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第12回 2012/12/3

芝居画家 山田伸吉の世界

 みなさんは、山田伸吉という大阪の画家をご存じでしょうか。  「ああ、山田伸吉といえば、松竹のポスターや舞台のデザインをしていた人ね」という方もおられるでしょう。  現在、関西大学博物館で開催中の第4回大阪都市遺産フォーラム特別企画展「道頓堀今昔‐芝居画家 山田伸吉の世界‐」では、これまで知られていたのとはちがった山田伸吉の世界をご紹介しています。

 山田伸吉は、20世紀の最初の年に、現在の大阪市西淀川区姫島で生まれ、大正11年(1922)ごろに大阪松竹宣伝部に入社し、映画や舞台のポスターのデザイナーとして活躍するほか、大正12年に竣工した大阪松竹座の開場を契機に創刊された「SHOCHIKUZA NEWS」の表紙絵を手掛けました。また、大正15年に始まり、現在でも大阪松竹座の春を彩る「春のおどり」などの舞台背景デザインにも携わり、華やかな舞台を支える裏方として活躍しました。やがて、その才能が認められて、大阪ゆかりの作家たちの書籍の装丁や表紙絵、挿絵など活動の幅を広げていきます。なかでも大阪出身の小説家長谷川幸延は、その著書に山田の装丁をもっとも多く採用し、二人は公私にわたって深い絆で結ばれます。

 かねて洋画家としての夢を抱いていた山田は、京都松竹座が全焼した昭和12年(1937)に、第15回春陽会に初出品し、入選しました。それ以後、第20回春陽会まで連続出品したほか、昭和36年(1961)まではほぼ毎年、新文展・独立美術協会展・二科展に出品しています。新進気鋭の洋画家として夢を叶えたものの、その作風は親交のあった鳥海青児の画風を目指したもので、それが山田を悩ませることになります。当時、山田と同じ新進の洋画家たちは鳥海青児の画風に影響を受けており、それらは鳥海の「沢山の追随者」と評されたからです。

 苦悩の末、山田は「芝居画」という新たな境地を見出します。これまでは歌舞伎役者を描いた「役者絵」は多くあったものの、役者だけではなく、舞台背景も含めた歌舞伎の名場面を油彩画で描くという新たなジャンルを切り拓いたのです。若き日に松竹の舞台意匠を手掛けた山田伸吉ならではの真骨頂だといえるでしょう。「芝居画家山田伸吉」の誕生です。昭和38年(1963)に京都の土橋画廊で開催された初の個展「名舞台油彩絵展」を皮切りに各地で個展や頒布会が行われ、好評を博しました。日本国内にとどまらず、山田の芝居画はアメリカでも人気があったようで、それが縁で昭和48年(1973)に、ラスベガスへと外遊します。「ラスベガスに大阪の法善寺横丁をこしらえてくる」と旅立った山田でしたが、その試みは成功しなかったようです。

 昭和56年(1981)3月に山田は亡くなりますが、その年の6月に刊行された浅田柳一『なにわ歳時記 忘れかけてる庶民史』(清文堂)の挿絵には、古きよき大阪の風景が山田によって描かれており、大阪を愛した山田伸吉が、われわれに何かを語りかけてくれているように感じられます。

 センターと山田伸吉との絆は、二枚の絵から始まりました。その一枚「道頓堀今昔」は、かつて道頓堀のすし半松五郎に飾られていたもので、平成22年(2010)にご寄贈いただいたものです。「道頓堀五座」と呼ばれ、芝居小屋が軒を連ねて賑わった道頓堀の太座衛門橋の南側から望んだ風景を山田伸吉が描き、その上に長谷川幸延が賛文をしたためたものです。

 肥田晧三先生によると、昭和56年6月に「山田伸吉氏を偲ぶ会」がすし半松五郎で催され、その会場となった広間の壁には、これと同じ図様のものが描かれていたそうです。この作品がいつ描かれたものなのかは定かではありませんが、もしかすると、ラスベガスで果たせなかった夢を山田が若き頃に活躍した道頓堀という「舞台」に意匠を凝らしたものなのかもしれません。

 特別企画展は今月15日まで開催しています(月~土 10時~16時)。また、12月8日には、道頓堀の明日を考えることをテーマとしたフォーラムも行われます。師走の慌ただしさをしばし忘れ、大正から昭和の大阪が生んだ芝居画家山田伸吉の世界を楽しんでみてはいかがでしょうか。

   
yamada

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