率で壁の後ろに何かがある」と述べ、リーヴス氏は、巨大な墓は本来ネフェルティティのものであり仕切りの壁の後ろに彼女が葬られている、と考えている。 しかしながら、壁の最も小さい開口部は何年間も密閉状態にあった墓内部にダメージを与える可能性がある。「二回目のレーダースキャンが、空間は100%存在することを示した時に限り、私は墓を公開するつもりである」と、エナニー氏は述べた。  


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アスワンにおける新発見、第12王朝において重要な女性の埋葬場所の発掘2016年5月24日

クベット・エル・ハワ(西アスワン)のネクロポリスで実施された、アレハンドロ・ヒメメス・セラーノ氏によるスペインのハエン大学の発掘作業中に、第12王朝(中王国期)の「セトチェニ」という名の女性を中に埋葬した2つの木棺が発見された、と考古省古代エジプト部門の責任者であるマフムード・アフィーフィ博士が発表した。

博士は次のように述べている。「本発見は歴史的な重要性を持つ。なぜならばセトチェニは中王国時代の中でも最も重要な人物の一人であり、アメンエムハト3世治世下におけるエレファンティネ最高権力者の二人、ヘカイブ3世とアメニ・セネブの母だからである。」

アスワンとヌビア地域の最高責任者は、遺体は当初リネンで包まれており、レバノン杉で作られた二つの木棺に収められていた、と付け加えた。また、彼女の顔を覆っていたカルトナージュ製マスクの残骸も記録された。木材が切られてから悠久の年月を経ても、棺の中は非常に良好な状態である。

ヒメメス博士は、セトチェニは地方の小国の重要人物であったと説明している。彼女は州侯サレンプト2世の娘であり、一族全ての男性の死後、エレファンティネ唯一の継承権保有者となった。

スペイン(ハエン大学)の調査は2008年から行われ、その年に様々な時代の無傷の埋葬地を発見した。中でも、注目すべき発見はセトチェニとヘカイブ3世のものである。 


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第2回国際ツタンカーメン会議の成果2016年5月9日

「ルクソールの王家の谷におけるツタンカーメンの墓においては、様々な技術的・科学的方法や他のレーダー装置といった器具を用いて、更なる捜査を実行することが重要である。」という勧告は、大エジプト博物館で開催された第2回国際ツタンカーメン会議で採択されたうちの一つである。

カーレド・エル・アナニー考古大臣は、会議の最後に行われた科学的な公開討論において、後ろに空洞があると100%の確信がない限り、墓の壁には穴が一切開けられることはない、と強調した。最後の会合にはエジプト学やレーダーの専門家が参加し、その中にはザヒ・ハワス元考古大臣やマムドゥーハ・エルダマーティ前考古大臣、日本のレーダー専門家である渡辺博士、カイロ大学技術学科のヤーセル・エル・シュエイブ博士といった多数のエジプト人考古学者や関係者の姿もあった。

ハワス氏は講義の中で、レーダー走査はそれだけでは考古学上の発見に対して決め手に欠けると述べ、ネフェルティティの墓がツタンカーメンの墓の後ろにあるとする、イギリス人考古学者ニコラス・リーヴス氏に反対する立場を強調していた。加えて彼は、考古学者やレーダーの専門家からなる科学的な委員会を設け、墓内の作業監督として遠隔探知の専門家を直ちに育成すべきであるとした。

マムドゥーハ・エルダマーティ前考古大臣もまた「ツタンカーメンの墓における再発見」と題した講義を行い、その中では黄金のファラオの墓で行われたレーダー走査の全作業工程が要約され、50%の確率で墓の壁の後ろには空洞があると指摘する結果であった、と示された。

前後に関連し、大エジプト博物館計画の最高責任者であるタレック・タウフィク氏は、本会議での推奨によって、光や振動に弱くもろい「黄金のファラオ」の工芸品を移送するためのロードマップを、海外の研究者の協力を得て作成することを目的とするエジプト考古委員会の成立に至った。昨年設立されたツタンカーメン研究センターもまた、少年王に関連する全ての研究や調査の出版が、ホームページの開設と共に規定されるだろう。 


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考古省がカイロ考古博物館での有料の撮影を許可2016年2月22日

カイロ考古博物館長カーレド・アナニー氏は、「ツタンカーメンやミイラの展示室以外での観光客による写真撮影は、エジプト人、外国人にかかわらず、一律50エジプトポンドの料金がかかる」と述べた。しかし、テレビCMやドキュメンタリー映像の撮影の場合は考古最高評議会の規則に従うと発表した。また、カイロ考古博物館で無料撮影できる日は1月7日が最後であったと述べた。


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なぜエジプト考古省はカイロ考古博物館での撮影を禁止したのか2016年2月15日

エジプト考古省はカイロ考古博物館での撮影の許可を発表したが、数週後、撮影が禁止になった。エジプト考古省により、平成28年1月7日が博物館で写真が撮れる最後の日となった。

博物館での撮影許可のおかげで観光客は増えた。しかし、再び撮影が禁止にされると、観光客が減るおそれがあるため多くの人が不満に思っている。

カイロ博物館長カーレド・アナニー氏によれば、悪天候にもかかわらず、博物館を訪ねる観光客が増加した。アナニー氏は、撮影が許可されてから、エジプト人や外国人を含め一日約2000人の観光客が訪ねたと述べた。毎日、観光客は増える一方である。さらに、観光の活性化のために初めて展示される遺物の特別展も開催した。

エジプト考古大臣の顧問ムハメド・エルシガー氏は、「撮影のフラッシュは遺物や絵の色に悪影響を与える。また、写真の著作権は国のものである。理由を明らかにした学術的な調査隊には写真を撮る許可を与え、その代わりに一定の料金を払わせる。誰でも写真を撮ることが出来たら、国の著作権がなくなる」と述べた。

エルシガー氏によると、エジプト考古省が期間を決めて博物館での撮影を許可することには二つの目的があった。第一は、観光を支えることで、特にロシアの飛行機墜落事件はエジプトに悪影響を与えた。第二に、修復後に再展示されたツタンカーメンのマスクが無事だというメッセージを伝えることであった。エルシガー氏は博物館で撮影を許可する試みが成功したため、時折博物館での撮影を許可することを検討していると述べた。

観光省のアルアシマウィ・アイマン氏は博物館で撮影を許可する試みの成功を評価し、検討した上でもう一度行う可能性があると述べた。今回のように今後も成果を上げ続けるために新しい方法を見つけると述べた。

管理者達が今回の試みを検討する際には、様々なアイデアの選択肢がある。例えばカメラのフラッシュが遺物に悪影響を与えない場所のみ撮影を許可したり、あるいは、時折撮影の許可を与えるなどである。管理者達はエジプトの博物館の遺物の場合は、50%以上はカメラのフラッシュに影響されないと述べた。


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カルナックにおけるセティ2世の修復作業を休止2016年1月27日

行政審査機関は、最近の解体作業で台座が破壊されたセティ2世の立像の修復作業を中断し、立像と修復作業の状況を報告するために考古学者の委員会の招集を命じた。

ルクソールの政党や住民グループは客観的な報告が行えるように、ギザの考古学者による委員会を解任し、中立的なエジプト国内の大学の考古学者による委員会を招集し、解体の際に破壊された部分がある立像の状況を報告するように要請した。同グループは、記念物保存修復中央本部本部長ガリプ・ソンブル氏の会見を批判した。この会見は、行政審査機関の捜査中に行われ、会見の中でソンブル氏は、立像の解体や台座の破壊を否定している。

ルクソールの行政審査は、エジプト考古省の許可を得ずに古代エジプトのセティ2世の立像の解体作業を行い、台座を破壊したという報告を受けて始まり、捜査が続いている。報告によると、2015年11月11日に考古学者が、セティ2世の立像を修復するために立像を解体し、台座を修復する代わりに破壊したとのことである。それは破損した他の立像の断片を収集し、修復に失敗したことを隠すために行われた。また、立像の解体作業は必要な許可を得ずに行われていた。

ルクソールと上エジプト地方の考古遺跡の監督官であるスルターン・イード氏は、報告の内容を否定した。イード氏によると、1925年から立像の台座として使われている部分に損傷があり、立像が倒れかけていたとされる。そして、ルクソール神殿の修復管理官から立像に危険が迫っているという報告があった。イード氏は、考古学者や修復の専門家の委員会を設立した。委員会はセティ2世の立像を保護するための計画を立て、立像を修復するための解体を決定した。立像の状態は月に一度だけ開催されるエジプト考古省外国隊部門、パーマネント・コミッティーの許可を待つ猶予がなかったとしている。


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直近のオランダにおける研究成果~ファラオ時代の文字は世界最古のアルファベットである~2016年11月6日

オランダ、ライデン大学の考古学者、へリングの新しい研究において、世界最古の手紙(前アルファベット)が発見された。これらの文字は発掘現場において、前8世紀にさかのぼるエジプトの陶磁器の破片から発見された。

注目すべきことに、これらの遺物は20年以上前からルクソールの西で発見され、そしてその欠片は、イギリスの考古学者ナイジェル・スタッドロークによればトトメス3世の治世に生きていたとされる、セン・イフェルの墓で発見された。またこの研究は、壊れた陶器類にアルファベットがヒエラティックで書かれたことを示している。それは不完全なものではあるが、これらの言葉が3,000年前にまで及ぶ一貫した筋書きがあることを示している。

考古学者のハリングは、その原文が今日まであいまいなままであるとし、象形文字を解読することで古代エジプト人のアイデンティティを見つけ出そうとしている。彼によれば、左側の記号が言葉の省略を示すことから、これらの文字は右から左へ読むべきであり、これはアルファベットの記号の一つである。

また、彼はアルファベットの語順の基本的な概念が、すでに紀元前8世紀にはエジプトに存在したと強く主張しており、碑文がシナイ砂漠や南エジプトにあり、それらが明らかにヒエログリフの影響を受けたものであると考えている。


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考古大臣がツタンカーメンのマスクの修復計画を発表2015年10月23日

エジプト考古大臣、マムドゥーハ・エルダマーティー氏がツタンカーメンのマスクの修復についての今後の計画を、修復を担当する科学委員会の臨席のもとでメディアに発表した。

考古大臣は、マスクが新しい展示ケースに入った状態で再び展示される予定であると強調した。さらに大臣は、修復プロジェクトの費用がドイツのエジプト学研究所によって、提供されていると加えた。

プロジェクトの一段階の指揮をとるドイツの修復家、エックマン氏によれば、このプロジェクトは3段階に分けられている。すなわち修復の準備段階、技術研究と歴史研究に基づくマスクの複合的研究の段階、そして髭の再度取り付け段階である。

彼はまた、以下のように述べている。「このプロジェクトは、個々の目的を伴う小さなグループを含んでいる。例えば保存修復グループは、科学者と考古学者によるグループであり、彼らは材料の研究と、科学的で正しい方法によるマスクの修復についての説明を目的としている。」

大エジプト博物館の責任者であり、プロジェクトの科学委員の1人であるタウフィーク氏は、「プロジェクトのメンバーは、完全な保護を確証づけるためのマスクの修理部分の安全な作業と、安全な移動のためのテンプレートを作った」と述べた。


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古代エジプトにおける前立腺癌の最古の事例を持つミイラ2015年8月3日

約2250年前のエジプトで、今日「M1」というミイラとして知られている男が、長期に及び、苦痛を伴う、進行性の病気と闘っていた。鈍い痛みが、彼の後背部でずきずきと痛み、大抵の動きに苦痛を生じさせながら彼の体の別の部位へと広がった。最終的に、51歳から60歳の間にM1が不可解な病気に屈した時、彼の家族は、彼が生まれ変わり、来世の快楽を楽しめるよう、彼をミイラ化するための支払いをした。

国際的な研究チームが、何がM1を悩ましていたのかを調査分析している。さらに、The International Journal of Paleopathology(国際古病理学雑誌)の最新の研究は、「直径1~2㎜の腫瘍の発見を可能にする高解像度のCTスキャナーが2005年に利用できるようになったばかりであるため、以前の研究者は古代の人口における癌の罹患率を過小評価したのかもしれない」と提唱している。

リスボンの国立考古学博物館の収蔵品の3体のミイラを高解像度スキャンした後、M1の下腹部や腰椎と同じように、上腕や脚骨にも、多くの小さく、丸い、高密度な腫瘍が見つかった。これらは、一般に転移性の前立腺癌によって影響を受けた領域である。研究に参加していないドイツの古病理学者は「転移性の前立腺癌の1つの事例であることを認めたい」、「これは立派になされた研究である」と述べた。

研究者たちは、骨格内の癌や、古代の死者の肉体をミイラ化した証拠を明らかにするために長い間苦心してきた。しかし、古代の人々の癌の記録された事例は稀少である。実際に、1998年にThe Journal of Paleopathology(古病理学雑誌)で発表された研究は、数万の調査された古代人の中で、たった176の骸骨の悪性腫瘍の事例が報告されたことを算出した。その少ない事例は、発癌性物質が食品内や環境によって広まった事や、人々が長寿になった近代の産業化時代に癌が広まったという学説を生み出した。しかし、イタリアの生物人類学者は、「古代の人々は、発癌性物質を知らないことはなかった」と述べた。例えば、木を燃やす煙突や暖炉から煤は、人体を癌にする物質を含む。そして、古代の船の建造者が船を密閉し、防水処理するために熱した瀝青は、呼吸器官や消化器官の腫瘍と同様に肺癌に結びつく。彼は、「私たちが理解する以上に、癌が過去に事実上流行していたと思われる」とも述べた。

ポルトガルの放射線学者は、「形質人類学者が新型の高解像度のCTスキャナーを利用することで状況は変わるかもしれない」と述べる。彼とその同僚がM1を研究するために使用した設備は、放射線学者に斑点大の外傷でさえ視覚化することを可能にするために、0.33㎜のピクセル解像度を有した。

癌の原因や、病気の普及における環境、食事、遺伝子の複雑な相互作用を研究する科学者のために進歩したこのような発見は、数千年間人類を苦しめてきた病気を明らかにするかもしれない。


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エジプトの登録文化財が返ってきた2015年7月10日

7月5日に考古省は、数年前不法にカルナック神殿からロンドンへ持ち出されたトトメス4世の礼拝室の砂岩製柱の一部を、カイロにある外務省から受け取った。考古大臣マムドゥーハ・エルダマーティー氏は、「同省はロンドンにあるエジプト大使館と文化広報センターと協力して、この遺物を返還することに成功した。エジプトの文化財で、盗難されたことを知らなかった持ち主は話し合いの末、エジプトの領土に返還すると表明した。」と明らかにした

一方で、同省遺物返還部門長のアリー·アハマド氏の話によると「専門家にこの遺物を見てもらったところ、高さ29センチ、幅36センチで、間違いなく第18王朝時代に作られたアメン神のレリーフであることが確認された。今後このレリーフは、タハリールにあるエジプト考古学博物館で展示するため、一旦修復ラボに預けられる」と話している。


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1890年創建の聖ウジェニー教会を文化財登録2015年7月2日

エジプト最高評議会の理事会は、考古大臣マムドゥーハ・エルダマーティー氏主宰の前回の会合で、ポートサイド(エジプト北東部、地中海沿岸の都市)にある聖ウジェニー教会をイスラム・コプト遺跡の文化財として登録することに合意した。

イスラム・コプト遺跡部門長ムハンマド·アブドゥル·ラティーフ氏は「独特の建築様式が特徴的なこの教会は、1867年にスエズ運河運営会社がフランシスコ会に教会建設用の土地を献上し1890年に建設された、ポートサイドにおいて最も古い教会である。」と話している。

更にアブドゥル·ラティーフ氏は「高さと巨大さが特徴的なこの建築は、新古典主義建築様式で建てられ、石灰岩とレンガを使用しており、床には大理石が使用されている。」と付け加えた。


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グレコ・ローマン時代の花崗岩採石場が観光地に2015年7月2日

エジプト考古最高評議会の理事会が紅海のモノスクラウディアノスを含む幾つかの地域を、観光地マップに含めることに合意した。モノスクラウディアノスとは、グレコ・ローマン時代の花崗岩採石場であり、大規模な労働者の町や馬小屋、貯水槽などが残る最も重要な採石場の一つであると見なされている。ハルガダとカフトの間に位置するモノスクラウディアノスは、観光地にする準備が出来上がってからハルガダなどへの旅行者に途中で立ち寄ってもらう予定である。さらに同理事会は、スーダン共和国との博物館分野および文化財保存・修復分野における協定を結ぶことに合意した。


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若者が保護に立ち上がった2015年6月24日

今月4日に、エジプト人の若者が立ち上げたボランティア団体「エジプトの遺跡保護世話キャンペーン」が活動を開始した。この活動は、主に全国の悲惨な状態にある遺跡の周辺に不法投棄されたゴミを取り除き、場所を清掃することを目的としている。今回その最初のターゲットとして、今では完全にゴミ山と化かしたファーティマ朝時代のハーキム(996年 - 1021年)が建てた「7つのドーム」が選ばれた。

「我々は考古省と協力し、周辺の住民にこれらのドームがイスラーム時代の遺物として重要なものであり、また国の文化財でもあり、ひいてはエジプト文明の一部であるという意識を高めてもらおうとしている。またドームの周辺を清掃し、復活させ、清潔に保つことにより観光地にすることができる。」と団体のリーダーは話している。


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トトメス3世時代の神殿での発掘と修復2015年6月22日

2008年、スペインの学術団体とエジプト考古省の共同研究による、トトメス3世時代の神殿の発掘がルクソールで始まった。エジプト史上最も有名なファラオの1人の神殿とはいえ、この神殿はほとんど研究されず、ダレッシィ、ウェイガル、リッケといった考古学者が行った研究でも、その全体部分を発掘することはできなかった。1938年以降には、誰もこの遺跡に関心を持たず、忘れ去られ、再び砂に覆われた。

発掘調査では、はじめにウェイガルによって1906年に建てられた倉庫が発見された。その内部には、彼が発掘中に発見した膨大な量の遺物の断片が積み重ねられていた。また、この倉庫はリッケによって発見された遺物の一部の保管にも使用されていた。

この神殿は、異なる高さの3つの段丘の上に建てられている。構内は泥レンガの大規模な壁によって囲い込まれており、入口である巨大な塔門(パイロン)も泥レンガ製である。

囲い壁は、これまでに北部、南部、東部の壁が発見され、修復中である。この修復により、これまでの遺跡の美観が完全に変化した。また、塔門(パイロン)は「アラバスターの製作所」で作られた瓦礫によって部分的に覆われた状態で発見された。これは数少ないアラバスター製の状態の良い塔門(パイロン)の1つであり、神殿の建築様式について膨大な情報を与え得るものである。

遺跡の重要性を高める他の要素は、2つの丘の間に位置する点である。この遺跡は広大なネクロポリス(共同墓地)で、神殿のすぐ下に墓があり、それらの多くは中王国や第二中間期に作られた。2010年以降、調査では1室ないし数室の埋葬室に通じるシャフトを持つ墓と、シャフトと埋葬室の他に廊下が掘られた墓の2種類の墓が発見されてきた。これらの墓はたとえ古代の略奪を受けていたとしても、それでもなお興味深い遺物が発見された。2014年の発掘では、装身具と共に埋葬された女性が発見された。

14番墓では、アメジスト製の円筒形の護符や金の皿、そして20g以上の立派な細工が施された金の貝殻の形のペンダントと共に埋葬された女性が発見された。その女性は、両腕に金のバングルを、両くるぶしに銀のブレスレットを身に着けていた。そこは高位の者たちのネクロポリスで、中王国の裕福で重要な個人や、その家族が埋葬されていた。

2013年に発掘された11番墓には、葬祭施設やイケリィという名の人物の木棺の破片が保管されていた。また、その墓は後世に盗掘、再利用され、17本の異なる人骨、木製の模型の破片、カノポス壺、小立像といった遺物が発見された。特に重要なものとしては、象牙製のいわゆる「魔除けの棒」の20点の破片が保管されており、それは古代エジプト人の信仰について重要な情報を伝えている。


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200年前の紡績工場が高層マンションに2015年6月19日

ムハンマド・アリー朝の初代君主であり、オスマン帝国の属州エジプトの支配者として1805年から1848年までエジプト総督を務めたムハンマド・アリー・パシャが建てた紡績工場が実業家により買収され、それを解体し、高層マンションが建てられる予定となっている。この紡績工場は同じ時代に建てられたナイルダムと同様の建築様式をとっており、非常に珍しい建築である。


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一方でこの記事が載った次の日に、エジプト考古大臣マムドゥーハ・エルダマーティー氏は、「同工場は考古省の管理下にあり、誰にも買収された事実もなければ、これからも買収されることはない。」と事実を否定した。

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セクメトの像を調べる第三者委員会2015年6月18日

SNSで話題を呼んだカイロオペラハウスの大劇場の入り口に置かれていた「セクメトの像」がセメントで修復されているという批判を受けて、エジプト考古最高評議会の事務総長ムスタファー・アミーン氏は、「この一対の像は元々、元文化大臣ファルーク・ホスニー(1987-2011)の時代に“ファラオ村”に置かれており、1988年にオペラハウスの完成と同時に大劇場の入り口に置かれることになった。修復はそれ以前に行われたものである。」と述べている。

またセメントでの修復についての質問に対してムスタファー氏は、「それはあり得ないことである。いかなる修復家でもセメントを使うことは許されない。 そこで、カイロ考古学博物館の修復総監督官を含む第三者委員会を設け、この像の現状について報告書を早急に作成するように指示を出した。もし失態があった場合には、該当者に責任を追及し、像を元の状態に戻す」と付け加えた。


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考古大臣:聖シメオン修道院修復、観光地マップに2015年6月16日

エジプト南部アスワンの“フィラエ神殿“や“未完成のオベリスク”の視察中の エジプト考古大臣マムドゥーハ・エルダマーティー氏は、「カイロにあるドイツの東洋考古研究所と協力し、アスワン西部の聖シメオン修道院の修復を決定した。またエジプト考古省と同研究所との間に調印された協定によってアスワンにあるファーティマ朝時代のドームの修復プロジェクトも行われている。」と発表した。

5世紀に建てられ、13世紀の半ばごろまで使われていたこの修道院は、高さが5.5メートルで、面積が6フェッダーン(1フェダン=4200.833㎡)にも及んでいる。花崗岩や日干し煉瓦で建てられた建物を含んでいる非常にユニークなコプト式建築であり、唯一残されたパコミウス(修道規則)の修道院である。

この修道院は、コプト教徒の修道院でありながらイスラーム教徒の巡礼者を受け入れていた。当時モロッコからのメッカへの巡礼者たちは西砂漠での移動中にこの聖シメオン修道院に立ち止まり、もてなしを受けていた。ムスリムたちが修道院に泊まっている最中に壁に自分の名前を刻んでいたことから、ムスリムとコプト教徒との間には、宗教上の対立がなかったとうかがえる。毎年12月21日になると、聖シメオンの誕生祭が3日間にわたって行われ、エジプト全国からコプト教徒が集まる。


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考古省が遺物の販売を未然に防ぐ2015年6月15日

エジプト考古大臣マムドゥーハ・エルダマーティー氏はエジプトの外務省との協力でドイツのオークションにかけられる予定の遺物の像をその販売リストから外し、確保したことにより販売を未然に防いだ」と発表した。

確保された像は、2008年にアスワンでスイスの発掘調査隊が発見したものであり、2013年に盗まれるまではエレファンティネ島の倉庫に保管されていた。盗難が発覚してすぐに、発見次第取り返せるように考古省はインターポール(国際刑事警察機構)に通報したのである。

一方、遺物返還部門長のアリー·アハマド氏の話によると、「確保された像は、象牙で出来た小さなものであり、肩の上にシカを乗せた男性を表している。また他の盗難品があるかどうか、現在そのディーラーから話を詳しく聞いている」と話している。


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博物館倉庫の遺物にバーコードを2015年6月15日

国立文明博物館の遺物が保管されているフスタート倉庫で流出や遺物と複製品を入れ替える事件が相次いだのを受け、エジプト考古大臣マムドゥーハ・エルダマーティー氏は「博物館の倉庫の警備システムには欠陥があり、そこから泥棒が入ろうとするため、省を挙げて文化財を守るために立ち向かう必要がある。そこでそれぞれの遺物にバーコードをつけ、コンピュータで管理する新システムを導入する」と発表した。


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第二中間期時代の木棺をクルナ村からルクソール博物館へ2015年6月10日

6月8日に考古省の上エジプトの博物館部門は、“ネブ”の木棺のクルナ村からルクソール博物館への移動を無事に終えたことを祝い、数か月前ベルリン博物館で上映された「エジプトにおける宗教寛容性-古代エジプトの時代から現在に至るまで-」というドイツが製作した映画をルクソール博物館内で上映した。

まるで昨日作られたかのように色彩が鮮やかな“ネブ”の木棺は、2014年にルクソール西岸にあるハトシェプストの倉庫監督を務めていたジェフゥティの墓(TT11)付近でスペインの発掘調査隊によって発見されたものである。またこの棺は、ヒクソス(異国の支配者達の意)による支配の時代、いわゆる第二中間期という遺物が少ない時代に作られた非常に貴重なものである。長さ2メートル、幅は50㎝で、高さは42㎝である。


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19世紀のコプト教徒の霊柩車2015年6月10日

6月8日にカラーウーンモスクやカイトゥベーイモスクといったイスラーム時代の遺跡で有名なオールドカイロ、ガマリア地区の視察中に、エジプト考古大臣マムドゥーハ・エルダマーティー氏は、目にした霊柩車に関してすぐに持ち主と交渉し、エジプト国立文明博物館に移動する指示を出した。その霊柩車は19世紀に作られた木製のものであり、主に当時のコプト教徒たちが遺体を運ぶのに使っていたようである。


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史上初の詐欺?2015年6月9日

動物は古代エジプト人にとって崇拝対象であり、神殿への参拝者の間で動物の形で表されている神々の御利益を得るために、お金を払ってそれらの動物をミイラにする習慣があった。その頃から動物の持ち主や神官、建設現場の人々、そして墓の管理人などを中心としてミイラ製作が始まり、時間が経つにつれて、7000万体もの動物のミイラが製作されたことが分かる。しかし、果たしてこのような動物のミイラの中には外の包みと同じ動物が本当に入っていたのであろうか?イギリスのエジプト学者や放射能専門家がX線やCTスキャン装置にかけて行った調査の結果、ミイラの中にはその動物の一部しか入っていないものや、何も入っていない場合もあるということが発覚した。

イギリスのマンチェスター博物館とマンチェスター大学の研究者は、ミイラに害を与えないように子供専用のCTスキャン装置を利用した。

調査班長レディア・マクナイト氏は「これは詐欺ではなく、神聖な動物はその体の一部でも非常に重要で聖なるものであったため、とにかく手に入れ得る部分をミイラにしたと思われる」と述べている。また専門家は、動物のミイラのおびただしい数に鑑みて、詐欺があっても不思議ではない、と考えている。

マクナイト氏は「一部しか入っていない、または何も入っていないミイラがあることに疑問を抱くのは、現代人と古代エジプト人の信仰の価値観の違いによるものである。現代人はあらゆるものにおいてクオリティーを追求しているのに対して、古代エジプト人は、ミイラ製作に費やす富よりもそのミイラが後ほどもたらすご利益を重視していた」と話している。

またマクナイト氏は「今回の調査は気象や気候の専門家にとって当時のエジプトに生息していた動物や鳥の性質を知るきっかけになる。水が豊富な地域にしか生息しないトト神を表す鳥、イビス(トキ)がいたことから、当時のエジプトには緑が多かったと予想される。しかし、現在エジプトでは一切姿を現すことなく、アフリカの半砂漠地帯に生息している。」とさらに付け加えている。


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アスワンで末期王朝時代の6基の墓を発見2015年6月8日

エジプト考古大臣マムドゥーハ・エルダマーティー氏は、「アスワン・ヌビアにおけるエジプト発掘調査隊が発掘の一環としてアスワン西部にあるアガハーン廟周辺で新王国時代、第26王朝の墓を発見した、と発表した。 発見されたのは、ミイラが入った木棺や石棺の他、ファイアンス製の「ホルス神の息子達」の像やホルス神の木製の像や護符(お守り)などである。 またエルダマーティー氏は、これまで古・中・新王国時代の墓が発見されたこの地域での今回の発見は、はじめて末期王朝時代の墓を発見したという点で非常に重要であり、この発見によってアスワンの古代エジプトの墓の歴史が完成する」と述べた。

一方ではアスワン・ヌビア遺跡管理責任者のナスル・サラーマ氏は、今回発見された6基の墓のほとんどが入口に通じる30段の階段があり、それぞれの墓は全くレリーフがない3,4室に分かれている。またこれまでこの地域周辺で発見された岩窟墓と違って、今回の墓は丘のてっぺんで掘られた様式となっている、と話している。

アスワン・ヌビアにおけるエジプト発掘調査隊長のムスタファ・ハッサン・ハリール氏は、周辺地域が墓泥棒により無断で墓荒らしを受けたことがあると指摘しながら。今回の発見によって末期王朝時代における建築様式を知るきっかけとなる、と話している。


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アスワンで保存状態が良い20体のミイラを発見2015年6月8日

エジプト南部のアスワン遺跡管理責任者ナスル・サラーマ氏は「アガハーン廟周辺の地域は、アスワン西岸にある古・中・新王国時代の貴族の墓の延長で、歴史的に非常に重要な地域である。今回アガハーン廟周辺の地域で発見された6基の墓は末期王朝時代のものであり、この発見でこの地域の古代エジプトの歴史が完成する」と強調した。

またアスワン・ヌビアにおけるエジプト発掘調査隊によって発見されたこの6基の墓からエレファンティネ島の兵士だと思われる20体の保存状態が良いミイラが発見されており、この発見によって末期王朝時代におけるミイラ作りの技法が解明できると付け加えた。

歴史的に重要性があるこの地域は、かつてこの地域周辺で採れる石英を運ぶ港として栄えており、ラムセス2世の父であるセティ1世のオペリスクが発見されている。


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大エジプト博物館はサッカラの倉庫から247点の遺物を迎える2015年6月5日

エジプト考古大臣マムドゥーハ・エルダマーティー氏は、大エジプト博物館は6月4日にサッカラの第2号倉庫から遺物247点を迎えたと明らかにした。考古省が抱えている最も重要なプロジェクトであり、同省の大志を集大成するこの博物館は2018年の5月に先駆けてツタンカーメンのコレクションを公開し、2022年にグランドオープンとなると指摘した。

また大エジプト博物館長ターリク・タウフィーク氏は「受け取った247点の遺物は、様々な時代に作られたものであり、その中には色彩が鮮やかに残っている古王国時代の書記座像や新王国時代と末期王朝時代の棺や石碑、その他にチェコ発掘調査団と日本発掘調査団が発見したものもある」と述べた。

一方でサッカラ遺跡管理責任者アラー・エルシャッハート氏は「大博物館に無事に到着するように、これらの247点の準備や梱包作業に5月24日から6月3日までの時間をかけた。数日前にサッカラから搬送された185点を合わせると、これで大エジプト博物館はサッカラの倉庫から432点を受け取ったことになる」と述べた。


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真実の行方は?2015年6月4日

情報筋によれば、大エジプト博物館から青銅製の遺物が消失したとのことである。 同筋は「消失した遺物は大エジプト博物館の91号室の倉庫に納められており、時期を同じくして自ら辞表を出したムサアド・アブドルラージクという学芸員の管理下にあった。最終的にその遺物はデータベースに最初からなかったことにされた」と話している。一方では大エジプト博物館長ターリク・タウフィーク氏は倉庫が厳重に警備されており、いかなる遺物の消失や盗難もないとした。


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修復にセメントを使用していた?2015年6月4日

エジプトのメディアで修復に用いられている素材はセメントであると取り沙汰されたことに対して、ルクソール遺跡管理責任者ムスタファ・ワジーリ氏が6月3日(水曜日)に真っ向から否定し、修復には最新の材料を用いていると強調した。

またムスタファ氏は「使用されているのは、アランダイトやアセトンやパラロイドなどであり、必要に応じて石灰を使用することもある。これらの材料は全てエジプトに揃っており、不足しているものは海外から輸入する。確かに1990年代にこれらの材料が開発されるまではセメントが使用されていたが、エジプト考古最高評議会(SCA)は、エジプトの文化財を守るために、これらの材料が登場して以来使用している」と述べた。


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エジプト考古学博物館長が噂を否定する2015年6月3日

エジプト考古学博物館長マフムード・アルハルワギー氏は、エジプト考古学博物館から大エジプト博物館へ移動される棺という噂を否定した。

問題の発端は、数日前FBなどのSNS上でイクナートン王の棺の蓋がエジプト考古学博物館から大エジプト博物館へ担架で運ばれている写真が取り上げられたことにある。しかし、アルハルワギー氏は「話題となった写真の担架に担がれているイクナートン王の棺の蓋は、2011年1月の革命後、4年ぶりに再稼働した博物館内のCTスキャン装置や放射線測定室で蓋を分析するために一時的に移動しただけである」と話している。

またアルハルワギー氏は「この調査は、1907年にKV55号墓で発見されたこの棺の持ち主の身元を明らかにするための調査であり、様々な考古学の専門家が参加している」と付け加えた。「そして作業に用いられた担架は、棺を移動するために抗菌加工が施された専用の担架であり、移動は専門家の指導の下で熟練した技術者の手によって行われた。調査を終えた棺の蓋は、無事に元の展示場所に戻った」と強調している。


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またしてもヨーロッパのオークションにかけられている2015年6月2日

エジプト考古大臣マムドゥーハ・エルダマーティー氏は、ロンドンのオークションにかけられていたガラス製のフラスコを取り戻すために、国内的・国外的にも必要な法的措置を取ったと明らかにした。このフラスコは、昨年国立文明博物館の倉庫から盗まれた幾つかのランプと同様に、複製品にすり替えられ、ヨーロッパのオークションにかけられていた。同省遺物返還部門長のアリー·アハマド氏の話によると「このフラスコは14世紀のマムルーク王朝時代に作られたガラス製のもので、エナメル(釉薬)で植物模様が描かれており、底の部分には幾何学模様が描かれている。」とのことである。


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スイスから39点の遺物返還2015年6月1日

エジプトの考古省遺物返還部門長のアリー·アハマド氏は、5月27日に「スイスへ不法に密売された様々な時代の像や、石碑などといった39点の遺物がエジプト政府に返還される」と明らかにした。この返還は、スイスのユネスコの文化財不法輸出入等禁止条約(文化財の不法な輸入、輸出及び所有権移転を禁止し及び防止する手段に関する条約)の発効10周年記念祝典の一環として行われるものであり、この条約を通じて2010年にエジプトとスイスの間に結ばれた、不法に密売された遺物の返還を規定する協定に基づくものである。


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アピス像が破壊される その22015年6月1日

先日紹介した、破壊されたアピス像について詳細が明らかとなった。

アピス像の一部が、グレコ・ローマン博物館から海洋博物館への移送中に破壊されていた。この移送はヨーロッパで開催されるアレクサンドリアの水中考古学の巡回展の準備のために行われていた。

セラペウムで発見された玄武岩製のこの像は、2世紀のハドリアヌス帝時代に作られた像であり、1.9ⅿの高さを誇る非常に優れたものである。

このアピス像のような極めて重要な文化財は全て、展示会を目的とした移動が、これまで法律によって禁止されていた。しかし今回この像は、当局による承認の前に梱包され、移送された。

さらに考古省は、展示会の責任を負う会社が像に対する保険料を支払う必要がない事を報道しなかった。その代わりに、像の修復のための資金が、展示会に携わる海外の考古学者によって支払われたのである。

結果的にアピス像は不完全に修復された。エジプト考古学博物館のツタンカーメンの修復の件と同様の事態である。

この像はエジプト本土から離れるべきではない。なぜならば、この像は決して水中で発見されたものではなく、さらに法律によって保護されているからである。

この法律は、元考古省博物館部門長のアフメド・サラーフ氏が他の汚職で収監されている現実にも関わらず、法律としての体裁を維持している。


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ファイユームでピグミーのミイラを発見2015年6月1日

首都カイロから南西に130km離れたファイユーム県のガバルッズィーナで、農家が山の麓にある洞窟の中でミイラを発見した。より正確に言えばあの有名な童話である「白雪姫と7人の小人」に登場するピグミーに似ていると言える。フェネック(砂漠のキツネ)の巣穴のような場所で発見されたピグミーのミイラは、身長が60㎝から80㎝の間であり、保存状態が良い。髪の毛が残っており、両腕・両脚や足の爪から判断すると子供ではなく明らかに成人であることが分かる。考古学の筋によれば、エジプト考古大臣マムドゥーハ・エルダマーティー氏が考古学やミイラ専門家にそのピグミーの正確な年齢やどの時代に生きていたかを詳しく調べるように命じたそうである。


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メンフィスからベルギーへ流出、いつの間にか戻った!2015年5月29日

ギザ県南部のメンフィスの倉庫に納められていた“ニカ・サット・ハトホル”の座像がベルギーのオークションにかけられていたことが発覚したニュースがエジプトのメディアで報道された。報道後しばらくすると何者かから「メンフィスの博物館の警備室の前に置いておいた」と通報があり、警察が駆けつけると、確かにそこに本物の像があった。警察はどのような経緯で像が倉庫から持ち出され、ベルギーに流出したかを、容疑者として取り調べを受けているメンフィスの総監督官と犯行を隠ぺいするために複製品を作った職人から詳しく聞いている。石灰岩で作られたこの像は高さ10㎝、幅10㎝、奥行き7㎝の中王国時代のものであり、2011年にアメリカ発掘調査団によって発見されたものである。


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盗掘多発2015年5月28日

ここ3年間エジプトでは手っ取り早く富を手にするための方法として墓荒らしや盗掘をする現象が話題になっている。やがて現象から狂気に変わり、ごく最近では首都カイロから南西に130km離れたファイユーム県で覆面を被った武装団が遺跡敷地内に侵入し、警備員を脅し、強引に盗掘してしまうケースも見られるようになった。ファイユーム遺跡区域の担当責任者は、「このような現象はエジプト中の村で多発しており、残念なことにその罠に引っ掛かる人も多く、発掘中にトンネルが崩れて命を落としてしまう人も少なくない」と話している。

墓荒らしや盗掘は、今に始まったことではなく、古代エジプトの時代から頻繁に行われたものであり、王家の墓を掘る職人が王の埋葬後にその墓の埋葬品を盗むケースが当時からあった。その代表的な例にツタンカーメンの墓があり、未盗掘のままで発見されたと思われがちであるが、実は埋葬後にすぐ侵入されており、次のファラオであるアイがその盗品をお墓に戻し、封鎖壁に封印を示す印を押した。ハワード・カーターに1922年に発見されるまではそのままであった。

興味深いことに1983年までは盗掘や密売を罰する法律がなかった。1983年の法令119号によって初めて罰せられることになり、2010年の法令3号に基づき刑が禁固7年~15年まで厳罰化された。


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歴史の重要性と渋滞緩和のはざま2015年5月27日

エジプト北部、アレキサンドリア沖に眠るプトレマイオス朝時代の女王クレオパトラの宮殿跡のために建設が予定されている海底遺跡博物館の建設予定地が、駐車場にされる予定となった。この宮殿遺跡は、プトレマイオス朝時代の唯一現存する遺跡であり、マケドニアのアレクサンドロス大王よる建設以来、アレキサンドリアの歴史を伝える重要な文化財でもある。また、この地域は、1000年以上にわたってエジプトと世界との貿易の中心地として栄えていた東沖に位置する。一方で、現在この付近には地方裁判所があり、そこへ出入りする来客の車によって大渋滞が発生している。そのため、その区域の責任者によって「博物館建設予定地を一般駐車場にしよう」という提案がなされ、県庁で可決されてしまった。 はたして、最終的にこの問題がどう解決されるのか、注意深く見守っていきたい。


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消えた壁画2015年5月26日

デール・エル・ベルシャにある、中王国時代第12王朝のジェフティホテプの墓での略奪が確認された。その際、壁画の一部が25㎝×20㎝の大きさで切り取られ、密輸された。その墓は巨大な像が縄で引きずられている場面で有名である。墓から取り出された数点の遺物は現在、エジプト考古学博物館、大英博物館、メトロポリタン美術館に所蔵されている。


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盗掘を防ごう!2015年5月26日

エジプトの砂漠に位置するエル・ワディ・エル・ギディード県にあるグレコ・ロ-マン時代の墓が盗掘の被害を受けている。墓周辺に置き去りにされた人骨や、ミイラの残骸、容器の破片から判断すると、何者かが警備や保存を一切受けていない墓を狙って、富を手にする目的で犯行を行なっていることが分かる。ちなみにこのエル・ワディ・エル・ギディード県周辺には、様々な時代に造られた120におよぶ文化財があるが、それらの全てが未登録のままである。地元のガイドは「この辺りでは、あらかじめ偽物の遺跡を意図的に墓域に埋め、本物の遺跡のように見せかけ人を騙す、いわゆる「遺跡詐欺」が昔から若者たちによって盛んに行われている。考古省による警備の不在が、そのような墓荒らしや盗掘の原因ではないか」と話している。 また、地元の資料館長は「この問題に見られるように、文化財を守る問題は、その国だけの責任ではなく一般市民の問題でもある。市民には、自国の文化財が侵害される事がないように盗掘や遺跡の破損・被害などを通報する最低限の義務がある」と述べている。


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アピス像が破壊される2015年5月25日

またしても、エジプト考古大臣マムドゥーハ・エルダマーティー氏が批判を受けている。今回の批判は、当局(内閣僚)によるものであり、原因は、聖牛アピス像をグレコ・ローマン博物館の倉庫からヨーロッパで開催される海底遺跡展へ搬送する際、像の一部が破損し、秘密裏に修復されたことにある。それに加え、今回の厳しい批判は、大臣が搬送する像に保険金がかけられていなかったことにも起因している。


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アブメナがあぶない!2015年5月25日

エルサレムに次いで、世界中のキリスト教徒の巡礼者にとっての聖地であり、1979年にアレキサンドリアの唯一の世界遺産に登録されたアブメナ修道院は地下水の原因により、危機状態に陥り、危うく世界文化遺産リストから除外されるところである。購入した地下水を吸い上げるポンプが、指定のものと異なっていたため、購入の一年半後には、それらの半分以上が故障し、聖メナス廟をはじめとする多くの遺跡が、農業用排水による湛水被害を受けている。


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