
最優秀賞 1名
最優秀賞髙橋 千紘 (福岡県立筑紫丘高等学校 1年)
私はこの論文を書くにあたり一度自分の人生を振り返る機会を得た。人間関係で悩み、家族ともめ、毎日苦しくて投げ出したくなるような時期も中にはあった。しかし、大きな目で自分の人生を見つめた時、自分の幸せさと贅沢さに気づかされる。
世界には飢餓や格差差別、感染症など様々な原因で苦しみ、そして亡くなる人が数えきれないほどいる。その中でも、特に私が強く印象を受ける死亡原因は戦争である。新聞やテレビのニュースなどでは、毎日のように世界のどこかで戦争が起きているとの報告がある。最近ではイスラエルとパレスチナ自治政府、シリア間などの戦争が目立っている。こうして私が論文を書いている間にも、私と同じくらいの年齢の子供達が何も関係がないのに戦争によって殺されていると思うと、胸が痛くなる。
私たちは、当たり前のように学校へ行き勉強をして、自分の好きな部活ができ、毎日食事が食べられる。そして、この時代にこの日本で生きていられる。これ以上の幸せはないだろう。しかし、私たちはそのことになれてしまっている。なれて感謝することを忘れてしまっている。私たちはもっともっと、当たり前ということに感謝すべきではないのか。
戦争は何も世界に限ったことではない。かつて何十何百万人もの日本国民がお国のために命を捧げたことを、私たちは忘れてはならない。その経験があったからこそ、今の私たちがあり日本がある。戦後には、第二次世界大戦の反省を生かし、日本では日本国憲法を制定し絶対的な非暴力、非軍事力により平和の追求を求める平和主義という思想がうまれた。私たちは、のちの日本のために戦争で苦しんだ人たちの思いを受け継ぐべきであると思う。その上で二度と戦争をしないという日本の方針は絶対にゆれてはいけないものだと私は思っていた。
しかし、現在の日本ではそれが少しぶれてきている。集団的自衛権を行使可能にしようとされていることは、その大きな要因の一つである。専守防衛から、直接反撃されなくても他国の戦争に加わることができるという方向にむかっていることは、長く続いてきた日本国憲法の三本柱である平和主義を根本的に覆そうとしている。確かに日英防衛協力の可能性を大きくする面からみると、今回の憲法解釈変更は意味のあるものだったのかもしれない。しかし、戦後から約六十年間続いてきた日本の専守防衛という形が、一か月半というスピードで変更されようとしていることに抵抗があるというのは私だけではないはずだ。
また、中華民国との尖閣諸島問題や大韓民国との竹島問題も戦争につながる危険性として、十分に考えられる。
さらには、中国の傅瑩外事主任はドイツのミュンヘンで行われた国際安全保障会議で日中関係が「最悪な状態にある」と言い切ったとあり、また安部首相が靖国神社の参拝に訪れたことに対して諸外国が非難の目をむけていることなどと、現在の日本は近隣の国との緊張感が高まっているようだ。
先程あげたような近隣の国々と戦争が起こらないと確実にするためには、どうしたらよいのだろうか。
私の解決案としては、各国の政府機関が国民を通じて交流を深めることのできる取り組みを行うというものだ。具体的な取り組みとしては大きくわけて三つある。
一つは中国、韓国、北朝鮮、日本を含む四か国でスポーツ大会を開催することである。年に一度開催し、会場は各国の輪番とする。一つずつその国で生まれたスポーツをあげ、合計四つの競技種目で対戦する。このスポーツ大会を開催する利点として、スポーツを通して子どもから大人までお互いの文化を学ぶことができ、また四か国で協力して大会をつくることでお互いの関係性も改善できることがあげられる。
二つ目は小中学校の給食のメニューに近隣の国三か国の郷土料理を入れ込むという案だ。自分たちの郷土料理を相手の国に教えることは、自分たちの国の食文化を見つめ直すことにも繋がる。また、食を通じて異国とのコミュニケーションが発達すると私は考える。
三つ目は義務教育中に習う歴史の範囲を変更するというものだ。私が中学三年生までに習った歴史の範囲は、日本史が古代から現代までと世界史はおもにルネサンスあたりのヨーロッパの国々についてだったと思う。アジアの国々の歴史についてもほんの少しはふれたものの、ヨーロッパの歴史と比べればとても浅い内容であった。したがって、ヨーロッパの近世の歴史の学習内容を減らし、その分アジアの歴史について深く学ぶことを提案する。
このように、国民が幼い頃から近隣の国々の存在を意識し関心を持つことで、四か国間の隔たりが緩和され良好を保てるのではないかと考える。
今現在日本もそうであるように、国際関係の問題を解決しようとするとき、それはほとんど政府間の中で行われている。本来、国は民間によって成立されているはずである。民間同士が仲良くならない限り、その国同士の関係が良くなるとはとても思えない。そして近隣の国々と日本が仲良くなることができればその輪を広げていくことは可能なはずだ。
世界が一つの国家のようになって戦争というものがこの世からなくなる未来を私は描きたい。
優秀賞 2名
優秀賞高木 敏行 (石川県立金沢泉丘高等学校 1年)
僕は金沢市の隣の町に住んでいる。金沢市では2015年に北陸新幹線の開業を控え、初めて訪れる人にもわかりやすい都市となることを求められている。もちろん、それだけではない。北陸の中心都市と、城下町としての観光都市という2つの面を併せ持つ金沢市は、住む人にも、訪れる人にも優しい都市でなければならない。僕が高校生になって、金沢市へ通学するようになると、市内中心部を毎日バスで通るようになった。金沢駅から片町にかけての道路を中心とした市街地は、通勤通学客、観光客、買い物客など様々な立場の人たちが行き交う場所だ。毎日通っていると、「わかりやすく整備されているな」と思う一方で、「不便だな」と困ることもある。今回は、自分も毎日利用し、年齢や立場を問わず多くの人々が利用するであろう市内交通に的を絞り、改善案を提案する。
路面電車も地下鉄もない金沢市では市街地の公共交通はバスが中心であり、中心街では圧倒的な数のバスがメインストリートを行き交っている。数分待てば、いつでもバスが来る。僕達にとってはとても便利である。
しかし、外部から訪れた人たちにとっては、同じデザインをしたバスがどこに有るかも分からない郊外の行先を掲げて次々と入っては去ってゆくのであり、目的地へ行けるのかどうかわかりづらい。市内主要箇所を網羅して回る兼六園シャトルや周遊バスなどが目立つデザインで運行されているが、ガラ空き状態の一般路線バスが多数行き交う一方、それら観光客向けのバスが満員で、しばしば乗車を拒否せざるを得ないなど、折角の本数が無駄になっているように感じる。
より誰もがわかりやすいようにするために僕が提案するのは、市内中心部のバス路線をルートごとに色分けすることだ。そしてバスの車体やバス停に、それぞれ路線に対応する色のラインを引く。観光客など外部から訪れる人々は、主に都心内で短距離の移動を繰り返すことが多い。金沢市の観光地が都心に密集しているためである。バスは郊外の様々な場所の行先を掲げているので戸惑うが、都心では樹木の幹のように数パターンの路線に集約されている。都心での移動の際はどの「幹」を通るのかさえ分かればよい。それらを色で表せば、路線図から視覚的に通る「幹」がわかる。わざわざ郊外直通便と別に改めて市内循環便を多数運行しなくても、一般路線だけで十分わかりやすく、利用しやすくなるだろう。これは地元のあまりバスを利用したことがない人にも言えることであり、公共交通の利用促進により、CO2の削減や中心市街地の活性化、交通事業者の収支改善によるサービスの向上にもつながる。
カラーリングの恩恵はこれらだけではない。これまで観光客向けのバスしか使わなかった観光客も地元客も同じバスを利用することで、相互間の交流が深まる。
勿論、カラーリングは歴史都市として景観には配慮しなければならない。分かりやすさを重視してカラフルが街にあふれれば、特に歴史的な観光地付近では雰囲気を壊すことになる。ラインカラーはただ適当に決めるのではなく、沿線の風景のイメージに即してかつ似たような色にならないよう決定していく必要があるだろう。また、沿線の風景や名物をラインカラーで車体に描けば、さらにわかりやすく、かつ「金沢」を感じさせることができる。
バスを降りてからも問題がある。慣れない地では方向感覚を失いがちだ。特に金沢市は道路が狭く入り組んでいるのでよく道に迷う。僕も市内のあまり行かない場所では、ほぼ確実に道に迷ってしまう。そんな時に周辺の詳しい地図があると安心する。しかし金沢市では、武蔵ヶ辻や南町、橋場町などの主要なバス停でさえ、周辺地図を備えていない。そのうえ、主要観光地の最寄りバス停で降りても、そこへの案内看板すら見当たらず、どちらへ歩けばいいのかわからない。金沢市の場合、主要観光地へ行くには細い路地へ入らなければならない場合が多い。案内看板も立っていないような路地に入るのは不安なものである。移動の拠点であるバス停には、ぜひ地図を備え、主要観光地へ通じる路地には、案内看板を取り付けるべきだろう。
現在金沢市のバスはほとんどノンステップである、英語による案内が充実しているなど、とても先進的な交通機関になっている。交通政策は人の流れを活性化することであり、まちづくりと密接にかかわっている。一方でバスや鉄道は私企業による運行であり、行政だけで行える施策に限界がある。交通事業を行う私企業も近年の自家用車の普及によって厳しい経営を迫られており、やりたい施策ができずに困っている。訪れる人にも、暮らす人にも優しいまちにするために、運営企業と行政、そして私たち利用者も意見を述べることによって、積極的に交通政策に協力して取り組まなければならないだろう。
優秀賞吉川 美香利 (京都産業大学附属高等学校 2年)
「ネット依存中高生51万人」、今年の8月2日付新聞の第一面のトップ記事である。記事の内容は以下の通りである。昨年10月から今年3月にかけて、厚生労働省が47都道府県の中高生約14万人を対象に調査した結果から推計したところ、「ネット依存の生徒が約51万8千人であろう」ということ。さらに、「ネット依存が強いと昼夜が逆転し睡眠障害などにつながる恐れがあり、精神面への悪影響も懸念される。適切な使い方に関する教育が必要で、相談・診療体制も速やかに整えるべきだ。」と訴えていた。
しかし、このような調査をするまでもなく、このような現実が存在していることは、すでに世間一般に知れ渡っている。各家庭でのパソコンの普及率は80%をゆうに超えているし、ほとんどの中高生は、手軽に使える携帯電話・スマートフォン(以下、携帯電話とする)を所持し、毎日何時間もそれを使用している。私たち高校生は、小学校でも、中学校でも、高校でも、携帯電話やパソコンに関しての授業を何度も受け、学んできているが、ネット依存は減少するどころか、ますます増加していると考えられる。
記事には、「診療体制を整えるべきだ」とあるが、これはすなわち、様々な機能を使うことのできる携帯電話を持つ、またはパソコンを持つことを前提に考えた発言である。しかし、その前提を根本的に変えなければ、ネット依存は解消できないのではないかと、私は思うのである。例えば、風邪をひけば病院へ行き、薬をもらい、服用する。だが、その前に、風邪をひかないための予防を私たちは奨励されている。外から帰ったらうがいや手洗いをするように呼び掛けられ、きちんと行っている人は多い。そのおかげで、風邪をひかないという人も多いはずである。ならば、ネット依存にも予防法があるのではないか。そこで、ネット依存の解消法として、次のように考えた。
まずは携帯電話である。子どもに携帯電話を与える保護者の側からすると、何かあったときに心配だから持たせる、という考えが一番多いはずである。しかし、安全面のみ考慮すると、携帯電話そのものには電話機能とGPS機能さえあればよいのではないか。その他の機能はいっさい必要ないのである。ということで、携帯電話を使用したいと希望する人は誰でも持つことができるが、電話機能とGPS機能のみが使用可能なものに限る。そしていくつかの段階に分け、適性試験を受け、メール、ネットやアプリへと匿名性の高い機能を追加できる免許を取得する。つまり、免許を取ればその分自分の携帯電話に機能が増えていくわけである。
自動車の免許を思い浮かべてほしい。運転するには免許が必要である。また、運転する車種によって免許が異なるのである。さらに、違反をすれば罰金があり、あまりにも酷い場合は、免許が取り上げられることもある。これにならえば、携帯電話についても、違反すれば、免許停止や取り上げといった罰則も必要になってくるであろう。
連日、SNSサイトのツイッターなどで次々と指摘される馬鹿馬鹿しい行為がそれに当てはまる。テーマパークのアトラクションでの大学生の異常な行動、飲食店でのアルバイト店員の不衛生な行動などだ。なぜ、誰でも判別のつくような非常識な行為を行い、そのうえそれを全世界に向けて発信するのであろうか。それは、一番開かれている場を、一番閉ざされている場と思っているからである。まさに勉強不足そのもの。ゆえに免許制度が必要なことは明らかである。むろん、先ほど述べたような行為をした人たちは、即日免許取り上げとなるうえに、罰金等の法的手段も行使することになるだろう。
次にパソコンであるが、携帯電話と同様に免許を持つこととする。ただ携帯電話と違い、パソコン本体に機能を追加していくのではなく、カード式の免許を持ち、それをパソコンに差し込んで使用する。また、不正使用を防ぐために指紋認証システムを用い、個を断定して使用することとなる。
以上が私のネット依存に対する解消法である。明日からでも実行しようと思えばできる案であり、やるべきであると私は思う。
調べたところ、我が国での子どもによるネット利用は、先進国の中では下位にあると記載されていた。幼い頃からネットの世界に親しまなければ、世界に遅れをとるのかもしれない。しかし、その特性を理解して正しく利用していくことが、今後の世代にとっては必要なのではないだろうか。ネットを有効に活用し、自分を向上させるために使用するのか、不毛なものにするのかは、私たち一人ひとりの知識と判断力にかかっていると思う。
これから、日本のネットにおけるグローバルな活躍を期待するのであれば、早急に免許制度を導入することが望ましいだろう。携帯電話やパソコンに関する免許制度が実現すれば、中高生のネット依存は解消し、そのうえ世界に通じるネット世代が生まれると私は確信している。