道頓堀五座の風景
道頓堀は、東横堀川と西横堀川の汚濁を解消するため、慶長17年(1612)に、成安道頓によって起工され、元和元年(1615)に完成しました。当初は新川と呼ばれていましたが、当時の大坂城主松平忠明が大坂夏の陣で戦死した道頓を悼んで「道頓堀」と命名したと伝えられています。
その後、成安道頓の徒弟であった安井道卜は、南組総年寄に取り立てられ、道頓堀沿岸の開発をすすめ、寛文3年(1626)に、勘四郎町(中央区安堂寺橋佐野屋橋筋以西)にあった芝居を道頓堀南側に移したことで、道頓堀には芝居小屋が立ち並ぶようになりました。そこで、小屋の乱立を防ぎ、格式を持たせるため、承応元年(1652)に「名代制度」が導入されます。名代とは興行権のことで、名代を官許された印として劇場正面には櫓(やぐら)が高く掲げられました。『摂陽奇観』によれば、承応元年(1652)に中之芝居の塩屋九郎右衛門・角之芝居の大坂太左衛門・大西芝居の松本名左衛門の三名代が許可されています。
最盛期には、歌舞伎六座、浄瑠璃五座、からくり一座の計十二座が軒を並べていました。天保13年(1842)の改革令で、「筑後の芝居(大西の芝居)」・「中の芝居」・「角の芝居」・「若太夫の芝居(若太夫座)」・「竹田の芝居」の五座に減らされますが、川側の通りには芝居茶屋が立ち並び、芝居街として大いに賑わいました。明治時代には、筑後の芝居(大西の芝居)が「浪花座」に、中の芝居が「中座」に、角の芝居が「角座」に、竹田の芝居が「弁天座」へと改称され、「朝日座」とあわせて、「道頓堀五座」と呼ばれるようになりました。
センターでは、大阪を代表する道頓堀界隈を、大正12年(1923)に松竹座が完成する以前の街並みを中心にコンピュータグラフィックスで復元しています。

道頓堀五座の復元 (静止画)
道頓堀五座の風景 (動画)
幻の洋風浪花座編
幻の洋風浪花座を、中村儀右衛門資料や現存する劇場を参考に可視化
林武文ゼミ(総合情報学部)での取り組み~パノラマ画像を用いたインタラクティブコンテンツ
本研究センターの林武文研究員(総合情報学部教授)のゼミでは、関西大学総合情報学部の大学生・大学院生が、大正期の道頓堀の再現CGを応用して様ざまなスタイルのコンテンツを研究しています。
再現CGを、ウェブサイトを通じてパソコンで操作することができるようにしたものや、CGのデータサイズを小さくしてスマートフォンやタブレットPCなどの携帯端末でもインタラクティブに操作できるようにしたものを実験しています。
パソコンでのコンテンツは、実際に道頓堀に行かなくても、インターネット上で大正と平成、両方の道頓堀が体験できます。
携帯端末でのコンテンツは、観光者用の旅行ガイダンスが目的で、観光客が21世紀の大阪道頓堀の通りを歩いている際に、大正時代の道頓堀の景観を見ることができます。

